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ふうぅぅぅぅ。深く呼吸をとった。
「構えなさい」
審判の目が厳しい。
大丈夫、落ち着け。吐いた息に心の毒は混じって出ていったはずだ。
「はい」
構え直し、はじめっと審判がかけた声とともに飛ぶ。
面は確実に渡辺の脳天を捉えた。
勝った。そう確信した。
が、旗は上がらない。
そうか。と切り替えた。
くじけては駄目だ。印象を悪くしたのは俺だ。何度も何度も有効な打突を繰り返すしかない。剣道を分かっていない打突は認められないと、審判たちは決めたのだ。それは、俺のせいなのだ。
冷静に、でも、必死で竹刀を振り続けた。文句のない一本を取るしかないと。
文句のない一本を取るために何度も飛び込んだ。渡辺は俺の速さに対応できていないと感じていた。渡辺は苦しそうに俺の竹刀を避けた。時折、小手や胴をとらえるが、やはり旗は上げてもらえない。
殺すぞ。
あの言葉さえ呟かなかったら、審判の耳に届いていなかったら、渡辺の方が卑怯だと分かってくれたら、もう五本は取っているはずだ。
でも、この状況は俺が招いた。低学年で同級生を殴ってから、結局はあんなに大嫌いな親父と同じことをしてきたんだ。その報いだ。
何度も何度も飛び込む。詫びるべき分だけ飛び込む。いつか許してくれる。審判がいつか旗を上げてくれる。そう信じてめげずに攻めた。
だが、もう一歩先、渡辺のことまで俺は考えていなかった。渡辺は大磯小剣道団という強豪の大将だ。やり方はどうあれ、見事だったと言うしかない。
雷の速さで放った小手面の連続技は、渡辺に届くと思われた。今度こそ一本だと。
渡辺は巧みに竹刀でそれをいなし、見事に俺の竹刀を払った。さっきまでと全く違う、重い重い払いだった。突如として強く払われた竹刀が防御に戻せない位置に置かれる。しまったと思ったのも束の間、目の前から竹刀が飛んでくるのが見えた。ざまあみろという渡辺の目が見えた。
そうか。こいつとは五分だったはずだ。こんなに一方的に攻められるほど甘くはなかった。こいつは、巧みに、俺に慣れながら機会を窺っていたのだ。
渡辺の竹刀が俺の面を打った。赤い旗が三本上がった。
大磯小大将、渡辺。面あり、一本。
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