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ブレナンの場合。【6】
実家から歩いて二十分ほどのクロエの屋敷に早足で十五分もかからずに到着し、扉のベルを鳴らすと、中からメイド姿のメリッサが現れた。
「ブレナン様、ありがとうございます。どうぞこちらへ」
囁くような声で頭を下げたメリッサが、僕を案内したのは何故かキッチンの横にある食品貯蔵庫である。
「? 僕はリアーナが泥酔しているから送りに来たんだよ?」
「ええ、存じ上げております。少々お待ちを……あ、クロエ様」
不思議に思っていると、クロエがこちらに歩いて来るのが見えた。
「ブレナン兄様、ごめんなさいね、いきなり」
「いや、別にいいんだけど、リアーナは?」
「案内するわ。ただ、申し訳ないんだけど、少しの間、隠れて聞いていて欲しいの。あの人本当にガードが固いから、こんな時でもないと本音を言わないの。だからね、彼女の気持ちをブレナン兄様だけには聞いていてもらいたかったのよ。大丈夫、別にそれで何かしろとか言わないわ」
「──? リアーナの本音?」
良く分からないまま、僕はクロエに案内されるまま、応接室の隣にあるジークラインの書斎に案内された。
「ここからなら隣の話は良く聞こえるから、少しだけここにいてくれる?」
「……うん、それは構わないんだけど、盗み聞きみたいなことをするのはちょっと気が咎めるな」
「たまたま聞こえた、ということで。私、おつまみのお代わりを取って来るって抜けてるからすぐ戻らないと」
手に持った小皿に盛り付けられたカナッペを指さすと、クロエは部屋を出て行った。はて、どうしたらいいのやら、と椅子に腰を下ろすと、隣から「クロエ、遅いじゃないのー、メリッサもお手洗いに行っちゃうし寂しかったわあ」とリアーナの声がした。何でこんなにハッキリ聞こえるのかと隣室との壁を見たら、天井近くに換気用の穴が開いて、木製の柵がついていた。こちらの音も響くのではと思うと、悪いことをしているつもりはないのに、座った椅子の背もたれを調節しようかと動かしていた手が止まる。
「ごめんなさいね。ほら、でもいいサーモンとスモークチーズがあったからカナッペ作っていたのよ。……ところでさっきの話だけれど、仕事を先輩からそんなに押し付けられているのなら、編集長とか、上の人に申告すればいいんじゃない? リアーナ少し痩せたみたいだもの。無理しすぎよ」
「きゃー美味しそう! 早速……んー、おいし。ああ仕事? それはいいのよ、むしろ面倒な仕事なんかは進め方が覚えられてラッキーなの。早く一人前になれるじゃない? 実際ありがたいのよ。私はずっと仕事していくつもりだから、早く使える人間になりたいもの」
なるほど。彼女はやはりいい意味で強かだ。心配して変に動かなくて良かった。
「それなら、いいのだけど……」
「問題はね、私のせいでブレナンが笑われてたり、馬鹿にされているんじゃないかということなの」
「ブレナン兄様が?」
「そう。時々ね、仕事終わりに食事をしたりするんだけど、何人か職場の男性にも連れ立って歩いているのとか見られていたみたいで。『いやあ、幼馴染みとはいえさ、一緒に歩いていて顔の落差が激しかったな。奴は男版びいせんだったのか?』とか『言っちゃ悪いがブレナンぐらいの男前なら、そんじょそこらの女優やモデルでも釣り合わないレベルなのに、よりによってアレだぞ? 見ながら食ったら飯がまずくなるだろ』とか言ってるの聞こえちゃって。一緒にいた女の子も『やだ、失礼ねえ』とか言いながら笑ってたり」
「まあ! リアーナは本当に可愛いのに! なんて失礼な人たちなのかしら」
「母様もリーシャおば様もクロエも、何というか……旦那様に選んだのは、本音を言えばあまり一般的に美形とは言われにくい方でしょ? そういう人を選んでいる時点で、見た目での判断をしない人な訳じゃない?」
「とても異論があるわ。私も母も夫を世界一のイケメンだと思っているんだけど。中身も素晴らしく素敵な人なのだけど」
「異性への美の価値観が違うのね。でもね、一般的にはフォアローゼズとか傾国の美貌なんて通り名がつく位、貴女もブレナンも美男美女なのよ」
「そこが本当に謎よねえ。うちの母様と『なんでこんなド平凡なぬるま湯顔が美しいってことになるのかしら』って言ってるんだけど。まあお陰で旦那様にアタックしやすくなったのはあるけれど、それしか利点はないわね。兄様たちだって私から見れば、不細工とは思わないけど、単に人の好さそうな普通の顔よ。リアーナも夫のジークも、私から見れば眩いばかりの美男美女なのに」
