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 泣けてきたわ。  まだ試合も始まってねえのに。 「頼んだ!」か。  俺は頼まれたことなんてなかった。  ずっと、俺は独りやった。  頼まれるってのは、こんなにも心を幸せにするもんなんか。  なんやろ。  花の中におるみたいや。 ──俺と母ちゃんは、いつも殺されると怯えながら生きてきた。  帰ったら、親父が母ちゃんを殴っていた。止めてくれと何度言っても親父は母ちゃんを殴り続けた。小一の頃からずっとだ。もっと前からだったかもしれない。  母ちゃんの瞼は腫れ上がり、とても人様の前に立てないと授業参観にも姿を見せられないでいた。授業中、後ろを何度か振り返ったが、最後まで母ちゃんの姿はなかった。他の友達が手を振ってもらえているのを羨ましく見つめた。  参観の後に、同級生たちが母親と帰っていた。俺は独りでランドセルの肩紐を握り締めた。とても重く感じた。  帰ると、奥から悲鳴が聞こえた。ゴミ袋で溢れた玄関を飛び越え、生ゴミが臭う居間を駆け抜けると、カーテンの隙間から漏れる光に一升瓶が照らされていた。きらりと光った瓶が勢いよく振り降りた。  母ちゃんの肉の音がした。走って、何をどうしたか、まだ小さかったからよく覚えていない。目で見たものと自分の声ははっきり覚えている。  目の前には髪の毛がこびりついた絨毯と汚え親父の伸びた足の爪が見えていた。 「やめてください。ごめんなさい。やめてください」  土下座してた。あの親父に頭を下げて謝っていた。  あの日から、俺はみるみると自分のことが嫌いになっていった。  親父は俺の腹を蹴り、唾をかけ、酒を飲んだ。ゲップして、誇らしくもない何千円かを母ちゃんの頭に撒き散らした。  いつか殺してやる。小さくても、あの頃からはっきりそう思っていた。
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