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しばらく下を向いていた京子が、僕を真っ直ぐに見た。京子の爪先が濡れている。
こんなに恥ずかしいことはなかった。
「え? あの五年の人、漏らしてない?」
「うそぉ?」
「だってほら、床が濡れとう」
小さな声が聞こえてくる。
もう、辞めよう。僕なんてこんなものなんだ。やっぱりこんな世界に入ること自体が間違いだったんだ。
まさか最後におしっこして終わるとは。母さんに何て言おう。と、視界がぼやけたところで予期せぬ声が飛んできた。
「どんだけ泣くとよ。こんなに床濡れるまで。恥ずかしい。そんなに悔しかったんならもっと稽古せえよ。はよトイレ行って泣いてこんね」
やけに大きな声で京子が言った。なんのことだか、立ち尽くした僕は理解ができていなかった。
「はよう! はよトイレでも行って涙拭いてこいっちゃ!」
京子のわざとらしいような大きな声で、周りの声が変わる。
「え、あれ、涙?」
「泣き過ぎやろもん」
そんな声が聞こえてきた。
京子が顎をしゃくる。そのまま僕の耳もとに寄り、小さな声で言った。
「面とってそこ隠しながら。はよ行きいよ」
面をとる。あたかも泣いていたかのように装って、僕は股間に脱いだ面をあてる。ちらり覗くと袴の股間付近に大きなシミができていた。
トイレへと駆けた。漏らしたのはバレなかったろうか。なぜ京子は嘘までついて庇うようなことをしてくれているのだろう。そんなことを思いながら、つくづく情けない僕を月が照らしていた。
袴を脱いで絞り、道着で目立たなくなるまで濡れた部分を叩いた。体育館から聞こえてくる気合の声とぶつかり合う竹刀の音がやけに遠く感じる。
恐る恐る戻った稽古で白い目を向けられることはなかった。京子がうまく誤魔化してくれたおかげで、僕は四年生に負けたのをうじうじと引きずり泣いていたと思われているらしかった。それはそれで恥ずかしいが、お漏らしよりは何億倍もマシだ。
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