幕間の紫煙

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 うだるような夏の夜気、沈んでいく音と煙。  ───苔みたいだよな。なぁ、鷹也……。 「(あち)ぃなぁ」  幾重にも布地が重ねられた衣装だから、余計にそう感じる。  すっかり降りた夜の帳は、暗く陰った紺碧の空だ。漆黒の闇ではなく地球の青を反射した不可思議な色。しかし自分の脳がそうと認識しているだけで、本当は全く違う色なのかもしれない。 「いたよ。峰さん!」  舞台監督の指先のように、バチンと頭の中で音がして───意識は峰鷹也(みねたかや)へと引きずり戻される。  人の郷愁を邪魔する不届き者。のみならず初日から千秋楽に至るまで主役に向けられるはずの視線を奪っていった盗人。我が愛しき後輩にしてディアルムド───沸田謙吾(ふったけんご)が、勢いよくドアを開け放って現れた。人が来ないところを小屋入りの前から調べて来たのに。足元に転がる二本の吸い殻をざり、と踏み潰す。 「……非常階段まで把握するか普通」 「備えあれば憂いなしですよ」 「ほんと余計なことばっかねお前」 「自分が一番ですから」  違うだろう、と返してやりたいのを堪える。こういうことは自分で気がつかなければ意味がない。  表現の道を志す者にまず必要なのは自分に対する深い理解だ。沸田は端正な顔立ちに少年のような目という人を惹きつけてやまない容姿と類稀なる演技力を兼ね備えている。にもかかわらず大手からの引き抜きを断り続けているのは徹底的なまでに貶された自己評価のせいだ。  今やこの男がいなければ劇団は成り立たないというのに、当人はここ以外では生き残れないと暗示レベルで思い込んでいる。彼の将来を憂う座長によると、近々荒療治として懇意にしている他劇団に沸田を放り込む予定だという。自己否定に拍車が懸かるか、好転してくれるのか。  カシュッ、カチンとジッポライターを手遊びながら沸田は手すりにもたれかかった。 「打ち上げですよ。肉ですよ」  えらく不機嫌な声だ。 「鮪の口だな」 「皆脂摂取したいんです、脂」 「主演の座をくれてやるから寝返れ」 「今日千秋楽なんすけど。火下さい」  甘い顔には似つかわしくない二桁の数字が印字された箱を取り出すと、紙巻の先端をちらちらと振って要求してくる。ライターを差し出した。しばらくすると億劫そうに煙を吐き出し、だらんと手を下ろした。  匂いの違う煙が二つ、夜風をすり抜けて混ざり合う。 「オジサンの胃腸を労わってくれんのかねあいつらは」 「……まだ三十路でしょう」  沸田はぬるい鉄製の階段に、俺より二段低い所へ腰を下ろした。ちらりと顔を見遣る。こちらの視線には気づいているはずだが沸田はジッポをいじりながら俯いている。  歳を重ねるに連れて待つことが苦痛ではなくなった。俺は肺に染み込んでいくタールの味をじっくりと味わう。半分も火が進まないうちに沸田は吸殻を踊り場に向かって放り投げた。しゅっと冷たい金属に擦れたそれは、燻って静かに転がっていった。  やがて風も凪いだ。湿気があるからか煙が熱気とともに体に纏わりつくようだ。まだ吸い切っていない煙草を捨て、帯をほどき着物を脱いでいく。 「峰さん」 「なに」  適当にまとめた着物を踊り場に放って、肺を空にする。深呼吸をして上を向く。身体が痛い。今になって筋肉が軋んでいる。 「……なんか、あの」 「うん」  新しい煙草に火をつけた。  じくりと指先に、炎の熱さが伝う。 「珍しく挨拶してましたよね。終演後」  ちりっと炎が裂けた。  口内に溜まった煙を嚥下することなく吐き出す。  沸田は自分を卑下するあまり周りに対する観察眼には目を見張るものがある。評価をしている場合ではないのだが、素直にそう思った。  ぐしゃりと前髪を掻き上げてにこりと微笑む。 「……彼女さんとかですか」  狙い通り笑顔にビビってはくれたものの追及を止めるまでには至らなかった。盛大に溜め息でもつけば退散してくれるだろうが───ここに来て、青年の頃の甘ったれが首をもたげてきた。  