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最終章 白い光
さらさらと音を立てて流れる川の水面が、午前中の日の光を反射して輝いている様子が2階にあるオープンテラスの柵越しによく見えていた。
文化センターの裏手から階段を上った先にあるこのテラスにはいくつか広葉樹が植えられ、タイル張りの床に柔らかな影を伸ばしていた。
降り注ぐ強い日差しを避けるにはちょうどよい場所だったが、木陰に設えられたベンチに座るものは僕たち3人の他に誰もいなかった。
僕は階段を上ってすぐ左側のベンチに蒲原と座り、通路を挟んだ向かいにある喫煙スペースでは、先ほどから恩田が煙草をふかしている。
しばらくそのまま静かな時間が流れたが、ふいに木の葉が騒がしくなり、それに合わせるようにして僕の鼻に懐かしい煙草の臭いが漂ってきた。
「ああ、悪いな。今、火ぃ消すわ」
そう言ってから、恩田は名残り惜しそうに最後にひとくち煙を吸い込んだ。
「マール・ボロか。まだ吸ってたんだな」
僕の言葉に恩田は、ふふ、と笑って目を細めた。
「そっか、覚えてたか。……まあ、俺はバカだからな。いちど始めたもんはなかなか止められねえんだ。 煙草も音楽も、な。」
灰皿へ煙草を放り込んだ恩田は、喫煙スペースを出て僕たちの斜め向かいのベンチへ腰を下ろした。
「江田だってそうだろう? 俺は学祭のあとでお前がギターを売っちまったって聞いてたが、こうしてまだ音楽を続けてくれてる。しかも蒲原と一緒だなんて、俺は嬉しいよ。」
恩田の言葉は僕の胸にゆっくりと色のない染みを広げてゆく。
僕は恩田の言葉を聞きながら、自販機の前であの日の失態と暴言を謝らなかったことを後悔していた。
何も口にできなかった僕は恩田に誘われるままこのテラスまで上がり、どうにも気まずい雰囲気のまま謝罪のタイミングを探し続けていた。
いつ、どういうタイミングで申し訳なかったという言葉に繋げたらいいのだろう。
時間と心の距離が僕を苛んでいた。
隣に目を移すと、形容しがたい表情のまま蒲原がどこかを見ていた。
自らを破門にした恩田を目の前にした蒲原を、僕はどういう言葉で労わってやればいいのか。
何かをしなければいけないという現実と、何も始められないもどかしさが胸の内で渦を巻き、言うべき言葉を身体の奥深くへと沈みこませていくようだった。
僕が謝らなければ。
僕があの日の非礼を心から詫びなければ、きっと本当の意味で突き刺さったままのトリガー・ポイントは身体の中から消えてはくれないのだろう。
それは痛いほどに理解できていた。
そうだ、今なんだ。
これ以上、先延ばしにはできないんだ。
僕は意を決して喉に力を込めた。
「すまな……かった。江田」
僕と蒲原は雷に打たれたように恩田へ顔を向けた。
目の前では、直立不動のまま両手を身体の脇にまっすぐそろえた恩田が、長髪をだらりと下げながら深々と頭を下げていた。
僕は何が起きているのか理解できず、ただ、横で目を丸くする蒲原と視線を合わせたまま言葉を失った。
「すまなかった江田。そして、小僧……いや、蒲原。俺のせいで一時的とはいえお前たちから音楽を奪ってしまった。本当にすまなかった! 許してくれ!」
最後はほとんど叫ぶようにして、恩田はさらに深く頭を下げ、言葉を振り絞っていた。
その様子に僕たちは弾かれたように立ち上がる。
「ちょっ、先生! 何を謝ってるんですか! やめてください!」
僕が言葉を発するより先に、蒲原が必死の形相で恩田に向かって叫んだ。
恩田はゆっくりと頭を上げ、寂しそうに首を振る。
「さっきも言ったが、俺は先生なんて呼ばれる筋合いはねえんだ。俺はお前にドラムなんか何も教えてやれなかった。いや、教えたくなかったからお前の小生意気なタム回しにずっとダメ出ししてただけさ」
ぐっ、と唸って言葉を詰まらせた蒲原に向けて、恩田は悲しげな表情のまま話し出す。
「俺はプロになってメジャーデビューもさせてもらったがな、ただドラムが叩けるだけじゃあバンドの中では生きていけねえんだ」
