2 ホーフェンシュタイン美術館秘蔵アート・コレクション展

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2 ホーフェンシュタイン美術館秘蔵アート・コレクション展

 翌日、真夜中過ぎに他の者と交代した高村は、再び午前中の遅い時間に任務に就いた。  この日も午前中のスケジュールは白紙で、アルフレート王子は朝からビジネスに勤しんでいた。  随行者たちの話によると、王子は大学卒業後、数年間スイスの企業に勤めていたが、二、三年前にそこを辞めて父皇太子の補佐役を始め、現在では侯爵家所有の企業と財団のトップをいくつか務めている、とのことだった。  王子の経歴は高村も資料を通し、ある程度は知っていたが、今現在何をやっているのかまでは具体的には知らなかった。  ファミリービジネスとはいえ二十代で大企業のトップか、大変そうすぎて、羨ましいともなんとも思えないな…、と彼はどこか呑気に考えた。  日本の一警察官である彼にはあまりにもかけ離れ過ぎた非現実的な世界の話だ。  もちろんVIPと接する今までの職務上の経験から、確実に地球上のどこかには存在する人々だと知ってはいるのだが。  その空いている午前中に、高村はこれからの日本滞在中のスケジュールについて、王子側のマネージメント担当者、ボディーガード、関係省庁の担当役人や日本とスイスの大使館員らと詰めの打ち合わせを行なった。  ホーフェンシュタイン公国は日本に公館がなく、通常はスイス大使館が代行して業務を行なっているので、その関係で今回はスイス大使館からも人が派遣されている。  具体的な打ち合わせを終えると、いよいよ本格的な行事、宮中午餐会に出かけるための準備が始まった。  皇居での午餐会───つまり昼食会は二十人程度のごく小規模なものだった。  アルフレート王子の身分や訪日の目的を考えれば妥当といえる。  黒のモーニングコートに同色のベスト、白のウイングカラーとシャツという昼の正礼服を慣れた風に着こなした王子は、その麗しさも、気品も、公式の場に慣れているはずの人々の中でも一際目立っていた。  ささやかな催しであったことも幸いしたのかもしれない。日本人の血を引くも、この地を踏むのが初めてだという名門の家柄の王子に対して、その場の雰囲気は温かなものだった。  誰もが眼福とばかりに王子に好意的に話しかけ、王子もまた落ち着いた振る舞いと控えめな笑顔でそれに対応していた。  後ろに控える高村は、つい先刻まではどこか幼い───というか、内気な感じがしていた若者の堂々とした様子に、やはり中身は帝王学を身につけた完璧な外交官なのだと、こちらもまた完璧なポーカーフェイスの下で感心した。  生粋のヨーロッパ貴族の父を持つのだから、その顔立ちがそちら側の人々に紛れてほぼ違和感がないのは当たり前だが、抑制の利いた仕草やシャイな微笑は日本人のそれにも重なり───そういった意味では、彼は今周囲にいる日本人や同国人の誰とも似ず、まるで彼一人が違う次元に存在しているかのようだった。  それが彼を“特別な人間(ブルーブラッド)”として、孤高の存在として、際立たせてもいたが───同時に孤独に見えるのも否めなかった。  それこそが庶民の上に立つべく定められた人間の負う、“宿命”なのかもしれないが………。  昼食会はつつがなく終了した。  午後は今回の訪日の最大の目的である絵画展の視察が待っている。  着替えのためにいったんホテルに戻った後、再び一行はリムジンで港区にあるナショナル・ギャラリーに向かった。  ナショナル・ギャラリー開催『ホーフェンシュタイン美術館秘蔵アート・コレクション展』の会期はすでに始まっていたが、美術館はこの日休館日で、王子一行と関係マスコミのためだけに特別に開館していた。  館長ほか関係者が王子の傍らに侍り、通常ならば作品の解説を───といったところだが、相手はこのコレクションの持ち主だ。  そのため、館長のお喋りはもっぱら侯爵家への最大の賛辞に始まり、美術品運搬の苦労や展示の工夫などに終始していた。  『視察』というのはあくまでもこの訪日の名目にすぎない。  ホーフェンシュタイン家の一員を招聘した目的は展覧会のPRだ。  しかし、アルフレート王子は周囲のお喋りに耳を傾ける様子もなく、まるで引き込まれるように一点一点の絵画を鑑賞していた。  今回貸し出されたコレクションは侯爵家が所有する膨大な美術品のほんの一部にすぎない。  日本人にも聞き覚えのある有名なバロック期を代表する画家の、これまた超有名作品が目玉であるほかに、無名の………とはいえ、実際には値のつけられぬ───侯爵家のコレクションが“世界最高級”と称される由縁でもある───数々の作品が贅沢に展示されていた。  