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明らかに京子の動きは鈍くなっていた。
「京子っ! 攻めよう攻めよう」
止めがかかって、振り向いた京子へ八尋先生が声をかけたが、江口先生がまた制した。八尋先生へ耳打ちし、八尋先生が困惑しているように見えた。
京子の頷きに元気がない。開始時より更にだ。いつも大股の京子が内股で両足の爪先をくっつけているのが気になった。
「おい、メガネ、ネズミ」
面を脱いだ陣が小さな声で僕と小暮くんに声をかけた。
「なに?」
「お前ら、あいつのことよう知っとるやろ?」
陣は正座し、前を向いたまま言った。
「うん」
「あいつ、怪我してへんか?」
「……え?」
小暮くんは気づいていないようだった。僕は京子にいつも怒られ、ずっと見ていたから京子のどこかが変だと違いが分かる。それを瞬時に気づいた陣は見事としか言いようがない。
江口先生たちも気づいているのか、中村先生も交えて三人で話をしている。
はじめっ!
京子がしかけた。後ろ姿だけど、京子は何かを振り払うように跳んだ気がした。
えっ。
思わず僕たちは声を出した。
踏み出した京子の袴から、血がポタポタと砂に落ちた。
京子の打った面は相手の大将に弾かれる。京子にできた隙へ、相手は胴を放った。いつもなら、京子は鋭く防御し、攻めの姿勢に切り替える。普段通りなら、京子に隙なんてないんだ。
相手の竹刀が京子の胴を打った。ぱあぁんっと高らかな音が鳴り、審判が一斉に白い旗を上げる。そのまま、審判が咄嗟に試合を止めた。
やめっ!
京子がしゃがんでしまっていた。江口先生が大股で駆け寄る。血がいくつも砂に落ちていた。審判がしゃがんだ京子に近寄り、背中をさすった。僕は何が起きたのか、この時はよく分からなかった。
八尋先生が審判の三人と何やら話をし、周りがざわめいている。審判が礼をせずに下がって良いというジェスチャーをしていた。
江口先生が京子の肩を抱き、何かを促したが、京子は首を横に振って立ち上がった。
周りが、相手が、僕たちもが、ざわりと声を上げた。
真っ白な京子の胴着が血に染まっていた。お尻から股間にかけて、白袴を真っ赤に染めながら、京子はそれでもしっかりと竹刀を構えた。白い旗が上げられる中、蹲踞し、ゆっくりと頭を下げた。
京子は棄権による一本負けとなった。
僕たちは突然襲ってきた事態に声を出せないでいた。
京子はそのまま僕たちの横をすり抜け、境内の奥へと駆けた。京子のお母さんが追いかけ、大きな欅の下で背中を震わす京子をずっと慰めていた。
京子の泣き声を僕たちは初めて聞いた。
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