「……同性に対する美的感覚も変わってるのね。──まあいいわ。私は昔から不細工だの何だの言われるのは客観的事実だから別に構わないの。でも、ブレナンが私といることで悪い評判がついたり見下されるのは嫌なのよ」
「あー、昔からあなたはブレナンのこと想っていたものねえ。絶対に言うなと言うから黙っているけど」
僕の口がぽかん、と開いた。は? リアーナが僕を? いやいや、そんな気配みじんも感じたことないぞ。ごく普通の幼馴染みというか仲良しの友人って感じで……。
「当然でしょ。あなた達は王族と結婚したし、あれだけ仕事が出来てすこぶる美形のブレナンだって、いずれ然るべき高貴な方との縁談もあるはずよ。私は幼馴染みで楽しく話が出来る友人、っていうだけでも十分なのに、告白なんかして変な空気になって、それすらも失うなんて耐えられないわ」
「すこぶる美形ねえ……まあ仕事は出来るとは思うけど。そもそも何でブレナン兄様が好きなの? 小さい頃の兄様なんてお調子者だし、その割には親しくない人間とはろくに話もしないような気難しいタイプだったけど」
「……学校の校外写生ってあったじゃない? 上級生から下級生まで全員参加するやつ」
「ああ、あったわねえ。七歳だったか八歳だったか……」
「ええ。私、その頃にはもう見た目で結構いじめられてた頃だったんだけど、その時ね、たまたま近くにブレナンがいたの」
「初耳ね」
「初めて言うもの。それで、彼の髪の毛が黒々して艶があって、本当に綺麗だなあ、って思って。それをブレナンに言ったのよ。ブレナンみたいな髪の毛だったら良かったなー、って。そしたら」
「……そしたら?」
「きょとんとして、『リアーナの髪の方が綺麗だよ? キラキラしてるじゃない。それに太陽や花みたいに黄色の色鉛筆が使えるんだよ? すごいよね』って。生まれて初めてだったわ、そんなこと言われたの。泣けてきそうになるぐらい嬉しくて、それから髪の毛だけはものすごく気を遣うようになったの」
「……本人はただ思ったことを口にしただけでしょうけど、女性には結構な殺し文句よねそれ」
僕は顔を覆っていた。昔、うっすらとそんなことを言った記憶はあるが、今聞くとかなり恥ずかしいセリフだ。羞恥で顔が熱くなる。
「でしょう? あの一言で、彼が私の王子様になったの。だから私は一生結婚しないで、ブレナンだけ想って生きようと決めたのよ。仕事に生きていればそれも許されると。出版業界は私の念願でもあったし」
「兄様に言ってみればいいのに」
「一生言う訳ないじゃないの。今でさえ一緒にいると色々言われるのよ? 私みたいな器量の悪い女じゃ……彼に迷惑が……でも一緒に話すのも楽しいし……私だって、気にしないようにはしてるけど、不細工だと言われて全く傷つかない訳じゃない、のよ……」
「……ちょっとリアーナ? リアーナ? こんなところで寝たら風邪引くわよ。今馬車の支度するからちょっと待っててね」
どうやら酔って眠ってしまったようだ。ノックの音がしてクロエが入って来る。
「兄様、聞こえた?」
「……うん。全然気づかなかったよ、リアーナが僕のこと好きだなんて」
「気づかれないようにしていたし当然よ。──私はこれを聞いて兄様にどうして欲しいとかはないの。リアーナの片想いの責任を取れとも思わないし。でも、一生気づかれないままっていうのも切ないから、いい機会だし、リアーナがこういう感情を持っているってことだけでも知っていて欲しかっただけ。彼女は兄様に迷惑をかけることを本当に嫌がっているし、下手すると距離を置こうとするかも知れないから。嫌っているからじゃないんだ、ぐらいは把握しておいて欲しいのよ。こんなに飲んでしまうぐらいには悩んでいるみたいだし」
「……ありがとう、クロエ。僕は本当にそういうの鈍感だから。自分の気持ちも良く考えてみる」
「そうしてくれると嬉しいわ」
僕は眠り込んでいるリアーナを抱えて、クロエが手配した馬車に乗り込んで、リアーナの屋敷へ向かう。
すうすうと無防備に寝息をたてているリアーナの頭を撫でながら、やっぱり綺麗な髪だなあ、と思う。
僕は、恋愛なんてまだまだ先でいい。むしろ仕事に集中出来ないし邪魔だ、とすら思っていた。……だけど、本当に邪魔なのだろうか? 最近はリアーナと一緒に食事をして楽しく話をしたりしていることで、仕事にも張りがあったし、充実していた。これは、他の女性といた時には全くなかった感覚だ。
リアーナが誰か別の男性と付き合ったり結婚したりすることを想像してみた。……何だか考えただけで胸がむかむかする。
──あれ? もしかして僕、リアーナのこと、友人というより恋愛対象として見てないか?
ため息をつきながら、我ながら恋愛にはポンコツであると自覚した夜だった。
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