611人が本棚に入れています
本棚に追加
次の日の朝。私はマンションのホールで、見てはいけないものを見てしまった。気のせい、絶対気のせいだ。目を合わせたら現実になりそうで、私は目をそらして、一番遠い場所を通り過ぎようとする。
その時、
「おはよう。待ってたよ」
と声が聞こえて、突然近づいてきたその男に腕を掴まれた。
その男を見上げると、いつも通り、その顔には、品行方正な王子様、というような能面がくっついている副社長がそこにいた。
「ひっ! なんで!」
「うち、この最上階」
―――これが高級マンションの弊害!
「な、な、な、なんで私がここにいるってわかったんですか」
「社員名簿って知ってる? 今デジタル化してるから、役員以上はいつでも見れるんだよね。チェックしてみたら驚いた。同じマンションだったんだね。もしかして、お嬢様とか?」
「ぜ、全然違います!」
普通の一般ピープル。家賃は、自分の収入のほとんど。食費を切り詰め、最低限スマホは持っているが、その他の雑費は0に近い。なんなら超絶ビンボー。ちなみに昨日の飲み会はおごりだったので、その点だけは助かった。
「えっと、津倉さんは2階の203なんだよね。覚えておくよ。何か困ったことがあったら言ってね?」
と副社長は笑った。
―――今、非常に困ってます。
そうは思うが、言葉にはできない。ほんとどうしよう、引っ越したい。いますぐ引っ越したい。でも、すっごい値段の礼金と敷金払って引っ越してしまったじゃないか!
私はそう思って、思わず涙目になる。
なんで私だけこんな目に遭うの? どれだけ前世に悪いことしたの…。これまでのことが走馬灯のようによみがえってきたのだ。
私の人生、あの占い師が言うように男難つづきだった。自衛するために、やれるだけのことはした。いや、考えうる以上のことをした。それでも、油断するとこのザマだ…。
セキュリティ性を重視した賃貸のせいでお金もない。かわいい服だって、化粧品だって買えない。買っても使えない。
本当は髪も伸ばしたい、こんなダサい眼鏡なんてかけたくない。スカートも履きたいし、ヒールだって憧れる。女子たちが普通に好きな人ができ、恋愛トークで盛り上がりピンク色に華やいでいる中、私だけすべて灰色だった。
変態でない男がいるということももちろん知っていた。でも、私は変態を寄せ付ける体質だ。そんな変態たちのせいで、私は『女子らしい生活』から無縁の生活を送らねばならなくなった。どうして、私だけがこんな目に…。
私はぎゅう、と唇を噛む。やだ、やっぱり泣きそう。そしてキっと副社長を見やると、
「すみません、急ぎますので」
と言って踵を返す。
「まって」
(こんなに嫌がられたのはハジメテだ)
そう言って掴まれる腕。
「ひっ!」
「せっかくだから送っていくよ?」
端正な顔が目の前に来たと思ったら、耳元でささやかれる。顔が見えないので、真意はわからない。でも間違いなく、本来なら恋が始まるシーンだ。特に今、顔が見えない。だから心も読めない。
さすがにかっこいいイケメンにこういう事をされれば、私だって多少は心動かされる…と思ったとたん、副社長の顔が目の前にきて微笑む。
(あれ、この子、思ったより腕が細いな。こういう腕を縛るの興奮するよねぇ)
読みたくなかったのに、顔を見てしまって心を読んでしまった。ひぇっ! と声が出そうになるのをすんでのところで抑えた。
―――それだけは絶対にお断りだ!
「結構です!」
色々な意味でお断りです! SはMと元気に二人でやることやってください。私はSでもMでもありません! そして、お願いします、離してください。そう願っているのに、
「遠慮しないで」
(逃がさないよ)
―――怖いわ!
もう心の中が聞こえて、どこのホラーだと思うのだけど、見た目は完全に品行方正な優しい副社長様。これ以上、騒ぐと、私だけが『意識しすぎのイタイ女』ということになってしまう。くそう、なんか悔しい。
「ね? 会社に送るだけだから、一緒に行こう。一応、上司命令」
(まぁ…さすがに今日は手を出せないなぁ)
ノーと言う返事はさせないような口調でそう言われて、心の中も大丈夫そうだと思ったので…私はそれに頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!