4-2 風雲

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4-2 風雲

 「───今、着きました。五分後にあの場所で」 「承知しました」  そこに主がいないことを知っている部屋の前で、立ち番すること一時間。  震えたポケットのスマホに即座に応じた高村は、部屋の中に入ると、再び同じルートで森へと急いだ。  喉に十二月の冷たい空気が流れ込む。  草や枯れ葉の地面にわずかに土が覗くような小道が続き、その緩やかなカーブの終わりに、唐突に王子の姿が見えた。  同行者はいない。  あとであの男───室田を締め上げるつもりだった高村は、内心舌打ちをしながら急いで相手に駆け寄った。  ───その時だった。  王子の背後に人らしき影が見えた。 「!───」  咄嗟に高村は、サイドベンツのジャケットの裾を翻し、目の前の人間を押し倒すと、二人もろとも地面に叩きつけるように身を伏せた。  土と枯れ草の匂いが強く漂う。  プシュッと、微かな音。  反射的に振り返ると、至近距離にある松の木の幹にわずかな硝煙が立ち上っているのが見えた。 「伏せて!」  動かぬよう庇う相手に警告すると、高村はジャケットの下のホルスターから拳銃を引き抜き、辺りを見回した。  木々で視界が遮られる中、全方位見渡してもすでに動くものはない。  複雑なパズルのような枝に紛れて、ただ腕だけが伸びているのが見えた。  手にしていたのは狙撃銃ではなかった───はず。  …一人なら───…  高村は左の袖口に取り付けた無線マイクを口に近づけた。  その瞬間、 「やめてください」  伸びてきた王子の手で左手を払われた。 「!」  反射的に相手を睨みつけた。 「あなたが現れた以上、二度目はありません。犯人ももう立ち去っているでしょう」 「なぜわかるんです?」  高村はかまわず袖口のマイクを口元に持ってこようとした。  すると、左手も右手もそれぞれ相手の手で強く握られ、動かせなくなった。  とっさに湧き出た怒りはしかし、相手の顔が近づき、唇を押しつけられて白く消失した。  …えっ───…  近すぎて相手の表情(カオ)がまともに見えない。  そもそも自分の視界に何か映っているのか、認識できなかった。  初冬のひんやりとした空気の中、生身の人間の熱さが嫌でも伝わってくる。  相手は、いつの間にか高村の銃を持つ右手を放し、首に回すと、さらに力を入れて引き寄せてきた。  噛みしめた歯の間をこじ開けるよう柔らかな舌が這い出した瞬間、高村は、渾身の力を込めて相手を突き放そうと身じろぎした。  それでもなおも唇を重ねてこようとする相手に、わずかにできた、吐息を共有し合う距離で囁いた。 「───分かりましたから、とりあえず離れてください」 「………何が分かったんです?」  囁きが低く響いた。 「十秒、時間を差し上げます。なぜ応援を呼ばれたくないのか、説明してください」 「十秒で?」 「あと九秒。あなたならできます」  再び触れ合ってもおかしくない距離で。  唇が動いた。 「私が一人になる状況があったから動いたまでで、日本人の前では何もしません。国際問題にするつもりはないので」  ───十秒。  こんな状態でもまるでビジネスのように言いたいことを簡潔にまとめる相手の胸に、高村は自由な方の手が握る銃を突きつけたくなった。  まだ王子の片手は高村のうなじを、もう片方の手はマイクを装着した袖口を強引に下げさせている。 「───そういう問題でありません。この土地に銃を持った人間がいます。放ってはおけません」 「日本人に危害は加えません。騒ぎを起こす気はないんです。それでもあなたは地元警察を動かしますか? 外交問題にしますか?」 「───」 「万一逮捕できたところで外交特権ですぐに釈放されます。私は証言しませんし、されたら困るのは我が国だけではない」 「!───」  高村の脳裏に外国要人を巡るさまざまな公安事件が浮かんだ。  その多くは闇に葬られた。 「つまりは労力の無駄です」  淡々と結論を突きつけてくる相手の言葉に、高村の体からわずかに力が抜けた。  それを感じたのか、王子の高村を拘束する手も緩んだ。  確かに政府はそういった事件が日本を舞台に起こされることは歓迎しないし、王子が宣言したとおり、当事者たち───狙う方、狙われる方の双方───も決して捜査に協力はしないだろう。  …だが、ここは日本だ───…  高村はギリッと奥歯を噛み締めつつ、拳銃をホルスターに戻した。  二人は無言で体を起こし、無意識に肘や膝についた葉や土を払った。  王子の言葉が誤りで、もし今この瞬間、暗殺者の銃が二人に向けられていたら───。  高村は背筋に氷を当てられたようにゾクリとした。  王子の視線を意識しながら、彼は無線機をオンにし、左耳のイヤホンを確かめると、袖口のマイクを口に近づけた。 