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その日、朝一でその原稿は届いた。
「三隅さん。岸田さんから原稿届いてますけど」
僕はその原稿を、上司である三隅さんの元へと持っていく。
三隅さんは、僕が差し出した茶封筒を受け取った。
「なんも聞いてないぞ。本当に岸田さんからなのか?」
「そう書いてありますけど……」
やけに整った、いや、整いすぎた字。まるで、図形のような、一本一本の線がやけに鋭角な字だった。
「ふうん」
三隅さんは、そんな鋭角ばった字をじっと見つめる。
「俺、これから会議なんだよ」
「知ってます」
三隅さんがちらりと僕の方を見る。
「お前、暇だよな」
「電話番なんですけど」
「ろくにかかってこねえだろ。これ読んどけ」
三隅さんが、ずいっと僕に茶封筒を差し出す。
「いや、なんでですか」
「見習いだっていってもお前も編集者だろうが。勉強だよ勉強」
「岸田さんって幻想文学ですよね、書いてるジャンル。僕そういうのわかんないすよ」
「バカ野郎。ここは怪奇系ジャンルの編集部だろうが」
「まあ、そうなんすけど」
居たくてこの部署にいるわけじゃない。出版社に入社して、あれこれ部署で経験を積んだ後、なぜかここの所属になってしまったのだ。
「いいな? ちゃんと読んどけよ」
そう言い、押し付けるように茶封筒を僕に渡し、三隅さんは会議へ向かった。
自分のデスクへ戻り、茶封筒から原稿を取り出す。封筒に厚みがないことから予想はできたが、文章量で言えば、短編程度のものだった。
岸田彬は、この部署が発行する怪奇幻想文芸誌の看板作家だ。
あれやこれやと怪しい記事を載せるたサブカル誌がある程度評価されているのは、三隅さんが発掘してきた様々な作家が執筆する作品群のおかげだった。
岸田さんは、その中でも特に評価されている作家で、プロフィールも謎が多ければ、書かれる作品の内容もやたらと難解なことで有名だった。
唯一岸田さんと関わりのある三隅さん曰く「あの人は本物だから」だそうだ。その意味はよく分からない。
ひとつ溜息を吐き、僕は原稿を読み始めた。
タイトルは、「世界」というらしい。
※
世界
僕には友人がいた。
彼は小説家を夢見ていて、狭いアパートでいつも小説を書き続けていた。
彼は小説家になるために上京してきた。そのために、難関大学を受験し、合格をおさめていた。
上京してすぐ、彼は大学を辞めた。
彼は大学に通っていると嘘をつき、両親からの仕送りで生活をしていた。しかし、生活といっても、彼はほとんど外に出ない。
朝から晩まで小説を書き続け、時折、月に一度買い込でくるわずかな食い物と水で腹を満たし、喉を潤す。それ以外は、すべて原稿用紙と家賃の支払いにあてていた。
彼と出会ったのは、ある文具店でのことだった。
彼は万年筆を修理に出していて、それを受け取りにきたとのことだった。
私は、なぜか彼の風貌に惹かれた。
ぼさぼさの長髪と無精髭。身なりなど気にせぬという服装。
文学にかぶれていた私は、そんな彼の姿に惚れこんだのだ。
その場で私は彼に声をかけ、そこから、私たちの交流は始まった。
そうして、交流を重ねていくうち、彼は私に語った。
「僕はね、なぜ自分が小説を書いているかわからないんだ。情熱もなければ、高尚な文学論なんてものもない。だが、ある時僕は見たんだよ」
何を? と私が問うと、いつも無表情な彼がにやりと笑みを浮かべる。
「世界さ。僕は、世界を見たんだ。実家の、ド田舎にあるあの部屋で、僕は見たんだ。世界を」
どんな世界なんだ? と私が問う。
「世界は世界さ。君も見ればわかる。いや、理解できるはずだよ。それは、あるんだ。ただ、そこにある。だが、そこに至るには、答えを見つけなくちゃいけない。そして、その答えは、これと、これが綴る物語が必要なんだ」