話してしまえば楽になる。  悪いようにはならないと。  煙草を咥え直してからちょいちょいと指を曲げ、沸田に隣に来るよう促した。機械人形のようにぎこちない動きで腰を下ろした彼に、煙草を一本押し付ける。 「吸わんでいいよ」  目を逸らしつつ頷いたのを見て、思わず笑ってしまった。  さて。おふざけも程々にするとしよう。 「遠目で見たのかな。……親友のお母さん。招待しててね」  瞬間、沸田はかっと目を見開いて凝視してきた。ただでさえ目力があるので怖い。やめてほしい。  ただこの男からすれば、愛想はあるが愛嬌のない、とっつきにくい態度の自分にチケットをプレゼントするほどの友人がいるなど青天の霹靂だったのだろう。  実際、これまで舞台に誰かを呼んだことは片手で数えて指が余るくらいしかない。  沸田がんん、と唸るように喉を鳴らして顔を上げた。 「なにかの記念日とか」 「いや。そんな綺麗なもんじゃない」  胡乱げに尋ねられ、肩を竦めて返す。 「───命日なんだ、今日」  佛田の視線が突き刺さるのを感じた。顔を上げるとしまった、とでも言いたげな困惑と焦りに満ちた顔がそこにあった。  へらっと表情を緩ませ、ため息をつき再び前を向く。 「こんなさ、蒸し暑い夜だったな。あいつひたひたになって床転がってんだもん。びっくりしたよ」  思い出す。  熱帯夜だというのに冷たい汗が吹き出て仕方なかった、恐ろしい真夜中を。  不審なメッセージにもしやと思い、全力疾走で駆けつけたアパートの風呂場で彼は息絶えていた。  出しっぱなしのシャワーが全身をしとどに濡らしていて、水分を含んだ布の重みも加わって金具が落ちたのか、ロープが首に巻きついたままぐったりと横たわっていた。その場で脈を取ろうとしたが、そんなことをしなくても開ききった瞳孔だけで事切れているのは明白だった。  巴山己錫(はやまみすず)。大学の講義で隣になり、落としたノートを拾ってやるも名前の読み方がわからず話し掛けたのが切っ掛けだった。  女みたいな名前の、茶髪で物凄くガタイがいいやつ。演劇サークルに入っているのだと聞き冷かしてやろうと訪れたのだが、しかしそこで披露された繊細な演技や汗を散らして楽しそうに立ち回る姿に一撃で惹かれ、その後よくつるむようになった。  元々演劇部だったのだという巴山。それまで芝居なんぞ興味すら持たなかった俺は半ば彼への興味だけで芝居の世界に足を踏み入れた。  卒業後は二人して都内の劇団に入団した。四年間、お互い競うように培った演技力には多少なりとも自信があったし、この先一生サラリーマンとして生きていくなんて真っ平だと思っていたのだ。 「二人でなら何とかなるだろ。文殊の知恵だ」 「それ三人だけどね」  狭いアパート六畳に巴山と共に住み、貧乏ながら芝居の道を邁進した。  理性的で繊細な巴山と、  感覚的で我の強い自分。  正反対だからこそ噛み合っていた俺達はやがて正団員として認められ、名コンビとしてイメージが定着したことである程度固定のファンがつくまでになった。  ───そんなある日、転換点が訪れる。  劇団に入って数年、相変わらずバイトをしなければ食えない状況だった俺達は、掛け持ちの勤務を終えてクタクタの夜、座長の水原に呼び出された。  大道具の制作などで作業要員として駆り出されることはよくあり、また徹夜もしばしばだった。俺達は痛む体に鞭打って劇場に向かった。  予想通り何人かの団員がホールで作業していたのだが、のそりと熊のように体を揺らして現れた水原が手招きしたのは廊下の奥だった。  狭い事務所に男三人が押し込まれる。  所在なく壁際に立つ二人を横目にドアを閉め、椅子に座り水原座長は開口一番にこう言った。 「峰、巴山。お前らに連ドラの依頼が来てる。レギュラー出演だそうだ」 「へ」  間の抜けた声を出して固まった。  連ドラ───連続ドラマ?  三ヶ月ワンクールの、レギュラー。モブじゃない。番組のエンディングでゆっくりと名前が流れる、あの、 「……地上波ですか」 「依頼主は帝都テレビ。月九だ」 「げつく!? 己錫!」  