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誰も、もうこちらを見ることはなかった。
いやああああ。きょえええええい。ちぃやあああああ。
気勢という奇声が四方の壁から反射して、僕の耳をつんざく。竹が金属を打つ音。足裏が桜の床をこする音。まさに、圧倒された。怖い。恐ろしい。絶対に剣道なんかやらない。時間が経つほどにその思いは強くなっていく。
一時間半の稽古が終わると、硬くなった全身の力が抜け、大きな息を吐いた。動いてもないのに全身がしんどかった。
そそくさと帰りたいはずなのに、どういうわけか僕は演台からしばらく離れなかった。耳の奥に、竹刀が打たれる音がいつまでも響いていた。
「どうだったかね」
ふと、演台の下から声をかけられた。先ほどまで鬼人にしか見えなかった老人が白い髭をゆっくりと撫で、こちらに微笑んでいる。
「す、ごかったです」
思わず、そう出た。帰りますと言うはずだった。
「自分で決めんしゃい」
老人はそう言って背中に湯気をたたせ、体育館の端へと歩いて行った。
確かに、圧倒的迫力だった。こんな世界は初めて経験した。でも、思わず出たすごかったですの言葉は、それに向けてのものではなかった。
ふと、右手から声をかけられた。
「山之内がここに何の用ね」
いつの間にか、演台に昇る階段に白い道着の剣士が腰かけていた。背中をこちらに向けたまま、小さな声で話しかけてきた。頭に巻いた白い手ぬぐいを取ると、汗で濡れた黒髪がはじけ、こちらへ振り向いた。
ぎょっとした。まだ僕たちは四年生だ。でも、その四年生の中に、この学校で一番大きな生徒がいる。それが、この大家京子だった。
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