それを熱心に見つめる彼は、すなわち観る目(・・・)を養われて育った人間なのだろう。  いつしか展示室はシンとした静寂に包まれていた。  高村は当然「お宝の山」などには目もくれず、感受性豊かな青白い横顔を、最初の内は感心しつつ見つめていたのだが、そのうち、この場にいる誰もが考えていそうな思いを頭の中に浮かべた。  すなわち、「自分んちで見れよ」───である。  もっとも侯爵家が所有する膨大な───個人所有としてはおそらく世界最高レベルといわれる───美術品の数々は、長い間、ウィーンやロンドンに分散して保管されていた。  背景には、ホーフェンシュタイン公国にはつい最近まで大規模な美術館がなかったことが関係している。なにせ侯爵家一族の方が国家より金持ちなのだ。  一族であるならば侯爵家所有の美術品をいつでも目にする権利はあるのだろうが、さすがに自宅の居間に並べて鑑賞する───というのは現実的ではなかったのだろう。  王子の醸し出す思いがけない緊張と静寂に周囲が慣れてきた頃、不意に彼の視線が一点に止まった。  それまで、王子はいかにも「わかっている」といった風情で、真剣な眼差しで、一点一点作品を「鑑賞」していたのだが、その作品(・・)を目にした途端、まるでふぅっと心が吸い込まれるように───王子の意識が集中したのがわかった。  それは、三号か四号程度の小さな、無心で眠りにつく赤ちゃんの絵だった。  まるでポートレイトのように精緻な描写で、濃い金髪か栗色の髪はクルクルとカールしていて愛らしく、肌は真っ白で、福々しい頬だけが鮮やかなオレンジがかったピンク色だった。  閉じている目。開けると瞳は何色なのか。  天国のような花園で極上の眠りについているのだろう───。  そんな風に思わせる、幸福感に満ちた作品だった。  作者は誰だか知らないが、一般受けしそうな絵だなと高村は一瞥して思った。  彼の注意は、ただじっと作品を見つめる王子の方に向けられていた。  他の作品よりほんの少しだけ長く、その絵の前にいた王子は、やがて静かに、何事もなかったかのように歩き出した。  さすが“賓客”のプロフェッショナル。美術鑑賞にはたっぷり時間を取ったように思えたが、王子は予定時間ぴったりに最後の展示スペースを後にした。  夜、外務省や文化庁、大使館などが共催する盛大なディナー・パーティーが、王子一行が宿泊するホテルとは別の───同ランクの高級ホテルで行われた。  別に機会を設けた皇族や首相は列席しなかったが、今回の絵画展の関係者や、文化人を自称する政治家や財界人が多数招かれ、大広間は華やかな様相を呈していた。  明日もパーティーが予定されているので、この二日間が今回の訪日の一番の山場といえよう。  どちらもメインゲストは日本の血を引く、ヨーロッパ貴族の貴公子で、話題性は十分だった。  黒のタキシード姿も麗しいアルフレート王子は、主賓としての注目を一身に集めつつ、周囲から期待された役割を几帳面にこなしていた。  生真面目そうな態度は終始崩れることはなかったが、誰かが親しげに話しかければにっこりと微笑み返し、ジョークを口にすれば肩を揺らして笑ってみせた。  会場にはダンスフロアが設けられていて、勇気ある日本人女性の誘いにも平静に───この辺はさすがに外国人&上流社会の人間といえる───手に手を取って周囲を沸かせ、パートナーの女性に恥をかかせない程度の時間、優雅にステップを踏んでいた。  その後、我も我もと湧いた女性陣には、例の女性秘書や他のお付きの者たちが角を立てないように断っていたが………。  パーティーの間、陰に控えている高村は、いっときも警護対象者である王子から目を離さなかった。  イヤホンを片耳に装着し、ネクタイをカチリと締めて、ボタンを掛けない長めの丈のブラックスーツの襟にはツートーンのSPバッジ。  一目で護衛官とわかる格好の彼だが、長身かつ公務員にあるまじきその整った容貌は、一部の女性ゲストからは熱い視線を集めていた。  もっとも、プロとして訓練された厳格な雰囲気を漂わせる彼に対して、不謹慎な行動に出るような不埒な出席者はさすがにいなかった。  彼の引き締まった表情もそんなふざけた眼差しや思惑を一切撥ね付けている。  誰もが着飾って、上機嫌にお喋りとグラスを交わす、煌びやかなひととき。  日本は外国に比べると確実に平和だ。  この国を訪れた、国家元首でもない王族に危険が及ぶような可能性は限りなく低いが、かといって、その可能性がゼロだと断言できる人間は、神でもない限りいないはずだった。  そこが日本における警護活動の、ある意味難しい一面だ。  政治家の中にはセキュリティ・ポリスをまるで自らのステイタスのように勘違いする向きもなくはないが、高村たちの任務はあくまでも身辺警護。万が一の時には命を賭しても警護対象者を守り抜く───それが彼らに課せられた使命だった。  