隣で同じく固まっている巴山に躊躇なく抱きつく。 「やったぞ! 俺ら全国に見てもらえるんだ、やっと巡ってきたぞチャンスが! なあ!」 「……ああ…………」  呆けているのか心ここにあらずといった風に呟く巴山の肩を叩き、頬に手をあてた。熱を持った手のひらがじんじんと痺れている。熱い。昂っている。  芸術を仕事にする者たちは皆飢えている。役者を志す若者にとって誰に、どれだけの人に自分の芝居を披露できるかは極めて重要だ。  数週間前の公演で二人を見て決めたのだそうだ、と水原座長が語る。 「顔合わせと撮影の日程については後日連絡するとのことだ」  ふと焦ったように巴山が詰め寄る。 「再来月の公演はどうするんですか」  俺達が所属する劇団では定期公演がある。入団した年から欠かさず出演していた。 「今の段階では正直何とも言えんが、ドラマワンクールの撮影は通常四か月かかる。さすがにレギュラー出演ともなるとその間のスケジュールもタイトなものになるだろう。そこは追々考えるが、出番はないものとして構えておいてくれ」  水原座長は俺達の顔を交互に見ながら立ち上がった。 「仕事が来たこと自体は大したことじゃない。浮かれずにしっかりやれ」 「「はい」」  頬を上気させて表情を引き締める俺の隣で、巴山の目はどこか遠くを見つめていた。  撮影が始まって、一か月が経った。  俺と巴山が演じているのはコンビの刑事役だった。特殊な部署に配属された主人公に何かと絡む、お調子者と毒舌の二人組。シリアスで緊張感あふれる物語にコミカルな風を吹かせる役割だ。  双子のように息の合ったリズミカルな芝居を展開すると、スタッフたちの安堵する気配が感じられた。どうだ、俺達を選んで正解だっただろ! しかし、そんな風に上手くいってばかりではない。 「あぁ、背中痛えー……」  その日は不穏な組織との戦闘シーンの撮影だった。  徹底したイメトレで論理的に落とし込む巴山と違い、感覚派の俺は、舞台とは違う規模と空気感での激しい立ち回りに混乱し動きが乱れていった。そしてそれは一瞬だった。繰り返されるリテイクと『出来ない』自分にキレて大きく振りかぶってしまい、用意されていたマットレスから逸れ、硬いコンクリートに背中から着地してしまったのだ。  息もできなくなるほどの痛みと、監督にこってり絞られて頭が冷え、応急処置の後の一発目でOKが出た。全然嬉しくない。情けなくて、まともに挨拶もできずにスタジオを後にした。  とっぷりと暮れた夜道を、とぼとぼと歩く。おにぎりや総菜の入ったビニール袋を持つ巴山が、少し後ろから着いてくる。苦笑が聴こえる。珍しく意気消沈している友人の姿が面白くて仕方がないのだろう。仕方ない、自業自得だ。 「帰ったら湿布変えような」 「おう、頼む。……迷惑かけたな、己錫」  乗り切らない自分のせいで何度もやり直される中、彼は一切揺れることなく完璧に芝居をこなしていたことを知っている。 「俺は大丈夫だよ」  静かに微笑む巴山。  ふと立ち止まった。 「? どした、鷹也」  僅かに首を傾げる巴山に向かって、俺はおもむろに口を開いた。 「何か我慢してないか、おまえ」  長年付き合い、寝食を共にした俺だからこそ気づけた、密やかな変化。  撮影が始まってから、特段様子に異常があったわけではない。忙しいが役者として充実した日々。真摯に役に向き合っているはずの巴山に、しかし俺はどうしても違和感を感じざるを得なかった。  何気なく突っ立っているように見えて、小声で延々と何かを呟いている。往復のロケバスの中ではひたすら窓の外の、何もない一点を食い入るように見つめている。殺気すら感じられる張り詰めた様子。到着するまで車内では無言だ。  撮影の合間も、時々はっとしたように顔を上げたと思いきや、ぶるぶると頭を振って必死に平静に戻ろうとしている。話しかけられればあの柔和な笑みを浮かべて対応するが、その笑顔も最近はぎこちない。  目まぐるしい日々の最中、巴山はずっと何かに心をとらわれている。 「……」  問いの言葉に含まれた思惑を正しく感じ取った巴山は、瞬きの間に表情を穏やかに戻した。 