第二話 鋼鉄の背骨 Steel_Spine.

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 そんなものなのかね。  考えたことは一度もないけれど、働いている人間からしてみれば、働いていることに喜びを感じているものなのだろうか? だとしたらそれはマゾヒストの仲間入りをしていると思うし、すぐさま病院を受診した方が良いと思う。苦労は買ってでも買え――そんな古い言葉があるような気がするけれど、しかしながら、買ってまでして得た苦労に、何の価値があるのだろうか? 苦労することで人生経験を積むことが出来るなんて言っている人も居ることは居るけれど、人生経験を積むこと、イコール、苦しいことではないような気がする。  楽しいことで人生経験を積んだって、別に悪い話じゃないと思う。  一度きりの人生なんだし、少しは楽しまないと。  ゲームみたいに、ゲームオーバーした地点からやり直し出来る訳じゃあるまいし。 「ここで現実とゲームをごっちゃにさせるのもどうかと思うけれど……、でも、人生経験が辛いものばかりではない、というニュアンスについては概ね正しいでしょうね。だって、辛いことが人生経験だったとするならば、成功経験は人生経験に繋がらないということになる訳だし、だとしたら、それっておかしなことになるのだから。失敗をしないと良い人生じゃない、なんて言っている学者は何処にも居ないし、ライトみたいに無職で暮らしている人間は、それこそごまんと居る訳なんだから」  何だろう。少しだけぼくのことをディスられたような気がする。  気のせいだな。無視しておこう。 「そのポジティブシンキングは少し見習っておくポイントかもしれないけれど……。まあ、それはそれ。これはこれ。ライトの価値観とわたしの価値観が同一な訳ないし、ライトが正しくないと思っていても、わたしは正しいと思っている訳。その線引きとして、常識なりルールなりが存在しているのだし」  難しい考えだよな、と僕は嘯く。  結局の所、人生というのは山あり谷ありであるべきなのだ――というのは学者の意見ではあるけれど、しかしながら、必ずしも百人居たとしたら百人の人生がそうであるとは限らない。山を登るだらけの人生もあれば、谷を下るだけの人生もある。  要するに、イージーモードとハードモードであるかの違い。  そして、その選択は生まれた時から出来る訳でもないし、もしかしたら出来ることもあるかもしれないけれど、大体のレールは生まれた時から既に敷かれている。あとはそれに沿って行動していくだけに過ぎない。そして、ある段階で選択肢が生まれて――ちょうどレールの分岐点の如く――分岐していくという訳だ。ノベルゲームのルート選択みたいなものだな。  しかし――イージーモードで生きていた人間と、ハードモードで生きていた人間も、全員人生経験は得ているはずだ。同じ二十年間生きているとしたら、イージーモードだろうがハードモードだろうが、ある一定の人生のイベントはクリア或いは通過しているはずだろうし、そのイベントについてもある程度の結果を得ているはずなのだから。それが成功しているか失敗しているかはその人の気分や努力など――様々なステータスによって変化する訳だけれど。それによってイージーモードだった人間がハードモードに、ハードモードだった人間がイージーモードにモードチェンジすることも、或いは可能なのかもしれない。それを掴む可能性は、ほぼゼロと言って差し支えない訳だけれど。  結局、人生というのは生まれた時から、既に息絶えるときまでのルートが出来上がっている。そして、この世に生を受けてからはずっとそのルートに沿って進んでいくだけ。努力というのは、そのルートでどれだけ楽をしていけるかという、ただの追加要素に過ぎない訳だ。  
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