そして、その万が一の瞬間のためだけに、彼らは存在しているといっても過言ではない。  訓練を受けた人間でないと務まらない困難な仕事であり、高い身体能力と知能が要求される。  だからこそ最前線にいられる時期は短くて───…。  ………けれど、これが仕事───?  高村の頭の中で、なにかが頭をもたげた。  政財界人や文化人が集う、特権意識に充ち満ちた、馬鹿みたいに金のかかるパーティーを、他人事のように眺めているのが………。  ───これも仕事だ。  彼はぴしゃりと内なる声に蓋をした。  楽しいだけの仕事などない。今よりプライドを感じられない仕事など、社会にはごまんとある。  大卒だがノンキャリの彼は、警察官を拝命して以来、昇進試験はもちろん、忙しい任務の合間を縫って射撃、武道などの鍛錬に励んできた。  その結果が精鋭部隊であるこの警護課への配属だった。  ───と、彼は長い間信じてきた。  だが彼は、仕事で金星をあげたこともなければ、逆にこれといったミスを犯したこともない。  そしてそれは同年代の大多数の警察官もほぼ同じはず。  その彼が花形の警護課に配属されたのは、任務とは直接関係のない剣道の全国大会での成績やこの容姿が関係していないとは………───心の奥底では、言い切れなくなっている自分がいた。  そんな愚かしい疑念を振り払いたくて、より一層任務に打ち込んできたのだが………。  誰もが憧れるバッジを胸に付けて、今、ここにいるのに、その“任務”に誇りと情熱を見い出せなくなっていたとしたら………。  ───まだ大丈夫。  今回の警護対象者の若い横顔を見つめつつ、彼は自分に言い聞かせた。  パーティーは盛況だったが、王子一行は予定の時刻に退席した。  宿泊しているホテルの最上階に着いた時、高村は、アルフレート王子が疲労の色を隠せずにいることに気がついた。  そのため彼は定時の報告を短く切り上げると、日本側の関係者を誰にも気づかせない手際で王子の前から退出させようとした───もちろん自分も含めて。  とはいえ、まだ自分のシフトは終わっていない。彼は関係者が出て行くのを見送りつつ、一人いつもの、リビングのドアと廊下に挟まれた小部屋に残った。  やがて、王子の部屋に最後まで残っていた向こう側の人間がドアから出てくると、その背後には王子がいて、彼らは最後の最後までドイツ語で会話を続けていた。  王子の大柄な部下は、高村の前を通り過ぎ、廊下に出るドアに手を掛けながら、 「残りの仕事は明日にしましょう」  とでもいうような内容を口にしつつ、軽く肩をすくめた。  そればまるで、仕事熱心な日本人ビジネスマンに対する欧米人のようなジャスチャーだった。  部下はそのまま部屋を出て行った。  そひ高村がリビング側のドアに目を転じると、王子は戸口に立っていた。 「まだ勤務時間なんですか?」 「───!」  これまでも王子の声は何度か聞いていた。  それがこんなにも低くて男らしいものだと───若々しい外見に不釣り合いなくらい艶めいたものだと気づいたのは初めてだった。  それくらい、初めて耳にする彼の日本語は柔らかく響いた。 「───はい。あと三十分で交代です」 「ご苦労様です。疲れたでしょう」 「いえ、仕事ですから」  凡庸な言葉しか出てこないと高村は内心自嘲した。 「殿下こそお疲れでしょう。ゆっくりとお休みになってください」  昨日も似たような内容を違う言葉で伝えた。  だが今のは、どこか精彩のない相手を気遣う心から出た真実の言葉だったので、高村はいくつも年下の相手の目をまっすぐに見ることができた。  すると思いがけず、相手もじっと彼を見据えていた。  目が悪いのかと、高村は咄嗟に思った。 「殿下?」 「───疲れた顔、してますか?」 「………多少は………」  どうやら自分の気遣いは相手には気づかれていたらしい。 「ホテルに戻ってきて、ホッとされたのではありませんか?」  それはホテルに帰ってきてからだと、人目のあるパーティー会場ではそんな様子は見られなかったと高村は言外に告げた。  それが通じたのかはわからないが、相手は表情を変えず、わずかに首を振る仕草を見せた。 「───あなたも勤務が終わったら、ゆっくり休んで下さい」 「ありがとうございます。おやすみなさい、殿下」 「………」  再び相手の視線が高村に止まった。  躊躇った気配は気のせいか………。 「Gute Nacht」  王子は、もはや高村にも耳馴染みとなった異国の言葉を囁くように口にすると、身を引きながらとドアを閉めた。  彼はぼんやりと、王子のあの声で告げられる「おやすみなさい」はどんな響きなのかと考えた。
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