「俺は大丈夫だよ。鷹也。撮影頑張ろう」  がさりと袋を揺らして歩き出す。  すれ違いざまにも揺れない真っすぐな目に、ふっと肩の力が抜けた。  まるで気にしていないような様子を見ると、もしかしたら杞憂なのかもしれない。自分だって今の仕事が始まってからピリピリしている自覚はある。根が超のつくほど真面目な巴山だ、殺気立っているのがそう見えたのかもしれない。そういえば静かにキレるタイプだったな、こいつは。  緩い足取りで先を行く巴山の背中を眺めながら、俺は僅かに残った不安を消し去るようにおい、置いてくな、と悪態をついた。  この時、不安を疑念に変えて問い詰めていれば、あんなことにはならなかったかもしれない。  撮影が始まって二か月後。  劇団の定期公演が千秋楽を迎えた同日。  その日は俺と巴山が演じる刑事二人組を中心に物語が構成される回の、撮影二日目だった。 『僕たちは刑事なんだよ。悪人を檻に入れて事件を解決するのが役目。慈善事業じゃないんだ、龍二』 『……俺は、正しいとは思えない』  普段は息の合った凸凹コンビ。その二人がある事件に関して意見の食い違いを起こしたことから、関係性に亀裂が入ってしまう。  肩を落として椅子に座り込む『日丘()』に、傍に佇む『夜森(巴山)』が無感情に語る。 『高山静江とどんな交流があったか知らないけど、冷静になれよ。高山郷太は組織の中核にいる男だ。何十人もの人生ぶち壊した悪党に今さら家族の説得なんか通用しないだろ』  勢いよく立ち上がり、夜森の胸ぐらを掴む。 『ばあちゃんはぜんぶ、わかってるんだよ……孫が汚え仕事してるって。どんなひどいこと言われても、苦しんでるんだってわかってて。だから』 『だからさっさと組織を摘発すれば済む話だ、それで更生の機会だって与えられて』 『それじゃだめなんだよ……! ばあちゃん余命宣告されてんだ』  激情に満ちた顔を冷徹な目で見返していた日丘が、わずかに目を見開く 『な……お前はいつも正しいよ。俺は馬鹿だから、いつもお前の正しさにくっついてれば全部うまくいった。でも今回は譲れない。俺は俺の正しさに従わなきゃ』  一呼吸置き、一段低いトーンで語りかける。 『なあ、どうする……? その場しのぎで正論振りかざすのか、他人のために正義曲げんのか。俺は言ったぞ。てめえの覚悟教えろよ』  胸ぐらを掴んだまま引き寄せ額を激しく打ち合わせる。ごっ、と鈍い音がして、二人の目ががっちりと合う。 『お前はどっちがやりたいんだ!』 「ッ、っく」 「カットオッ」  鋭い声で現場の空気が固まる。 「巴山君、そこで崩れるなってさっきも言ったでしょ!」 「すいませんっ……」  慌てて頭を下げる巴山。俺は真っ赤になった額に氷袋を押し当てられながら、信じられない気持ちで巴山を見つめた。  今日、六度目のリテイク。  あの巴山が崩れている。  途中まではテンポも空気も気持ちよくハマっているのに、唐突に冷水をぶっかけられたかのようにぷつりと集中が切れる。  現場の空気は最悪だった。常に安定していた巴山の突然の絶不調に、スタッフや演者たちの間で不安感が伝染していく。  一旦休憩を挟むことになり、よろよろとロケバスに向かう巴山の肩を勢いよく掴んだ。 「おい、お前一体何考えて……」 「はなせ」  振り向いた巴山の顔は蒼白だった。脂汗が額から、頬を伝って流れ落ちる。  冷たく翳った目は虚ろで焦点が合っていない。  まるで病人のような姿に思わず固まった俺の視界が、急に開ける。 「え」  糸が切れた人形のように崩れ落ちて、巴山は意識を失った。  俺は劇場にいた。  舞台には上がらず、客席の前で何をするでもなくポケットに手を突っ込み立ち尽くしている。  今日は、撮影はない。  先日から中断していた。  暗い客席と違い、舞台上は強い照明に照らされてきらきらと埃が舞っている。閉め切られた空間の、あまりの静けさに自分の鼓動がやたらと大きく感じる。  ふと視線を横に向ける。  キィ、と蝶番が軋む音。続けてドアが閉まる音、ゆっくりと歩く気配。  袖から現れたのは巴山。