「高村だ。永井、沖田」 『はい、永井です』 『沖田です』  部下の耳慣れた声が飛び込んでくる。 「二人とも事後報告になって済まないが、現在、非常階段から散歩に出た王子に同行して東側の森の中にいる」  王子の落ち着き払った眼差しがわずかに揺れた。  西洋と東洋の血による奇跡の芸術品ともいえる───その繊細で彫りの深い端正な顔立ちを、高村は半ば怒りを覚えながら見返した。 「沖田はそのまま待機。永井は私たちと同じルートで降りてきてほしい。辺りに人気はないが、念のため、十分に周囲に警戒しながら、東南のチャペルに来てくれ。着いたら連絡を」 『了解です』 『了解しました』 「………」  聞き終えた王子の表情はどこか憂いを帯びていた。  それは決して、冴え冴えと明るい昼間から午後へと移り変わっていく、弱々しい冬の日差しのせいではないだろう。  高村はこの時ばかりは故意に、 「行きましょう」  と、無感情に言い放った。  敷地内の配置図はスーツのポケットに入っているが、すでに記憶していた通り、森から一番近い建物は、一階の一部がチャペルになっている白亜の洋館だった。  ウェディングに使用しない時は宿泊客に内部を公開しているのだろう。正面の入り口も裏口も鍵はかかっていなかったが、平日の遅い時間帯、建物の周囲にも内部にもほかに人はいなかった。  二人は目立たぬように講壇側の裏口から中に入った。  こぢんまりとした礼拝堂の内部は赤いクッションのついた長椅子が左右それぞれ十列ぐらいずつ並んでいて、講壇や扉、天井の梁・床は木目調、壁などは白一色だった。  見上げるオークの十字架は裏側に設置されたLED照明のせいで、午後の光が差す室内でもうっすらと白く輝いていた。 「お怪我は?」 「………いや」  王子は物珍しそうに───というよりはどこか心ここにあらずといった様子で周囲を見回している。 「───おかけになってください」  高村は最前列の長椅子に座るよう相手を促すと、ポケットからスマホを取り出し、ホテルの支配人を呼び出した。 「───先ほどお会いしました、責任者の高村と申します。お世話になります。予定にないことで恐縮ですが、今、王子はチャペルを見学しています。はい、その、外れの。最初から人はいなくて、このまま内側から、少しの間、鍵を掛けたいのですが、よろしいですか?───はい、ありがとうございます。『閉館』の看板を?………はい、わかりました。いえ、結構です。こちらでやります。三十分くらいですか。また連絡します。ご配慮、感謝いたします」  高村は大股で、反対側に位置する正面入り口まで歩くと、脇に置いてあった『閉館』の立て札を外に出し、そこと裏口、それぞれの二つの入り口の鍵を内側から掛けて戻ってきた。  すると王子は、椅子の前に設置された衝立に肘をつき、両手を組んで、講壇の頭上の十字架を見上げていた。  高村はわずかに逡巡した末、静かに声を掛けた。 「───殿下。私の部下が合流したら、ホテルの部屋まで戻りましょう」 「ええ………───」  王子は視線を動かして高村を見た。  銃口を向けられても超然とした様子を保っていた王子は、今はまるで気が抜けてしまったかのように表情を消していた。 「ご存じだったのですか?」  高村は声を低く潜めて尋ねた。  自身が暗殺の危険にさらされていることを。  王子は両手をほどいて、高村に顔を向けた。  その白皙の顔立ち。  先ほどの狼藉すら許せてしまえるくらいに、それは完璧に整っていた。  ───その印象的な脳褐色の瞳が彼を捉え、目元と口元がふっと苦笑に緩む。  演技ではない、きっとそれ以外、適当な表情がなかったのだろう。 「まさか外国で───この日本で何か事を起こすとは夢にも思いませんでした。謝って済むことではありませんが………。本当に申し訳ありません」  王子は真摯な口調で言った。 「………」  確かに謝られてどうにかなる問題ではなかった。  …そんなことよりも犯人逮捕に協力してほしい…  先ほど論破されたが、それでも高村はそう思わずにはいられなかった。  そもそも敵は諦めたのか? もう襲ってこないのか?  この日本で銃を持った人間がうろつくことは………。───どのみち、今さらな話なのだが。  王子のボディーガードは皆武器を所持している。  不意に、 『永井です』  イヤホンに部下の声が飛び込んできた。  高村は素早く無線機のマイクをオンにした。 「はい、高村」 『チャペルに着きました。閉館中です』  高村は正面入り口に目を向けた。 「ああ、念のため鍵を閉めた。ホテル側に了解は取った。一般人が入ってくると面倒なので………。裏は回ったか?」 『いえ、まだです』 「裏口も含めてそのまま周辺をパトロールしていてくれ」 『了解です』 「くれぐれも警戒を怠らないように」 『了解です』  有能な部下は一切声に出さなかったが、少しは異常を感じたかもしれない。  