『水色の小瓶』

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『水色の小瓶』

それはいつの間にか、そこにあった。 小学生の頃から使っている、古びた本棚。 そこに収められた本の影に隠れるかのように、ひっそりと。 *** 私は小説家だ。自分で言うのもなんだけど、なかなか売れっ子だと思う。 私が書いている小説は、基本的には大学を舞台とした青春小説。大人になり始めた彼ら・彼女らの表現がすごく上手だと、よく褒められる。でも私からしたら、これは本当に書きたいから書いてるわけじゃない。 私は、これ以外書けないから。だからこれまで出来上がった作品は、 全部、偽物だ。 *** するするすると、万年筆がしっとりとした感触の紙に滑って行くのが心地いい。水色のそれは、私がデビュー前から愛用する原稿本番用の原稿用紙。 空と海の色を混ぜたかのような、どこか神秘的な様子を漂わせる色。 ただ唯一、私が覚えている“色”だった。 私は、色が見えない。モノクローム症候群、だったっけ、とにかく全てが白黒にしか見えないこの難病を、私は物心ついたころから抱えて生きている。 色のない世界は、酷く単調だ。どんな色なのか、まだ色付いている幼少期の記憶だけが、私にとっての世界の“色”の全てだった。 でもどれも、時が経てば薄れていく。その中でもずっと鮮やかに輝いて、消えない色が、これだ。 たったひとつの、縋る先。普通じゃない私が、少しでも普通に近づくために。 それさえ忘れたとき、私は。 一体どうなってしまうのか、想像もつかない程。 どたばたと大きな音がして、すぱーんっと勢いよく扉が開け放たれる。ここは家だから、だれかなんてわかり切っている、というか原稿中の私のことに来る人なんてこの人しかいない。 「南空ーっ、やっほー元気ー?」 「へっ、ちょっ、お姉ちゃ…っ?!」 「あははっ、南空はかわいーなぁー。うりうりー」 「くすぐったいって! 急にどうしたの…」 お姉ちゃ……ごほん、姉だ。 幼少期の記憶にいる彼女の髪色は綺麗な黒髪で、全体的に色素の薄い…らしい私からしたらお揃いじゃないのかあ、という残念な思いが少しある。色はもうずっと白黒だから、羨ましいとか、そういう情緒が育つ前に、彼女の髪色はもう確認できなくなってしまった。 姉は私を心配してくれているらしく、よく遊びに来る。私もそれに救われているところはあるけれど、毎回のように頬を引っ付けて頬擦りしてくるのはやめてほしい。友達である百合作家・渦潮麻鈴が偶然遊びに来ていたときに見られて、姉妹百合の題材にされたのだから。あれは今でも軽いトラウマである。彼女の作品は好きだし同性愛に偏見はないけれど、自分と血の繋がった姉をモデルにした百合小説を(強制的に)読まされるってどんな拷問だ。 今も、脳内の彼女が目を光らせてペンを走らせている。やめろやめろ。 リストロックを食らわせて、脳内から退場してもらった。無駄に疲れた。 なおこの間も私の手は鈍いながらも動き続けているし、姉もすりすりとすり寄ってきている。待って化粧付くじゃんやめてやめて。引きはがして、座敷から追い出す。はぁ、とため息が漏れた。 ──この間も、私の両目は、モノクロな世界しか映さない。 きっと私がわるいこだから、神様が“色”を取り上げてしまったんだ、なんて。 「……馬鹿みたい」 一度だけ呟いて、私はまた、水色の原稿に文字を紡いでいく。 姉が出て行った襖の前には、そっと有名な店の和菓子が置いてあった。 *** 幼い、五歳ぐらいの頃に見つけたものがある。 それは綺麗だった。まだ色が見えていたから、それを私は気に入った。 だから、“たからばこ”に隠した。 その、水色を。海と空の色をした小瓶を。 ねえ、『私』。 ──いつまで忘れているの?
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