がっしりと筋肉がついていた体は驚くほど痩せ細り、頬はこけて目にも生気がない。  壇上の巴山は背中に照明を浴びて、濃い影に包まれた顔に微笑みを浮かべた。 「凄い顔だね」  苦笑する巴山の目に映る自分は、確かに酷い顔をしているのだろう。巴山が現場を離れてからの二週間、峰はずっと怒りと困惑に苛まれていた。  言葉を発して尚静寂と化している、澄ました顔に悪態をつきたくなる。それを深く息を吐いてどうにかやり過ごし、俺はぐっと巴山を見据えた。 「一世一代の大勝負って時に、何余計なこと考えてやがった」 「余計?」  はは、と乾いた笑みをこぼした巴山は、どこか朗々と語るように声を響かせた。 「さあ、なんだったんだろうね。お前にはわからないと思うよ」  違う。  目の前の男は自ら人を嘲るような底意地の悪さは持ち合わせていないはずだ。  舞台は嘘をつく場所じゃない。真実を語ってくれ、己錫。 「……一体どうしたんだよ。お前はどんな事があっても芝居を蔑ろにするような真似はしなかった。舞台の上では全てを切り捨てて見せる胆力があった。それがどうして、今回に限ってこんな事になったんだ。入院だなんて……」  胃潰瘍。  巴山が激しいストレスに見舞われていたことにようやく皆が気付いた。  大役を任され、急激に生活や状況が変化したことで不調に陥ったのだろうと周囲は考えたが───俺は違う、とほぼ直感で感じていた。今さらそんなことでおかしくなるようなやつじゃないんだ。  初めて役をもらったとき、シフトを空け過ぎてバイト先をクビになった時、育ての親である祖父を喪った時もここまでにはならなかった。巴山は自分を知っている。どんなに感情が激しく揺れ動こうとも、ずるずると引きずったりはしない。以前から感情のコントロールに長けていた、はずだったのに。  約二か月もの間、体に異常が出るまで我慢をし続けた。  いずれ仕事にも影響が出るとわかっていたはずなのに。  誰よりも真剣に芝居に向き合っていると思っていたからこそ、俺は巴山が許せなかった。 「一体、何に悩んでたんだ。お前にとって、あの時仕事よりも大事な物があったのか。どうして俺に何も言わなかった、なんで俺にまで芝居した、なんでだ、己錫!」  爪が食い込むほど拳を握り締めながら、俺は怒鳴った。荒い呼吸音が、ろくに反響もせず大気に溶けていく。  激しい怒りをぶつけられて尚、微動だにしなかった巴山がゆっくりと息を吸った。  全てを了解したような笑顔だった。 「───鷹也はさ。一流の役者になりたいんだよね」 「は」  世間話でもするかのような調子で発された言葉に、一瞬混乱する。巴山は続ける。 「俺も同じだよ。一流の役者になりたい。なあ鷹也、お前にとって一流ってなんだ。ドラマでデカい役貰って、知名度上げて、コマーシャルとか映画とかに出演することか? ……きっと俺とお前の理想は違う」  頭がぐるぐるする。巴山の言葉が理解できない。何が言いたいのかさっぱりわからない。  晴れた秋空のような微笑を浮かべて、 「鷹也。俺はね。定期公演に出たかったんだ」  巴山はそう言った。 「…………は?」  定期公演。  劇団の。  ドラマの撮影に集中するため出演を見送った、あの公演。  それに出たくて体調を崩した?  なんだそれは。 「……………………なに、言ってるんだ」  本当に理解が出来なくて、そう呟いた。  両腕を大きく広げて巴山は上を見上げた。眩しい光に目を細める。  「俺は、芝居が好きだよ。板の上で別人に成り切る。客席いっぱいの観客が役者の一挙手一投足、発される言葉に想像力をかき立てられて芝居という嘘に没頭する。俺はね、鷹也。役者は呪術の使い手なんだと思うんだ」  混乱に支配された脳で、必死に巴山の言葉に耳を傾ける。湧き上がるのは惧れ。目の前の男が、口を開くたびに自分の知らない人間になっていく。 「俺達は自分に、観客に呪術を行使する。言葉と体を使って。劇場という空間にいる人間全てが虚構の世界に引きずり込まれるんだ。