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江口先生が、のそりと歩いて陣に寄った。何も発さずに陣を見る。対する陣は、江口先生を微動だにせず見上げていた。
陣の表情は分からない。ただ、左手に握る竹刀がいつ江口先生を打ってもおかしくない。そんな空気が流れていた。
「京子、おいで」
江口先生が手招きして、陣の対面に京子を立たせた。かかり稽古は、全員がくるくると回りながら次の相手また次の相手と当たっていく。その順番を変えることなど今までなかった。
僕はなんだか嫌な気持ちを抱いていた。今日来たばかりの陣のために、わざわざ江口先生が順番を変えたのは、げんなりしたのだ。強ければ特別なのかと。
僕はまだ剣道のことを分かっていなかった。
えいっ、はじめえぇ!
江口先生の声が太く響いた。
ちぃやぁああああああ
陣の声が高く響いた。
僕らも同時にかかり稽古を始めたが、動きを止めた。
かかり稽古は本来、かかっていく方が時間の限り技を出し続ける稽古だ。それを元立ちが技を出しやすいようにしてあげながら、隙あらば元立ちも技で応酬する。
だが、二人のかかり稽古は違った。元立ちである京子に隙を作る仕草がない。
二人は自然と試合に入ったのだ。
陣の剣先が京子の剣先の周りを時計回り、反時計回りと、忙しなく動き回る。
かつ、かっ、かつん。
京子の竹刀を徐々に陣の竹刀が払い出す。その度に払われた竹刀を京子が戻す。じっと、陣の顎に剣先を向ける。いつも、高い声で相手を威嚇する京子は、全く声を出さないでいた。
もう、僕たちは怒られようとも、二人から目を離せないでいた。
「おい、かかり稽古せんかあ!」
八尋先生が怒鳴ったが、稽古に戻ったのは数組だけだった。いつもならビビってすぐに従いそうな僕も、竹刀を斜め下に落とし、二人を見ていた。とても、大事なことに思えたのだ。
僕だけじゃないんだと思った。皆、京子を応援していたと思う。
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