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ドリップには関係なく、ひとりで家にいるときもよく考える。今なにしてるのかな。どのあたりまで帰ってきてるのかな。ただいまのあとの一言目はなんだろう。
これ以上となれば、どのあたりに彼のことを考えるスペースを増やせばいいのか教えていただきたい。
「今はどんなこと考えながら淹れてるの?」
「思いがけず嬉しい答えが来たから、どうお返ししようかなって」
「喜ばせるようなこと言った?」
「無自覚バンザイ」
少量ずつ湯を注ぎドリップを続ける手慣れた姿は、どんなバリスタにも負けていない。
カウンターの向こうから白いシャツにエプロンで『いらっしゃいませ』と微笑まれたら、きっと彼自身をオーダーする声が殺到してしまう。
ドリッパーで膨らむ茶色い泡を見つめる視線が、ハンバーグを食べるときより愛しげに細まる。すぐに消えてなくなるものにまで妬けてしまいそうだ。
自分が淹れても見た目は同じ黒い海がサーバーの中、深さを増していく。
「コーヒーを淹れてるときだけじゃないよ?いつも考えてる。指輪だって薬指につけてもいいかなって…思ったんだけど」
「待て。それはちゃんと結婚してからにしよう」
肌に優しい瞬間接着剤はないものかと悩みたいくらいには誇示したくなっていた、今朝。
結婚指輪をはめる日が来れば、憧れも誇示も同時に手にできる。ならそれまでは薬指につけたままでいいかとも考えた。
それでも。
ふたつ揃うまでは今まで通り長年の憧れを優先させてもらいたいと、お願いするつもりだった。
「薬指になくても…いいの?」
「今日なにかあっただろ?話せないこと?」
職場柄、アクセサリー扱いになってしまう彼の小指の輪。勤務中は職場のロッカーが定位置になっているそうだ。
毎回わざわざ外して、つけ直して。
本来なら必要のない手間をかけさせているし、プロポーズで指輪をもらったその日から薬指につけたがっていることも知っている。
自分の手間など微塵も気になっていないのだろう。一旦ケトルを置き覗き込んでくる顔はひたすらに、こちらの気持ちの動向だけを心配してくれている。
「どうして分かるの?」
「声の調子」
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