忘れたくない

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「結婚を前提にお付き合いしてください」 それは突然の告白だった。 「亡くなった前の旦那さんのことも、僕が忘れさせてみせますから」  職場の同僚・西川さんはそう言って頭を下げ、うやうやしく右手を私に向けて差し出してきた。切れ長の目が、少し長めの前髪の隙間からのぞいている。 対する私の右手もまた、差し伸べられた手を掴もうと一瞬宙をさまよった後、力なく下におろされた。 「少し考える時間をください」  煮え切らない返事。が、西川さんは意外にも私の返事に満足したのか、おもちゃをもらった子供みたいな顔をしながら、 「わかりました。返事、いつまでも待ってます」 と言って、背筋を伸ばして職場から出ていった。私は緊張から解放され、ふう、と震える息を一つ吐き出した。  西川さんは間違いなく良い人だ。それは十分に分かっている。少しだけ、彼に好意を抱いているという自覚もある。  ただ「忘れさせてみせる」という言葉だけが耳の奥でぐるぐると回っていた。  結局のところ、私は五年前に死別したあの人のことを忘れられないのだ。あるいは、忘れたくないのかもしれないけれど。  職場からの帰り。紅葉した桜並木の道を歩きながら、私は毎日、あの人と過ごした短くない日々を思い出す。 ここは何度も彼と散歩をした道だった。  春はピンクのシャワーを浴びながら。  夏は新緑に命の輝きを感じながら。  秋は紅葉と爽やかな風に包まれながら。  冬は一面の白に二人分、四つの足跡をつけながら。  この道を歩くたびに、景色が、季節が、私にあの人のことを忘れるなと迫ってくるような気がした。 「僕のことは忘れて、別の新しい幸せを見つけてほしい」  五年前の秋。とある病室。 病に侵された彼は最後にそう言い残して旅立っていった。死期を悟った穏やかな笑顔だった。  その笑顔が今も脳裏にこびりついて離れない。 「忘れてほしいのか、忘れないでほしいのか。どっちなのよもう」  私は足元に積もった落ち葉を蹴り上げて、今は雲の上の彼に向かって抗議する。  その時だった。蹴り上げた右脚の先にコツンと当たった何か。 「あらら」  積もった落ち葉の中から出てきたのは財布だった。なかなか高級そうなそれを見ながら、落とし主はさぞ焦っていることだろうなと思った。  とりあえず拾い上げたところ、妙に薄くて軽いことに気付く。思わず中身を確認するとお札はもちろん、硬貨までごっそり抜き取られていた。  「あらら」私はもう一度呟いて、交番を目指して歩き出した。金銭類が無くても、カード類は残ってそうだし、届けた方がよいだろう。幸い、帰り道の途中に小さいが交番があったはずだ。  五分ほど歩いたところで交番に着いた。 「すみません。すぐそこの道で財布を拾いまして」 「そうですか。ありがとうございます」  対応してくれたのはベテラン風の婦警さんだった。すぐに帰れるのかと思いきや、何やら書類を作成する必要があるとのことだった。  本音を言えば、すぐにでも家に帰って西川さんへの返事を考えたいところだったが、しかたあるまい。私は書類作成のため婦警さんの質問に答え始めた。    一〇分ほどたった頃だろうか、今度は七〇代ぐらいのおばあさんが息を切らしながら交番に駆け込んできた。 「あのう、すみません! 財布を落としてしまって……届いてませんか? 黒革の財布です! たぶんそこの道だと思うんですけど……」 「もしかしてこれですか?」  婦警さんが財布をおばあさんに見せる。 「あぁ! それですそれ!」  そう言うと、飛びつかんばかりの勢いで財布を掴み、中身を確認するおばあさん。  私は思わず「あっ」と声を漏らした。財布の中身はカード類を除けばほとんどカラだ。きっとショックを受けるに違いない、と。  しかしおばあさんは無くなった金銭類には目もくれず、財布から一枚の紙のようなものを取り出した。  そして、 「あぁ……良かった……」  おばあさんはその、言っては悪いが、汚らしい紙を胸元でぎゅっと抱きしめて、わんわんと泣き出した。  私も婦警さんも困惑するしかなかった。 「あの、言いづらいんですが、一応手続きがありまして」 「あらやだ、ごめんなさい」  おばあさんは照れ臭そうに笑って、財布を婦警さんに手渡した。目元にはまだ、キラキラと光る涙が滲んでいる。  約一五分後。手続きを終え、私とおばあさんは同時に交番を出た。  私は思い切って彼女に聞いてみた。 「あの、さっきの紙は大事なものなんですか?」 「あぁ、これのことね?」  おばあさんが取り出したのは茶色がかった一枚の紙きれ。「かたたたきけん」、とつたない丸文字で書かれていた。 「あぁ、なるほど! お孫さんに貰ったものですね?」  私が心得たとばかりに聞くと、おばあさんは「いいえ」と首を振った。 「娘から貰ったの。五歳の時に死んじゃったけど。もう五〇年前になるかしらねえ」  再び薄っすら涙を浮かべるおばあさんの目に、私はかける言葉を失った。  五〇年も前に亡くなった娘さんから貰ったものを、今もこうして大事に持っているなんて、私には想像もできないことだった。 「そうだったんですか……」 「これはね、今となっては唯一の娘の形見なのよ。本当に、届け出てくださってありがとう。ありがとう」 「そんな! 頭を上げてください!」 「ありがとう」と繰り返し頭を下げるおばあさんの姿に、私はとても美しいものを見ているような気持ちが込み上げてきた。  同時にそれでいいんだ、と肩の荷が下りた気がした。  おばあさんと別れて自宅に着くと、ピロン、とラインの受信を告げる音が鳴った。 「さっきは間違えました」  西川さんからのラインだ。間違えたって何が? 「亡くなった旦那さんのこと、忘れなくても構いません。それも含めて愛します」  あぁ。じんわりと温かいものが込み上げてくる。やっぱり、西川さんは良い人だ。だから……。  私はさっきの素敵なおばあさんの姿をもう一度思い浮べ、一呼吸置き、ゆっくりとラインの返信を考え始めた。
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