共に死線に立つ仲間だ。本来なら全ての情報を共有しなければならないのだが………。 「殿下───」  ここを出ようと高村が言いかけたとき、 「───東洋人の血が流れる家長など考えられないんです」 「えっ?」  王子は自然な仕草で十字を切って手を合わせてから、高村を見ると、改めて背もたれに寄りかかった。  その様子………。  どうも彼は本心から、再び自分に差し迫った危機が訪れるとは───襲われるとは───思っていないようだ。  今までのどんな言葉より高村は得心した。  王子を狙う相手は、日本側のセキュリティ・ポリスを巻き込み、事態(コト)を大きくしてまで暗殺を実行する気はない───と、王子はそう確信している。  おそらく、高村と合流する寸前まで王子の側には室田がいた。だから引き金は引かれなかった。  …あとほんの少し、自分が遅れていたら───… 「どういうことですか?」 「今となっては正統な後継者もいますしね」 「───弟君のことですか?」  アルフレート王子には母親の違う弟、妹がいる。  外国出身の最初の伴侶を亡くしたあと、皇太子が娶った二番目の奥方であるマルガレーテ皇太子妃はヨーロッパの由緒正しい名門貴族の出身だった。 「………皇太子殿下はどうお考えなのですか?」  任務に無関係なことは聞いてはならないという鉄則と、今はそれどころではないという状況に高村はあえて目をつぶった。  ───おそらくは王子の望むとおりに───独白の相手になること。  それは好奇心からか、それとも王子を思ってのことか、高村には我ながら判断がつかなかった。 「当時、父が一人の日本人女性を心から愛したのは本当だと思います。二人が結婚したのは、跡継ぎである父の兄が健在だった時でしたが、その時ですら継承権を剥奪されかねないほど抵抗があったそうです」 「しかし───」 「はい。実際のところ、剥奪はされませんでした。いろいろなところから反対はされたそうですが、結果的には認められました。父の方が兄で跡継ぎだったら絶対に許されなかったと思いますが」 「………」  その後、そうまでして添い遂げた相手は、子を成し、若くして亡くなった。  次いで今度は兄皇太子が亡くなり、侯位継承権第一位は侯籍を離れていなかった弟に移った。  すると男系男子継承制をとる侯爵家では、自動的にその息子───遠い異国の血を引く───アルフレート王子が継承権第二位となったのだ。  それから現在に至る、おそらくはさまざまな思惑が絡み合った人間関係の中で、父である皇太子は、今度は誰一人として異議を唱える余地のないヨーロッパの名家の姫君を後添えに迎えた。  そして二人の間には、今年五才になる、周囲に祝福された血統を持つ男の子がいた。昨年には愛らしい女の子も誕生している。 「───周り中の誰もが僕が継承権を辞退することを望んでいます。しかし、今までそういった動きがあからさまにならなかったのは、祖父───現侯爵がそのことに関して公的私的を問わず一切発言をされていないのと、父が僕を跡継ぎとして扱っていること、弟がまだ幼いこと………。それに───可能性は低いですが、僕の母方の血のせいで僕が侯位を継げないことが世界中に広まった場合、アジア───特に日本との関係が悪化しないかなどの懸念があるのだと思います」 「………」 「家憲にも、あいにく貴賤結婚で生まれた皇太子の長男についての明確な決まりはなくて………」  抑えてはいるが王子が自嘲交じりに言葉を濁すのも当然だった。  いっそ東洋人の血を引く者は立太子できない───とでも明文化されていれば、逆に彼への風当たりは今よりずっと小さかったかもしれない。  高村にはホーフェンシュタイン侯や皇太子の真意はわからないが、「反アルフレート王子」の人々が奮わない理由のひとつには、王子のこの明晰さがあるのだろうということは容易に推測ができた。  この五日間完璧にこなしていた、有能なビジネスマンとしての顔と社交界での華のある姿───。  小国とはいえ、国際連合にはもちろん欧州経済地域(EEA)などにも加盟している一国の国家元首と、ヨーロッパ中に莫大な財産を保持している侯爵家の当主は、決して無能であってはならない。  さらにいえば国民から近隣諸国の上流階級まで支持される人間的魅力も不可欠だ。  そのうえ勤勉さまで持ち合わせたアルフレート王子は、その母方の血筋以外は文句のつけようのない理想的な後継者だった。  なまじその英邁さが今現在の彼の立場を辛いものにしているのであれば、それはそれで皮肉なことだったが………。  …なぜこの人が───…  「ご存じだったんですか? ご自分の命が狙われていること」  二度目の問い。王子は驚くくらい素直に頷いたが、次には肩を竦めた。 