頭では分かっていても、真実と見紛う程の嘘に人は魅了されていく」  舞台の空気すら愛おしむように、ゆったりと、低く深く声を場内に響かせて、巴山は語ることをやめない。  胸を鷲掴みにしながら、巴山から目が離せなかった。  目を逸らせない。今間違いなく、俺は巴山の呪術に捕らわれていた。 「鷹也もわかってるだろう。どんなに世間に注目されようと役者は孤独だ。俺は、人と繋がる芝居がしたい。それは舞台でしか、板の上でしか出来ないんだよ。画面越しじゃダメなんだ。……昔、たくさんの人に愛されたいと二人で語り合ったな。きっとあの時点で、俺達は違うほうを向いていたんだ」  だらりと両腕を下げて、全て言い切ったというように口を閉じる巴山。  呪文か、或いは祝詞のような言葉を、時間をかけてようやく噛み砕いた胸中が、再び怒りと───悲しみで満たされる。  頭の中で何かが切れる音がした。  俺は壇上に乗り上がって巴山の胸ぐらを掴み、その勢いのまま押し倒した。 「違う方向いてたっていいだろうが! 俺が怒ってるのはそういうことじゃねえんだよ! そんなに立ちたかったら立ちゃよかったじゃねえか舞台に! 定期公演の舞台を、お前はなんで選ばなかったんだ!」  巴山は思い出していた。  倒れたあの日、自分が何度も揺れた相手の台詞を。  ───『』。 「俺とお前に来た仕事だったから、だから引き受けたのか!?  余計なお世話なんだよ! お前の言う通り役者は孤独だ! たとえ俺一人でも行ってやったさ、現場に! 観客がどうとか呪術だとか繋がりたいとかワケのわからねえ言い訳しやがって、孤独に立ち向かう勇気がなくて逃げてるだけじゃねえかよ!」  見開かれた瞳が涙で濡れていく。  激しく揺さぶられながら、それまで平静を保っていた巴山の表情がくしゃりと歪んだ。 「自分(テメエ)の選択の責任は自分(テメエ)にしかねえんだ! 選んだ道で覚悟もねえでどうやってまともに芝居するつもりだよ! 隠す必要なかったじゃねえか! 孤独がこわいって、お前、」  頬に熱い雫が降る。 「───俺がいるだろうが!   頼れよ、馬鹿!」  二人の涙が、床に滴って混ざり合う。  押さえつけた胸元に顔を押し当てて、唸るように必死に息を継ぐ。  その背中に腕を回しもせず、巴山はしゃくり上げながらはは、ははは、と虚しい笑声を上げた。  咳き込みながらうつむく俺の頭に、ぽつりと巴山は呟く。 「……きっと、……お前みたいなやつが、芝居に好かれる」  ───本当はわかっていた。薄々気づいていた。  自分は役者などやるべきではないと。  この道で幸せにはなれないと。  芝居をしている間は楽しかった。きっともっと、高みを目指せる。それでも自分はどこかで舞台を降りなければならない。今ならわかる。そう遠くない将来、板に上がる資格を失う。 「俺みたいなやつは、芝居に愛してもらえない」  それはきっと───ただ人に好かれるよりよっぽど難しいことなのだ。  自分にとって代われる人間はごまんといる。代わりがいるということはそれだけ愛されないということだ。認めたくなくて必死に縋り付いていたのに、結局自分で自分の首を絞めてしまった。 「なぁ、鷹也」  なんだよ、と、弱々しい声が返ってくる。 「苔みたいだよな───どれだけ板に嫌われてもしがみつかないと生きていかれないんだ」  それが役者という生き物の習性。そして、自分の定め。  資格があるかどうかはさておき、たとえ幸せになれないとしても。  自分は───役者でなければ生きていけない。  それ以外の道で生きることなど、もう出来ない。  芝居は呪術だ。既に深みに嵌ってしまっている。何度も、想像に没入することの快楽を味わった。あの蠱惑的な呪いから逃れることはできない。  ずるりと巴山の体から滑り落ち、俺は深呼吸をしてから立ち上がった。 「……先、帰ってる」  袖で顔を拭いながら客席へ降りる。喉と目元がひりついている。おぼつかない足取りで蝶のようにふらふらと、出口へ向かう。 「鷹也!」  背中に投げかけられる弱々しい叫び。俺は振り返らず、僅かに顔を横へ向ける。 「───すまなかった」  長く伸びた黒髪が、無風の空間でさらさらと揺れる。  