彼はこれ、と言いながら、いつも肌身離さず持っている万年筆を見せた。
黄昏時の闇を孕む空の色に似た、薄い青を思わせる光をたたえた目を私に向けながら。
なんだか、私はそんな彼を羨ましくも思った。
それからも、彼は小説を書き続け、気が付けば、四年が過ぎようとしていた。時期でいば、大学を卒業するころ。つまり、仕送りもなくなる。
心配しているのは私の方で、彼は相変わらずだった。
書き溜めた小説は、山となり部屋を埋め尽くすほどだった。
私は、その山の奥にだらりと座り、万年筆を原稿用紙に走らせる彼の背に、これからどうするのかと問うた。
「どうかな」
小説を書き続けるのかと問う。
「僕には才能がないらしい。どれだけ書いても、世界は見えない」
彼が、原稿を書き進める手を止めた。
「これを書き終えたら、君にやるよ、この万年筆」
いいのかい? と、私は彼の背に訊く。
「ああ。大切にしてくれよ。君の家に送っておこう」
取りにくるよ。と言う私に対し、彼は言う。
「いいんだ。まあ、継承の儀式みたいなものだよ」
それだけ言うと、彼はまた原稿を書き進めていく。
その後、私は家へと帰った。
次の日の朝、ポストに万年筆が入っていた。わざわざ家に来て、ポストに入れて帰っていったのか。
私は礼を言いに、彼の家へ向かった。
彼は、部屋で首を吊っていた。
見開かれたその瞳の色は、やはりどこか黄昏を思い起こさせる黒に近い青色をしていた。
死んでなお、瞳の色は変わらない。
それならば、彼は生きながらにして死んでいたのだろうか。
なぜだか、冷静にそんなことを思った。
そうして、私は小説を書くようになった。
きっかけは、友の死。
けれど、他の要因。なんと言えばいいのだろうか。引力、のようなものが、私と小説を結び付けているように思える。
というより、私にも見えたのだ。
あの日、彼の亡骸の目の向こうに。
世界が、見えたのだ。
けれど、それはすぐに消えた。
思い出そうとしても、思い出せない。
脳裏に浮かぶのは、彼の昏い瞳の色だけだ。
私は小説を書き続けた。
幸い、私には才能があったらしく、怪奇幻想作家としてそれなりに評価をされている。
けれど、これが最後の作品になる。
私は、ようやく見つけたのだ。
世界への入り口を。
理解した、すべてを。
私は、その世界に行く。
万年筆は、こちらに置いていこう。
この原稿と万年筆は、世話になったМに託すことにする。
原稿は送らせてもらう。万年筆は、取りに来てほしい。
いつもの机の上に置いておく。
では、さらばだ。
※
原稿を読み終え、僕は軽い寒気をかんじた。
なんだか、妙に質感のある作品だった。
「おう」
会議を終えた三隅さんが、僕に声をかける。
「いいねぇ」
「……何がです」
「お前の表情だよ。生っぽかったんだろ、原稿」
「……不気味でした」
「最高じゃねえか。それこそ怪奇幻想だよ」
「あの、三隅さん、前に言ってましたよね? 岸田さんは本物だって。それって、作家としての技量が本物ってことなんですか? それとも……」
その先の言葉がうまく出てこなかった。そんな僕を見て、三隅さんは薄く笑みを浮かべる。
「どっちだと思う?」
「え?」
「確かめに行くか?」
「はい?」
「これから、岸田さんのとこに行くけど、一緒に行くか?」
なにをしに行くんですか? 万年筆を取りに行くんですか?
そんな質問が、喉元まで出かかる。
「やめときます」
けれど、口から出てきたのは、そんな言葉だった。
三隅さんは意味深に笑うと、僕に背を向け、去って行った。
もしあの原稿に書かれたことが真実だったとしても、僕にはそれと関わる勇気はない。
机に突っ伏して、目を閉じる。
はやく、異動したい。
改めて、いや、より強く、そう思った。
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