「外国では実行の可能性は低いと予想していました」 「無防備すぎます。せめてボディーガードはいつも側から離さないでください」  あの時、そうさせるべきだったと高村は後悔した。  日本人の祖父に会いに行ったことを誰にも知られたくなかったため、王子は一人で───手引きした外部の人間はいたが───行動したのだろうが、現在の己の立場と状況を把握していたのなら、何を置いても無防備になるべきではなかった。  これではなんのために、普段からボディーガードを引き連れているのかわからない。  ボディガード───SPは、警護対象者が狙われる、ほんの一瞬のためだけに存在するのだ。  王子は微かに口元を歪ませたが、それも視線を上に向けて誤魔化してしまった。  その様子に、いつの間にか高村の心に澱んでいた疑いが浮上した。 「まさか───」  ボディーガードが信用できない、というのは、マフィアの世界の話くらいだろうと思っていたが………。 「………誰が誰とはわかりません。だから誰かと二人きりになるくらいなら、一人で行動した方がマシだと思ったんです」 「………」  この時初めて高村は王子の置かれた過酷な状況を実感した。  王子は端整な顔に大人びた───と同時にどこか稚気も感じさせる───微笑を浮かべて言った。 「大丈夫です。どこも一枚岩というわけではありません。いろんな人間がいますから。周囲に人が多いほど───逆に何も起こりません」 「それは」 「今回は僕が甘かったんです。───初めての事態にうまく対応できなかった。隙を見せてしまったんです」  初めての事態───それは、誰一人知り合いも味方もいない見知らぬ土地で、自らの思いだけを頼りに母方の肉親に会おうと行動を起こしたことを言っているのだろうか。 「おっしゃってくださっていたら………」  思わず高村は呟いた。  双方分かっていることだが、高村には王子の個人的な頼みに力を貸す義務はない。  しかしそんなことはどうでもいい。この目の前の若者は、現在自分が警護すべき対象なのだ。  具体的な危険があることを承知していたら、決してあんな風に王子を一人にすることはしなかった。 「………あなたに迷惑はかけられない………」 「殿下」 「そんなことを言ってももう十分に迷惑をかけてしまっていますよね? ずいぶん我が侭を聞いてもらっている。………心からありがたいと思っています」 「───」  そのいかにも優等生的な解答(コトバ)に、高村は何も言えなくなってしまった。  おまえにはできることは何もない、と………。  そんな風に───優しく、現実的に───言われたような気がして。 「………今回の件をどう処理なされるおつもりなんですか?」  高村は尋ねた。  警察官として犯罪行為を見逃すことは絶対にできない。けれど、狙われた相手も狙った相手も(おそらく)治外法権に守られている。  彼は、自分が警察官としての倫理観と、生身の一個人としての良識や判断との間で板挟みになっていることを感じた。  機械ではない、しかし高度にプロフェッショナルな職務に就く自分にとってはどちらも重要なことだ。  とはいえ彼はもうすでに『部下に狙撃の件を告げない』ということで、王子の意に沿って動いてしまっている。 「あなたは自分の仕事に誇りを持っていますか?」 「えっ?」  内心の考えに直接触れたような質問に高村は多少強めに反応した。 「殿下───?」  自分の問いには答えないつもりかと咄嗟に反発も混じる。と同時に、暗い疑問が彼の脳裏をよぎるのも避けられなかった。 『精鋭部隊の警護課に自分が抜擢されたのは、実力だけではない要素も考慮されたからではないのか?』  しかし───。 「はい」  躊躇いなく口からついて出たのは、彼にとって紛れもない真実だった。  それが思いの外自分でも信じられなくて、そんな自分がまた不思議だった。 「それはよかった」 「殿下?」  王子は驚くほど長いまつげをいったん伏せると、それから再び高村を見上げた。  美しく、そして威厳に満ちた瞳だった。 「あなたには申し訳ありませんが、この件はこれで終わりです。これ以上何も起きないし、私も何もしません。日本では。そして国に帰って私がどうするかは───」 「殿下」 「あなたには関係ないことです」 「はい………」  高村は静かに頷いた。  いつでも冷静沈着な仮面をつけて、重い家名に運命づけられた使命を全うしようと全力で立ち向かっている若いあなたを、できれば守ってあげたかったけれど………。  この手でできることはあまりにも少ない。  そんな無力感を抱えて、この先仕事を続けていくことが………。  今の自分にはふさわしいと、高村は思った。  彼はジャケットの内ポケットの無線機に手を伸ばした。
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