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その人は、今来た道を少し戻って左の建物に入っていった。 いつも前を通るけど入ったことない場所。確か2号館、だったかな。 僕が取ってる講義では使ってないところ・・・。 どこに行くんだろう・・・。 目的の場所があるのか、その人は迷うことなく歩みを進めていく。 一階の廊下をまっすぐ突き当たりまで行くと、あるドアを開けた。そして自分は入らずにこちらを見る。 先に入れ、てことかな? 僕は促されるままそこへ入った。 そこは小さめの講義室だった。 ・・・誰もいない。 ここに来てようやく、僕は何かおかしいことに気づいた。 なんでこんな奥まった、誰もいない場所(とこ)に連れてこられたのだろう? 声をかけられても相手が誰か分からないことは、僕にとってはよくある事だった。 むしろ、シカトして相手の印象が悪くなるくらいだったら、あっちから声をかけてきて欲しいと思ってたくらいだ。 声さえかけてくれれば、笑って対応出来るから。 だから、今日もいつものように相手に合わせてしまった。 いつもなら、見かけたから声をかけたとか、テスト前でノートを貸りたいとか、大体その場の立ち話で終わる程度なのに、なぜ場所を変えなければいけなかったんだろう? 僕は急に怖くなった。 思えばいつも、そばには誰かいた。 朝イチに確認する掲示板で佐々木と会って、講義室で橋本、木崎と合流する。そこからは取ってる科目が皆同じなので、ずっと一緒に行動していた。それこそ帰りの最寄り駅まで。 大学に入って一人になったのは、今日が初めてかも・・・。 一人になった途端、こんな人気のない講義室に連れてこられるなんて、それはどういう事なのか・・・。 恐喝。 そんな単語が頭に浮かんだ。 地味で目立たないトロそうな学生が一人で歩いていたら、それは絶好のカモではないか? だから、橋本はあんなに心配してたのかな? 大学は高校とは違う。いろいろな人がたくさん集まってる。それこそ悪い人だって・・・。 入学当初は僕だって多少は警戒していた。でもこの半年で気が緩んでしまったらしい。 お金を渡せば帰してくれるかな? でも僕、あまりお金を持ってない・・・。 胸がどきどきして変な汗が出てきた。 自分は今、ものすごく危険な状態に陥ってるのではないか? 緊張で体が強ばる。とその時、バタンとドアが閉まる音がした。 静かだった部屋に、やけに響いたそれにびっくりして振り返ると、その人は閉まったドアを背に僕を見ていた。そして、静かに近づいてくる。 変な考えが頭を占めて、怖さに上手く動けない。 それでも、本能で後ずさる。 近づいてくるだけ僕も後ろに下がるけど、ここは小さな講義室。すぐに背が壁についてしまった。 「なんで逃げるの?オレが怖い?」 落ち着いた声で訊きながら、その人は歩みをやめない。 「い・・・いえ・・・」 視線が上げられず、迫ってくるその人の胸あたりを見ながら応えたけど、声が震えてしまった。 ど・・・どうしよう・・・。 逃げなきゃいけないと思いつつ、壁に追い詰められて動けない。 ついにその人は目の前まできた。僕の体は小刻みに震え出す。 どん! 顔の右側の壁が鳴った。 殴られる! ・・・なんで殴れると思ったのか、とにかく僕は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。 ・・・それは予想外の出来事だった。 殴られる衝撃も痛さもなかった。 けれど、あごを指で持ち上げられ、上を向かされた瞬間、柔らかいものが唇に当たったのだ。 思わず開けた目の前に、その人の顔が信じられないくらい近くにあった。
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