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2章:逃げきれない理由
飛び出した場所は、会社からそう遠くなかったので、必死に走って出社した。もちろん、タクシーなんて使えない。昨日はエマージェンシーだったから使ったけど、普段はそんな贅沢は全くしないのだ。
総務課に入ると、
「昨日大丈夫だった?」
(心配したのよー)
と皆川課長が声をかけてくれた。あ、そういえば、そうだった。先に帰ったんだった。昨日のことと、今朝の出来事のせいですっかり忘れていた。あの変態のせいで。
「あ、はい…。すみません、先に帰ってしまって」
「飲み会の場と言うより、お酒が苦手なのね。無理させてごめんね」
(本当申し訳ない…)
皆川課長は本当に申し訳なく思っているようで、私のほうこそ申し訳ないと思ってしまう。
飲み会の場は苦手だけど、お酒は好き。皆川課長とも飲みたい。だけど、苦手としておいた方がいいのよね…。
「いえ…あの、その、はい」
そう頷いて、事なきを得た。ただ、これまでの人生、大変なことばかりだったけど、この皆川課長だけは、女性と言うこともあってか、心から信頼できそうな気がしていた。
少しして、給湯室でお茶を入れていると、
「津倉さん?」
と声がかけられる。顔を上げると、
「ひっ!」
副社長の顔面がそこにあった。副社長は苦笑する。
「そんなに驚くことないでしょ」
(やっぱ反応が新鮮)
お願いだから、変に興味持たないでください! 冷静にいこう。冷静に。私は真顔に戻ると、
「申し訳ありません」
と頭を下げる。
「今朝、大丈夫だった? 心配したよ」
(車から突然、飛び出していくんだもん)
「…へ?」
そしてその時、私は、副社長の心の中が普通で驚いた。
あれ? 今朝、心の声に反応しちゃったこと、この人、わかってない?
わずかな希望がむくむくと顔を出す。
よく考えればふつうそうだろう。誰が心が読める人間がいるなんて思うのだろうか。
あーよかった。心配して損した。私は非常にほっとしていた。
「今度、うちにも遊びにおいでよ」
「結構です」
さらっと返すと、副社長は、はは、と笑ってその場を去っていった。
っていうか、なんでこんなとこ来てたの。役員フロアは別でしょうが。
私は帰っていく副社長の背中を睨む。その時、総務の先輩女性社員である緑川さんが走ってきて、声をかけてきた。緑川さんは、美人でスタイルもいいが私は少し苦手だ。
というのも…
「ねぇ、どうしたの!? 副社長が話しかけてくるなんて!」
(まさか、そういう関係なんてことは…絶対ないわね。だってこの子、すっごくダサいんだもん。副社長がこんな子相手にするわけないわぁ。ないない)
―――心の声が長っ! ってか、内容もかなり失礼。
そうだ。緑川さんは、顔は笑っているのに、心の中では全力で私を馬鹿にしているから苦手なのだ。
まぁ、短髪、黒縁眼鏡、スカートは履かないし、彼氏なんてもちろんいない、決してあか抜けない私は完全にバカにされる要素ばかりではある。しかし、だ。これほど辛辣に思われている人もそうそういない…いや、まぁまぁいるか? おとなって怖い。私は思わずため息をついた。
そして、
「知らないです」
緑川さんの質問に一言だけ返す。
すると、
「そう」
(しかも愛想まで悪いとか最悪)
そういって、緑川さんは去っていった。えぇ、こちらも最悪です…。
っていうかね、副社長に絡まれるとろくなことがない。いまだってちょっと話しかけられただけでこれだ。やっぱり引っ越すべきなのか…。でも、毎日自転車操業のようで、もう引っ越すお金を貯めることすら正直難しいのだ。
私は真剣に悩んでいたというのに、緑川さんがあることない事吹聴したようで、その日、副社長が新入社員の、しかも超絶ダサい私のもとに現れたことは、社内で小さなニュースとなった。
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