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   ひぐらしの数々の音色たちが反響し合う深い深い森。暑い夏の日差しも木漏れ日に隠れ、幾らか涼しさも感じさせる空気感が、幼ながらもこの森には生者がいないのだと痛感させた。  頬をたまに掠る毛先。ゆらゆらと揺れる体。  そして大人を感じる大きな背中。見ず知らずの誰かにおんぶされたまま、襲いかかってきた睡魔に身を委ねる。  重くなってきた瞼に押しつぶされる寸前、煙管の渋い薫りがした。    暗闇の中に朱が差し込み、眩しさにどろんとした瞼を開けるとすっかり空は茜色。床に散らばるのは役目を終えたお祝いの花束たち。   華の女子高生は今日までだ。特に何もしていないはずの卒業式だったが、なんとなく身体はだるい。お偉い先生の有り難いお話は聞くだけで疲れてしまうものだ。 「おーい、桜。父ちゃんが呼んでたぞ」 「ちょっと、まだ寝てるんじゃないの?寝かせてあげましょうよ」  そうか、もうそんな時間だったのか。  皺になったスカートを脱ぎ捨て、ラフなジャージを履き襖を開ける。 「あ?なんだ起きてたんじゃねーか」  フリフリと尻尾が左右に揺れる黒い毛並みの柴犬、もとい狛犬。お隣りでちょこんと行儀良くお座りしているのは対となる白い狛犬。  そうです、2匹ともうちの神社の鳥居下に鎮座する狛犬だ。 「おはよう、桜。卒業式どうだった?」  優しい穏やかな口調で頭をこてんと傾ける白い狛犬、名前はウメ。 「どうせぐーすか寝てたんだろ?」  この言葉遣いのなってない黒い狛犬はコマ。  2匹は私がこの世で産声を上げるより前、大昔から狛犬として、ここの神社にいるそう。  言うまでもないが、普通の人には二匹は視えないだろう。 「コマじゃあるまいし、じゃあ父さんのとこ行ってくるね」  さらっと嫌味を残して部屋を出る。  玄関を出て、神社の本殿前を通り過ぎて社務所へと向かう。  うちは父さんと二人三脚で神社を運営している。父さんは、神社の宮司だ。一人娘の私は巫女として務めに励んでいる。 如月神社と名のついたこの場所は、地元の人しか知らない小さい神社。年末年始は地元の人達が集まるので多少賑わいがあるが、屋台が出るスペースもないのでみんな速やかに帰っていく。  さて、社務所の扉をガラガラ音を立てて開けると黙々と事務作業をこなしていた父さんが顔を上げた。 「おお、ご苦労さま。卒業式どうだった?」 「んー、普通だよ。みんな眠そうだった」  特に校長先生の話とPTA会長の長話。あそこで急激に船を漕いでいる頭があちこちに出現した。いつもの全校集会なら鬼の形相で怒鳴る学年主任も晴の日の今日くらいは大目に見てくれていただろう。 「ははっ、まあそんなもんだよなあ。すまんな、父さん行けなくて」  申し訳なさそうに項垂れる父さんを見て苦笑いした。父さんが行事に来れないのは今に始まったことではない。  宮司である父さんはこんな田舎の神社でもこなす業務は多くて、滅多なことがない限り神社は開けられない。 「大丈夫、飛鳥ママが写真沢山撮ってくれたらしいから」 「そうなのか、いつもいつも申し訳ないな。後で電話しとこう」  忘れないように付箋に書く父さんに声をかける。 「父さん、修行の話は?」 「おお。そうだったな」  高校を卒業したら一人娘である私は宮司の務めを学ぶ約束を小さい頃からしていた。それを修行と父は呼び、本来の宮司の務めとは一風変わった内容のものだそう。  壁にかかった古い時計に目をやり、書類をまとめてレターケースに仕舞って椅子から立ち上がる。 「丁度良い時間だ、巫女装束に着替えて本殿横の御神木に来なさい」  言われるがままロッカーから装束出して身に纏う。そして砂利道の参道を通り注連縄のしてある見上げる程高い御神木に着いた。  父さんはいつも夕方になると御神木の前にいったっきり、暫く姿を現さなくなる。そしてふと気がついた頃に神社に戻ってくるのだ。  御神木の前には、正装に着替えた父さんが大幣を持って待っていた。大幣とは宮司や神主が祭事に用いる和紙で作られた祭具だ。 「これから隠世に向かう。生ある者がいない常夜だ」  ごくりと生唾を飲み込む。  