3-2 公式日程最終日

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3-2 公式日程最終日

 そんな風に始まった四日目の朝。  公式日程は最終日を迎えた。  今日は昼前にまた宮中で行事があり、その後、初めて侯爵家側からの───正確には、ホーフェンシュタイン公国の政府観光会議局主催による───午餐会と二国間観光フォーラムが予定されていた。  パーティーはいわば侯爵家側からの答礼行事のようなものだが、大仰な行事が省略された今回の訪問の性質上、皇族や首相の出席はなかった。  今日で日本側から要請した公式日程は全て終了するため、いわばフェアウェル・パーティーの要素もあって、日本側の関係者はホッと一息吐き───午餐会は和やかな雰囲気のうちに終了した。  両国の観光事業を盛り上げるために企画された観光フォーラムは、美術館の視察を除けば、今回のアルフレート王子の訪日スケジュールの中ではもっともビジネスに近いものだった。  このフォーラムもその前の午餐会も王子一行が宿泊しているホテルで行われた。  フォーラムの出席者や見学者はあらかじめ公募を含む予約制で、前もって身元の確認は済んでいた。  もちろんん当日はボディー・チェックを含めたIDチェックも実施される。  もともとが今回の来日に関わった官公庁や大使館の関係者、観光業界の人間が大半だったため、いくら王子が一般人に接する唯一のイベントとはいえ、そういった意味では高村たちにとっては負担の少ないものだった。  ちなみにフォーラム(公開討論会)と銘打ってはいるが、討論の概要や王子側への質問事項はすべて前もって伝えられていた。  参加者の一人というよりも賓客である王子は、すでに検討された答えをもっともらしく発表するだけという手筈だったのだが………。  フォーラム本番、一人の参加者が予定にはない追加の質問をさらりと滑り込ませた。それは本来の質問から派生したものだったため、司会者が止める間もなく自然に王子に投げかけられた。  それが英語に通訳される間(王子が日本語を解することは公にはアナウンスされていなかった)、周囲には戸惑いの波が走ったが、当の王子は落ち着き払って、実務者からの観点と知見で難なく答えた。  再びそれが日本語に変換されると、ほうっと会場から感嘆の声が上がった。  小国とはいえ一国の実質的統治者の片腕と目されている人物である。  外見にだまされてはいけない───と高村は思った。  なまじ見かけがおそろしく整っているだけに、やっかみも加わった偏見から、実はおつむ(・・・)の出来はあまり良くないのでは………的な見方をする、彼よりもずっと年かさの人間は結構いたようだ。  そんな連中の虚を突かれたような表情に、高村は他人事ながら思わず溜飲を下げた。  この王子は、国内外を問わず甘やかされて育った良家や金持ちの御曹子とは全く立場が違うのだ。  激動のヨーロッパを代々優れた見識で生き抜き、現在も莫大な財産と強固な権力を維持する侯爵家の人間は───特に惣領一族は───生まれながらにして辣腕の実務家でなければならない。  祖父のホーフェンシュタイン侯爵、父の侯世子に次ぐナンバースリーの彼にとって、こんなお仕着せのフォーラムなどは、ハイスクールのディベート授業より容易い“お仕事”だったろう。  そんな流れを経て、思いがけず白熱したフォーラムは───王子側の了解を取った上で───三十分ほど予定時間をオーバーした後、終了した。  こんなことは今回のスケジュールでは初めてだったが、この後はもう公式の予定はなく、特に大きな支障はないとの判断だったようだ。  なにより自国の観光を売り込む場での盛り上がりとその成果に、ビジネスマンの王子はかなり満足したようだ。  王子が壇上を降りると、 「で、殿下───! サインしていただけませんか?」 「あのっ、わたくしも───!」 「わたくしも───!」  いきなり日本人女性数名が王子に駆け寄った。  それなりの身なりをした中高年世代の女性グループは、高村の記憶によればフォーラム中は大人しかった。  彼女たちは一人が色紙を差し出すと、我も我もと色紙を差し出し一斉に喋り始めた。  王子は思わず目を丸くして足を止めた。  彼にサインをねだられた経験があるかどうかは分からない。  だが次の瞬間、王子のボディーガード二人がさっと彼らの間に割って入った。  あくまでも婦人たちとは体を接触させないが、それでも日本人の平均身長を遥かに超す者たちに見下ろされ、さすがの相手も怯んだようだ。 「───こちらへ」  その隙に、高村は王子と残りの者たちを誘導し、一般の使用が制限されている出入り口に案内した。  会議場から専用通路に出ると、辺りは人影もなく、シンと静まり返っていた。  屋内だから十二月の外気温よりはまだ高いだろうが、それでも人気のなさゆえの冷たい空気が鼻腔を刺激した。 「───驚いたな」  王子は思わず、といった体で、高村とも他の誰へともなく英語で呟いた。 「申し訳ありません」 「いえ、あなたが───」 「まさか日本でこんな熱狂的に注目されるとは思いも寄りませんでしたわ」  不愉快そうに、とはいえどこか誇らしげに口を挟んだのは、さっきの婦人連中とあまり年齢が変わらなそうな女性秘書だった。  こんな故国から遠く離れた異国で───というニュアンスは正直な気持ちだろう。  王子は苦笑した。 「あの人たちは我が国に観光旅行で来てくれるかな?」  珍しく打ち解けた口調で、王子は高村に視線を当てながら言った。 「───どうでしょう? 殿下にお会いできるとなればどこへでも行きそうですが」  珍しく相手に合わせた高村の返答に、秘書は、まぁ、と声を漏らした。  対照的に、 「いつでも会えますよ」  と王子はにこやかに微笑みながら言った。「───歓迎します」 「えっ」  直通エレベーターの前に着いた一行はすぐに乗り込んだ。  