重い防音扉が耳障りな音を立てて開く。  光あふれる舞台で、巴山は扉の隙間から去っていく影を見つめていた。  数日後。  巴山は本人の希望と先日の体調不良もあり、降板が決定した。代役も決まり俺だけが現場へ戻ることになった。遅れを取り戻すため急ピッチで撮影が進められる。だが巴山の出演シーンをすべて撮り直すことは不可能なため、脚本の変更が行われる。  それに伴って俺にはしばらくの間ホテルが用意された。自宅との現場との往復すら短縮するという徹底ぶりに逆に頭が下がる。  自分がいない間に何かあったら水原座長を頼るように巴山には言い含めてある。今は殆ど生活に支障はないが、一時は食事もとれないほど衰弱していたのだ。  関係が元に戻ったわけではない。あの日から会話らしい会話をしていない。しかしお互いの本心や役者としての思いをぶつけ合ったことで、それまでの共依存的な関係を壊して一対一で向き合えるかもしれないと、俺は感じていた。  その日ホテルに戻ったのは深夜になってからだった。清潔なマットレスに倒れこみ、盛大にため息をつく。  時計は十一時半を指していた。疲労のあまり買ってきたカップ麺を食べる気にもならない。明日の撮影は朝からだ。メールの確認だけしてさっさと寝ようと携帯を取り出す。  着信が一件と、メールが何件か来ていた。どうせスパムだろうと思い適当にスクロールしていると、見慣れたアドレスがあった。巴山だ。何かあったのだろうか。  ボタンを押す。 「理解してくれてありがとう  鷹也  強い苔になれよ」  俺はホテルを飛び出した。  ギリギリ飛び乗った終電で最寄りに着くと、そのまま全速力で自宅アパートへ走った。  熱帯夜だった。汗で濡れたTシャツが体に纏わりついて気持ち悪い。  冷たい汗が噴き出る。  嫌な予感が募っていく。  商店街を走り抜け、住宅街に入り、自販機が並ぶ路地を右に曲がる。歩けば駅から八分ほどかかる距離を、僅か二分弱で走り抜けた。  呼吸が苦しい。胸が痛い。全身が痛い。一日中酷使した体が悲鳴を上げていた。  ただひたすら足を前へ動かす。  間に合え。  今度は、間に合え。  何度も唱えながらアパートへ着いた。勢いを止めず部屋がある二階への階段を駆け上がる。途中でつんのめって転び、這うようにして部屋の扉の前へたどり着く。  鍵がかかっている。舌打ちした。ポケットに財布と携帯だけ突っ込んで、他の荷物はホテルに置いてきてしまったのだ。思い切りドアを叩いた。 「己錫! 己錫、開けろ!」  返事はない。中から近づいてくる気配もない。  水が勢いよく流れる音だけが響いている。 「己錫! おぉい!」 「……おい兄ちゃん、どうした」  隣の住人が寝ぼけ眼を擦りながら出てきた。工事現場で働く日焼けした中年だ。俺はなりふり構わず男の肩を掴んだ。 「工具! なんでもいい、工具貸してくれ!」 「わ、わかった」  慌てて部屋へ駆け込む男。俺は再びドアを激しく叩く。 「己錫! いるんだろ⁉ 開けろって、なあッ」  手が痛む。きっと腫れている。  体当たりした。  何度も何度もドアに体をぶつける。古い木造アパートのくせに頑丈だった。  男がバールを持って戻った。すかさず奪い取り全力でドアノブに叩きつける。ガキンと鈍い音がしてドアノブが揺れた。もう一度ぶつける。バキンと金属が折れる音。力任せに引くと外れた。土足のまま部屋に入る。暗い。電気がついていない。  水音は風呂場からだ。風呂場の戸を開けた。 「己錫───」  濡れた衣服。  出しっぱなしのシャワー。  巴山己錫は、首にロープを巻き付けたまま床に転がっていた。 「───」  視界が急に低くなる。尻をついたのだ。  水が出てる。ずぶ濡れだ。止めなきゃ。服ぐしゃぐしゃ、あれ、ああ、暗い、昏い、目が円い、なんで、なんで、み───、  騒ぎを聞きつけた住人が何事かと集まってくる。  壊れたドアが風に揺れてぎぃぎぃと鳴っている。  怒号とも悲鳴ともつかぬ男の叫びがこだまする。  うだるような夜気を、冷たい慟哭が切り裂いていく。 「……気が付いたら病院で。