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 氷のように冷たい体育館の床に足を踏み入れたとき、やっぱり来るんじゃなかったと半べそをかいた。  体育館の高い天井から、気勢だか奇声だか分からない声が反響して降りてくる。 「ほら、礼して。礼」  母さんが僕の後頭部をにぎるようにして、力まかせに頭を垂れさせた。(はかま)や面をまとった人たちが整列し、空気を裂きながら竹刀を振っている。その前で、えいっえいっえいっと腹の底から声を出す老人がいる。竹刀を右斜め下に持ち、ゆっくり右から左へ摺り足で移動している。 「八、九、十、一、二……」  皆が必死に声を上げて竹刀を振るさまを、鬼のような形相で睨みながら左へ擦り歩く。  僕はぽつんと入口で佇んでいる。体操服でいることが恥ずかしい。冷たすぎて、足の裏が痛くなってきた。冷たくなった足裏を交互に足の甲にこすりつける。お腹の底から張り上げるみんなの声が、嫌なほど耳の奥に響く。もじもじと寒さを避ける僕は、ここにいちゃいけない存在だと思った。 「帰ろ。誰も見とらんばい、こっち」  すがるように母さんのコートの裾を引っ張った。 「そげんしてすぐ逃げようとするやろ、(かおる)は」  もごもごとした口からうまい反論は出てこなかった。「やめえい」と怒鳴り声が体育館じゅうに響き、竹刀を振る動きが止まった。一人一人からぼんやりと湯気が昇っている。  深い藍色の道着を着た老人は斜め下に竹刀を構えたまま、摺り足で整列した剣士たちをすり抜けこちらへ向かってきた。叩かれるのではないかと半歩、退いた。左足の踵が開き戸の冷たいレールを踏んだ。 「見学の子ですな。演台の上でお座りください。足は崩して構わんですよ」  ほんの少しだけ笑みを浮かべた老人は白い髭を撫でながら、剣士の列の前へと摺り足で向かう。途中、私語をしていた二人の剣士の面をぱあんぱああんと甲高い音で叩いていた。僕は思わず、ひっ、と声を出した。
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