己の生を全うした者は無害なものもいれば、恨みつらみを抱えて敵意を向ける者の両者がいる。どちらも身をもって経験したことのある私からすれば、隠世は畏怖に値する。 「ウメ、コマ。留守番頼んだ」  いつの間にか2匹が並んで見守っていて、緊張して顔が強張っていた私を見て軽快に笑う。 「物の怪より怖い顔してるな桜」 「お父さんがいるから平気よ、あまり気負いすぎないで」 「失礼だねコマ。うん、ありがとウメ」  今のやり取りで幾らか肩の力が抜けた。 懐から馴染みのものを取り出してギュッと握り締める。 「桜、その手の中にある勾玉はいざという時にお前を護ってくれるはずだ」 「え、そうなんだ。知らなかった」  手を開いて改めてまじまじと凝視するが至って普通の透通った碧を放つ勾玉だ。物心ついた時から何故か手元にあり、綺麗だからという理由だけで普段から持ち歩いている愛着のあるものだ。 「では、行くぞ」  大幣を高く振り上げて口を開く。 「天照大御神よ、お導きください」  するとどこからとも無く突風が吹き荒れ、木々も大きく横に揺れる。よろめいた体を父さんに支えられて、あまりの風の強さに思わず目を閉じた。  低い音を唸らせながらびゅうびゅうと吹き荒れていた風が少しすると感じなくなり、ひんやりとした空気が体を包む。 「桜、着いたよ。目を開けなさい」  言われるがまま恐る恐る目を開けると、何処までも遠くへ続く川の光景が広がっていた。  穏やかに流れるせせらぎの川。両側には一面の彼岸花が朱く彩っていた。私達の目の前には橋があり、霧がかった遥か先まで伸びている。 「三途の川だ。あまりそっちに意識を向けると持っていかれる」 「う、うん。わかった」  ーー持っていかれる。  いくら未練のない者でも生者をみると羨んでしまう。誰しもそういうものだ、そういう性だ。ぐっと舌唇を噛んで前を見据えると、欄干に肘を乗せて佇む人影が見えた。 「千歳さん、お待たせして申し訳ない」  父さんがやけに仰々しく一礼すると、影はゆらりと動いて静かに近寄ってきた。  深い藍色の着物に腰には刀が差してある。古風な出立ちの男。何かの絵画からそっくりそのままくり抜かれたみたいに整った端正な顔立ち。  艶やかな雰囲気を漂わせた男は私を見つめて足を止めた。 「その小娘が次の跡継ぎの宮司か」  上から下まで舐めるように観察されてあまりいい気はしない。この人は何者だという視線を父さんに投げかける。 「はい。この方は務めを受けるに当たって指導してくれる千歳さんという方だ」 「師匠ってこと?」  そう聞き返すと、ハッと嘲笑うように吐き捨てる声が届いた。 「そんな暑苦しい役目は御免だ。小娘に見込みがなければ捨て置く」  冷徹な瞳で見下され、思わず顔をしかめる。そんな言い草を初対面の人間にするなんてよっぽど人間が嫌いなのだろう。こんな言い方をされては素直によろしくお願いしますも出てこないし、口にしたくない。 「あの、別に跡継ぎになるって決めたわけじゃないですし貴方にそんなこと言われる筋合いないです」 「こ、こら!桜」  ぎょっとする父さんを横目にちらりとみて、ずいっと一歩前に進んで千歳さんに相対する。何も嘘は言っていない。父さんは進学を止めはしなかった。宮司の務めを受けてみて、考えなさいと私に将来の選択肢を自由に与えてくれた。  だから大学にも進学するし、必ずしも跡継ぎになる道だけが私の道ではない。  凛とした声色が静かな空間に響く。千歳さんは何故かニヤリと口角をあげて腕を組む。 「俺相手にそんな啖呵を切るとはな。気に入った」  そう言い切ると裾を翻して背を向けた。こんな偉そう人に気に入られても嬉しくないけど。 「では行くぞ、小娘」 「は、はい!」  父さんが心配そうに見守る中、スタスタ早足で橋を歩いていく千歳さんを追いかけた。  しばらく歩いて後ろを振り返ると、濃霧に覆われすっかり父さんの姿も認識出来なくなっていた。  私の今頼れる相手は偉そうなこの師匠だけ。一体この先どうなるのだろうか。小さな溜息が一つ零れ落ちた。
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