この後はVIPフロアのラウンジで、関係者のみの最後の夕食会が予定されていた。  高速エレベーターが超高層ホテルの最上階に到着した時、廊下に踏み出した王子の物腰はどこか物憂げ───というより忙しげだった。  エレベーターの前の小広間で待機していたコンシェルジュが一同にラウンジの食事の支度が整っていることを告げた。 「あちらはもう来ていますか?」  王子はけぶるような眼差しを相手に向けると、落ち着き払った態度で尋ねた。 「はい。ラウンジの隣のお部屋で、食前酒などをお召しになりながらお待ちになられています」 「そうですか………」  最後の晩餐は、日本側の直接の関係者数名に王子側の随行者も出席し、ごく小規模で行われる予定だった。 「───私は着替えるのでいったん部屋に戻りますが、他の者は特に用事がなければ、先にラウンジに行っていて下さい」  王子は、午餐会ではブラックスーツに洒落た感じを演出する幅広の縞のアスコットタイを身につけていたが、先ほどのフォーラムはそれをネクタイに替えていた。  どのみちかっちりとした服装であることには違いない。 「しかし………」  主賓が来なければ始まらない。  侍従の一人がお待ちします、といったニュアンスで、王子と共に宿泊室へ向かおうとするのを、 「───かまわない。すでに遅れているし、飲み物や軽く何か食べてもいい。私が行くまで、向こうのお相手を頼むよ」  と言って止めた。 「承知しました。それでは───」  と侍従は、下に置いてきてしまったボディーガードの代わりに女性秘書をと思い、その姿を目で探すと、そばに控えていた彼女はすぐに踏み出した。  しかし、 「───いや」  とまた王子は首を振った。 「着替えるだけだから一人でいい。すぐに行くから、後は頼む」  面と向かって首を振られては特に抗う理由もないのだろう、秘書はわずかに目を見張ったが、それでも大人しく引き下がった。  そこで王子とお付きの者たちは右と左に別れた。  高村は当然王子の後ろに付いていく。  彼は宿泊室の前まで来ると、、先回りしてドアを開け、王子を通した。 「すみません」  日本語だった。  彼はハッとして顔を上げた。  しかし、 「ここで待っていて下さい」  王子はどこか事務的な口調で命じると、次のドアは自分で開けて、素早い動作で中に入っていった。  しかし、王子は二十分経っても出てこなかった。  先ほどの侍従がやってきて、高村に、 「王子は?」  と尋ねたが、高村は、 「中です」  と答えるしかなかった。  ここ以外に入り口はない。  侍従は変な顔をして呟いた。 「シャワーかな………」  高村は答えなかった。  彼の任務ではない。  しかし、 「ちょっと見てきてくれないか?」  と言われ、彼の方こそ顔をしかめたくなったが、 「はい」  と頷いた。  すると、 「頼むよ」  と言って、侍従はそそくさとその場から去ってしまった。誰かに報告に行くのか、あるいはパーティーの席に戻るのか。  高村はドアをコンコンとノックしてから返事を待たず、 「失礼します」  と言って、複数の部屋が連なるスイート・ルームのリビングに入っていった。  着替えなど他人に見られたくないことをしているなら、奥の寝室に行っているだろうと高村は思ったのだが、意外にも王子は最初の部屋でスマホ片手に誰かと話していた。  目の前の大きな窓には東京の夜景が広がっていた。 「失礼しました」  高村は慌てて立ち去ろうとした。 「ありがとう。じゃあ───」  日本語は高村に向けられたものではなく、王子はその言葉を最後に通話を切った。 「───失礼しました。殿下の様子を見てくるよう頼まれましたものので」 「あなたが? すみません」 「いえ。お電話中だったのでは? 失礼しました」 「いや………。もう終わるところだったから」  と言うと、王子は優雅だがどこかラフな仕草で手にしたスマホをカツンとテーブルの上に置き、空いた手をズボンのポケットに突っ込んだ。  王子の身なりはネクタイを外しただけ───先ほどと変わらぬブラックスーツ姿だった。 「………着替えはどうされますか?」  今までしなかったのか? とは聞かなかった。  もっと言えば今まで何をしていたのか………とも。  電話で個人的な用を足していたのだろうと簡単に想像はついたが、それは高村にとっては関係のないことだった。  とはいえ違和感は残った。  この時は咄嗟に形にならなかったが───。 「今、着替える。上だけ───。あ、いていいです。すぐだから」 「はぁ」  王子はさっきから、すぐすぐと、まるでそば屋の出前のような台詞を口にしていると高村は思ったが、無論口には出さなかった。  しかし今度は実行するつもりのようで、王子は大股で歩きながら上着を脱ぎ、それをその辺のソファの背に投げかけると、寝室に入って行った。  そして二、三分のうちに、薄水色のシャツにモスグリーン系の格子縞のブレザーを羽織って出てきた。  ノーネクタイだが、ブレザーもシャツも高価な物なのだろう。カジュアルというよりは、いかにもノーブルなプライヴェート、といった雰囲気だった。 「お待たせしました。さあ、行きましょう」 「はい」  限られた人間しか出入りのできないVIPフロアの、公式な予定でもない内輪の食事会において、その主賓が遅れようと遅れまいと高村にはどうでもいいことだったが………。  彼は黙って王子の後に従った。  ホーフェンシュタイン家アルフレート王子による今回の公式訪問は無事全日程を終了した。  翌日と翌々日は侯爵家側の───おそらく王子個人の希望による───私的な日程が予定されていた。  招聘に関わった展覧会関係者と役人は同行せず(そのため今日の午餐会や夕食会がフェアウェル・パーティーだった)、高村たち警護班と通訳を兼ねるスイス大使館の人間だけがそのまま随行する予定となっていた。
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