本編

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「それじゃあ、行ってくる。  今日は遅くなるから晩御飯先に食べてて」 「わかった。気をつけて」  新婚生活も1年目を迎えようとしている。  良人は公務員。フラワーアレンジメントの仕事をしていた私は、彼とおよそ3年間の交際期間を経て結婚に至った。しかし結婚生活も1年を過ぎるとだんだん張りを失ってくる。淡々と繰り返される日々に埋没していく日常……。毎日が驚きと冒険に満ちていた新婚当初の時間は、ゆっくりと遠のいていく。  今日は夕飯の買い出しの日。  シャワーを浴びた後メイクを整えて、私は少し遠くのデパートまで足を伸ばした。  デパートに着いた私は、食品売り場へ向かった。良人の好物の鶏肉、2人で過ごすためのフルーツ、お菓子作りのための牛乳と卵……。一通り材料を揃えて帰ろうとすると、上の階から賑やかな音楽が聴こえてくる。なんだろう?デパートの催し物か何かだろうか?屋上に着くと、明るくてリズムが比較的単純な音楽が楽しそうに演奏されていた。  ドラムのリズムが単純な分、その上で聴こえるピアノは明るく、伸びやかな音を奏でてやや古い時代のジャズを演奏していた。  やがてバンドがリクエストコーナーを始めると、地元に住んでいると思しきおじいさんが、嬉しそうに「我が心のジョージア」をリクエストし、暫(しば)し時を忘れて会場のお客さんと聞き入っていた。  次々とリクエストに応えるこのバンドの演奏力には目を見張るものがあった。それぞれのリクエストを演奏出来るだけでなく、叙情豊かな音楽でも必ず盛り上げる部分を用意して私たち聴衆を虜にした。  類稀(たぐいまれ)な音楽を歌い上げていくバンドが、次に選んだ相手は小さな女の子だった。 「さあ、次はこの女の子にリクエストしてもらいましょう!」  司会のおじさんが勢いこんで女の子にマイクを向けると、女の子は困った顔をして「ん〜……と、ん〜……と」と言うと、小さな声で歌い出した。 「ぼっくらは みんな〜  い〜きている〜  いっき〜ているから  うたうんだ〜……」  すると、近くにいた男の子たちが声を上げて笑い出した。 「さっきっから、かっこいい音楽たくさん流れてるのに、あの歌かよ〜!」  それを聞いた女の子は歌うのをやめ、目に涙を溜めた。女の子のすぐ隣にいた私は、 「ぼっくらは みんな〜  い〜きている〜  いっき〜ているから  かなしいんだ〜」  と次の歌詞をやや大きい声で歌った。  すると、それを察したバンドのメンバーは、すぐにそれに伴奏をつけて対応する。 「て〜のひ〜らを  たいように〜  すかしてみ〜れ〜ば〜  ま〜っか〜に〜  なが〜れる〜  ぼくのち〜し〜お〜  ミミズだ〜って〜  オケラだ〜って〜  アメンボだ〜って〜  みんな みんな  いきているんだ  ともだちな〜ん〜だ〜」  バンドの伴奏に合わせて歌う私に、女の子は笑顔になっていき、彼女も歌い出した。それを見ていた司会のおじさんが 「歌詞はスマホで探せば見つかりますので、みなさん一緒に歌いましょう!」  と掛け声を上げると、何人かがスマホを見ながら一緒に歌ってくれた。スマホを見てないお客さんも声を上げて歌い、最後の方には屋上で大合唱になった。  その時のお客さん同士の一体感や連帯感は言葉にできない感動があった。何より「手のひらを太陽に」は、日々抑圧を受けて過ごす私達の生活を解放する勇気を与えてくれるものだった。泣きべそをかいていた小さな女の子も最後にはとびきりの笑顔を見せてくれた。一部始終を終えるとバンドのリーダーと思しきピアノの男性が「お姉さん、ファインプレーです。最後に1曲歌って下さい」と言って、ピアノを弾き始める。すると「いいぞ、いいぞ」とばかりに周りが色めき立つ。私は「無理です。無理です」と何度も断ったが、許される雰囲気ではなかった。どうにも断りきれない状況だったので「じゃあ……」と言って「上を向いて歩こう」をリクエストした。  前奏を終えて、小さな声で歌い出すとピアノもそれに合わせて小さな音で伴奏する。少しづつ波のように、ボリュームを上げていくバンドのメンバー達……。笑顔で私を見ているお客さん達を見て安心感を得た私も、喉(のど)の支(つか)えが取れたように大きな声が出せるようになってきた。それを終えて曲が盛り上がる箇所にかかると「さあ、大きな声で!」とベースとドラムが大きな波うねりを紡ぎ出す。それに応じて私も出来る限りの声を出して歌ってみた。 「幸せは雲の上に  幸せは空の上に」  ピアノは最初の方、明るい音色を奏でていたのだけど、曲が一番盛り上がるところでは暗い情念を露わにし、心の澱(おり)を洗い流してくれるようなソロを弾いて伴奏に戻った。最後に私が 「泣きながら歩く  一人ぽっちの夜」  と歌を締めくくると、隅っこの方で顔に手を覆って、静かに涙するお客さんが何人かいた。自分の歌に涙を流してくれる人を見たのは初めてで、それを見た私自身も涙が溢れてきた。  演奏を終えたバンドのメンバーは、ゆっくりとした足取りで私の近くに歩いてきた。ドラムの男性が、「おねーさん、最高だよ!オレたちと一緒にまた演奏しようぜ!」と声をかけてくれた。「本当に。あそこであなたが歌ってなかったら、あの女の子、今日のことがトラウマになってたかもしれない」とベースのおじさんとピアノの男性が頷(うなず)き合っていた。ピアノの男性は「お為(ため)ごかしでなく、あなたの歌声本当に良かったです。何より人の心を捉えるものがある。よかったら暇な時この場所に来て下さい。僕ら普段ここで演奏しています」と一枚のカードを渡してくれた。  車でマンションまで送ってくれたバンドのメンバー達……。    私はもう一度歌う喜びを噛み締めていた。 「ぼっくらは みんな〜  い〜きている〜  いっき〜ているから  うたうんだ〜」  いつからだろう?  周りの誰よりも歌が好きだった私が、もう一度元気に「手のひらを太陽に」を歌えるようになった日は……。
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