全身傷だらけで左足折れてるし、髪なんか真っ白になってた。周りに訊いたら、ひたすら暴れ回って、終いにゃ飛び降りたんだと。二階から。当然ながらドラマはお蔵入り。後で時期教えてやるから検索してみ、その時だけ過去ドラマの再放送になってるから。いやあ、入院中ずっとベッドに拘束されてさあ。面会謝絶で誰にも会えなかったし、囚人体験してるみたいだった」  煙草を吹かしながら、くっくっと肩を震わせる。  沸田は言葉を失い、あまりの衝撃に顔を抑えている。感受性の強い彼がこうなるのは概ね予想がついていたが、興味を捨てきれなかった沸田の自己責任だ。仕方ない。 「大丈夫か」  ふーっと虚空に向けて煙を吐き出し、背中をさすってやる。  ぐず、と湿った泣き声を漏らして沸田は恐る恐る顔を上げた。 「その、巴山さん……なんで、そんなこと」 「さあなぁ。遺書がなかったからな。メールもあの三行だけで、理由は書かれていなかった。ただ、これだろうなというのはある」  ───「強い苔になれよ」─── 「……あいつは多分、諦めたんだ。苔みたいに見苦しく板にへばりついてでも役者として生きることを。役者以外の仕事なんてできないと言っていたからな。役者人生に自分の手で幕を下ろしたんだ」  そして、自ら暗転した。  人生という舞台を降りた。 「俺も業界干されて、劇団も辞めざるを得なかった。水原座長は引き留めてくれたが、迷惑かける前に出ようと思った。結局なんだかんだでまた戻ってくることにはなったがな。人生何が起こるかわからん」  強く風が吹いた。指先がじりっと熱を持つ。煙草の先を階段に押し付けて消した。立ち上がり、下の踊り場に放っていた衣装を掴んで担ぐように肩にかける。 「ほら、もう行けよ」  沸田も洟をすすりながら立ち上がった。ふらふらステップを踏みながらドアノブに手をかけ、そのまま戻るかと思いきやこちらを振り向く。 「ひとつ、気になってたんですが」 「なに」  落ちた吸い殻を拾おうと屈みこむ。沸田は一瞬迷ったように言葉を切った。 「峰さん。……煙草吸わないですよね」  ぴたりと、中腰のまま動きを止める。  沈黙の後、ゆっくりと体を起こして向き直る。  数秒前まで涙で頬を濡らしていた沸田が、静かに凪いだ瞳でこちらを見ていた。 「たまにいなくなることはありますけど、煙草休憩じゃない。体臭で分かります。峰さんは煙草を好んで吸ったりしない」  犬か。  鼻が利くんだな、と返そうとしたが止めた。  はぐらかしたところで不機嫌に拍車がかかるだけだろう。  この様子だと恐らく、もう気づいている。  劇場のスタッフですら立ち入らないであろう、非常階段の一番上。  ───ここは、地上五階。 「峰さん」  キィ、とドアが開く。  明るい廊下の灯りが踊り場を照らす。  背に光を浴びながら、沸田はこちらに向かって手を差し出した。  あれから、今年で十年。  性格はねじ曲がり、以前のような華がもう自分にはないこともわかっている。  歳を重ねるごとに、体がじわじわと限界を訴えてくる。  あの日以来、毎日のように悪夢にうなされ、生きる意志を削ぎ落されているようにすら感じている。  それでも立たなければならないのだ。  人生という舞台に。  ああ、あの男はまさしく呪いだ。  俺から逃げ道を奪っていった。  照明が落ち、幕が降ろされるまで決して袖へ引いてはならない。衣装が破れ、声は掠れ、見るに堪えない醜い姿に成り果てたとしても、  峰鷹也という名の苔として、最後まで舞台にしがみつき続けろ───。  真っすぐ伸ばされた手を見て、ふっと肩を竦めた。 「……ああ、散々だ。散々な一日だ、まったく」 「そうですか」  佛田は煙草の臭いがまとわりついた体を引き寄せ、強引に廊下へ押し出してくる。背中をさすりながらやれやれとため息をついた。 「さて。美味い鮪で英気を養いますか」 「だから肉ですって」  幕間の紫煙(ゆらぎ)は、吹き抜ける夏の夜風とともに消えていった。
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