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「まあ、とにかく今はこの事件を解決へと導かないとね。……ねえ、女将さん。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」
メアリの言葉に、番台に座っている老齢の女性は首を傾げた。女将さんは随分昔から耳が遠くなってしまったようだけれど、女将さんはこの銭湯でそれなりに稼いでいるのか、補聴器を耳に付けていた。まあ、実際に考えてここで仕事をしていく以上、聴覚が失われつつあるのは結構な問題になる訳だし、多少の投資をしてでもそれは取り戻さなければならないというのは、割と自明なことではあるのだけれど。
「はいはい。聞きたいことがあるなら、聞いて頂戴。わたしが知っている範囲であれば……わたしが教えられる範囲であれば、教えてあげることもないけれど」
「じゃあ、遠慮なく。……女将さん、彼女を見たことない? 歯車が一杯あった部屋に居たことがあるらしいのだけれど。裏を返せば、その記憶しか持ち合わせていないようなのだけれど」
女将さんはメアリの言葉を聞いて、目を見開く。眼鏡の位置を動かして、ピントを合わせる。そしてプネウマの顔をまじまじと見つめる。普通ならば恥ずかしくなったりして何処かに隠れてしまいそうなものだけれど、プネウマはあんまり気にしていないようで、じっと女将さんを睨み返していた。見つめていたというよりはずっと刺すような目つきで見ていたのだから、睨んでいるというニュアンスが正しいだろう。それに、値踏みされるように見つめられちゃあ、どんな人間だって居心地が良いものではない。だったら、反抗的な態度を取るのも充分頷けることかもしれなかった。ぼくとメアリにとっては良く知る女将さんであっても、プネウマにとってみればただのおばあちゃんであるのだから。
「……済まないねえ。やっぱり見たことはないよ」
女将さんはしばらく見つめて、一言そう言った。結論は短いものだったけれど、五分ぐらいずっとプネウマの顔を見ていたような気がする。そこまでして見ていかないと記憶のディスクと照合出来ないのだろう。……年を取りたくないものだ。元気そうに見える女将さんですらそうなのだから、ぼくがあの年齢になったらどうなってしまうのだろう。
メアリはそれを聞いて――ぼくも予想していたことではあったけれど――悲観した様子はなかった。ただそれを当然のように受け入れて、ただ頭を下げるだけだった。
「そうですか。もし何か知っていればと思ったのですけれど……」
「因みに、彼女は記憶喪失か何かなのかい?」
良くご存知で。
「はい。まあ、そうなんですけれど。ただ唯一の記憶として歯車のある部屋に居たという記憶だけが残っていて……」
「ふうん。じゃあ、中央塔の作業員にでも聞いてみた方が良いんじゃないかねえ」
中央塔?
上層街と下層街を繋ぐ、あの中央塔のこと――だよな。
「知り合いでも居るんですか?」
「古い仲でね。悪友みたいなものだよ」
女将さんにもブイブイ言わせているような時代があったのか。意外。
まあ、誰しも隠したい過去はあるよな。女将さんはそれを隠したいと思っている訳ではないだろうけれど。
「もし会いたいなら連絡先を教えてあげるけれど……どうする? 会ってみるかい?」
その言葉に、ぼくとメアリは即座に頷くのだった。
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