恩田はそこでいちど言葉を切ると、コーヒーの缶を開けてひとくちすすってから続けた。
「プロのドラマーってのはな、周りに相当なレベルの奴らが集まってる中で、自分と周りのメンバー、それからバンド全体のことを考えながら態度や言葉で硬軟のバランスを取らないといけねえ」
少しの間があった。
「お前みてえに、優しくて、自分に嘘ついてまで気を遣っちまう奴がプロなんかになったら、あっという間に潰れちまうのは明白だった。だから俺はお前に嫌われるようにろくにドラムも教えず、ダメ出しばっか繰り返したんだよ」
悔しそうに横を向く恩田を見つめていた蒲原だったが、耐えられないといった様子で口を開いた。
「でも僕は、恩田さんのプレイを見て色々と勉強させてもらいました! 恩田さんが聞かせてくれたあのスネアの音が僕の目標になったんです!」
その言葉に、恩田は大きなため息を返す。
「それが俺の最大の後悔だ。お前が俺のスネアの音に近づきたがっていたのは気づいてたし、お前の叩き方じゃ根本的に俺の音には近づけねえのも分かってた。 それに、あのままじゃいずれ肘の靱帯をやっちまう可能性だってあった。それを分かっていながら、俺はそのことをお前に伝えずに、ただ破門にして放り出しちまったんだよ。本当に、本当にすまなかった!」
困ったような顔をしてこちらを見ている蒲原に僕はいちど頷き、頭を下げる恩田に声をかけた。
「今の蒲原のスネアは、お前と同じ音だよ。両方を聞いたことのある僕が保証する」
このときの恩田の表情も、僕はきっと一生忘れることができないだろう。
驚きと、それを上回る喜びがない交ぜになって、思わず飛び上がりそうになるのを理性で押さえ込んでいるのが手に取るように分かった。
あのときと同じだった。
学園祭にスカウトが来るらしいと聞いたときとまったく同じ表情のまま、恩田は僕を震えるような目で見つめていた。
「おい江田、そりゃ本当か! 俺と同じ音が出せるようになったって、あんな無理なパワードラムをどうやって矯正したんだ?」
僕はバッグからタオルを取り出し、恩田の前で軽く振った。
「お前が僕に教えてくれた、これだよ」
恩田の口から感嘆の声が漏れる。
「蒲原はお前の言うとおり左肘を痛めてな。だから左手を動かせない間は右手でこのタオルトレーニングをしてもらった。僕は最後までいい音が出せなかったけど、蒲原は凄いよ。ちゃんとこの練習の意味を理解してくれて……結果としてお前と同じ音が出せるようになったんだ」
この先を言おうかわずかに迷ったが、僕は恩田の目を真っすぐに見つめて続けた。
「それもこれも、恩田のおかげなんだ。お前が僕にこの練習法を教えてくれたからこそ僕たちはレベルアップできたし、蒲原の肘もこの大会に間に合わせることもできた。ありがとう」
言い終わらないうちに恩田は深く目を閉じ、そうか、良かった……と下を向いた。
小さな笑い声とともに顔を上げた恩田は、25年前と同じ顔で優しく微笑んでいた。
「そうか……、そうか。じゃあ今日はお前が成長した姿を見せてもらえるんだな。あの時と立場は違うが、今度は逃げずにちゃんと聞かせてもらうな、蒲原」
立ち上がった恩田は、ゆっくりと蒲原の肩を叩く。
蒲原は目を潤ませながら顔を上げた。
「先生、今日はよろしくお願いします。僕たちの最高の演奏で、先生の後悔を帳消しにしてみせます!」
蒲原は右手を真っすぐに恩田へ差し出す。
少し戸惑った様子の恩田は、照れたように笑ってゆっくりと手を伸ばし、力強く蒲原の手を握り返した。
ふたりはそのまま強く手を握り続けていたが、手をほどいた恩田はもういちど蒲原の肩を叩いてから僕へ向き直る。
「さて、これで俺の心残りはひとつだけだ。次はお前から音楽を奪ったことを謝らなきゃいけない」
ここを逃がしてしまったら、僕は恩田に謝る機会を永遠に失ってしまう。
今だ、という声が僕の身体の中から突き上がった。
「いや、謝るのは僕の方だ! あの学祭のとき、いくらでもリカバリーできたのに僕は身勝手に演奏をやめてしまった。そのせいで恩田のことをスカウトに来ていた音楽事務所の人たちにも悪印象を持たせてしまったじゃないか。しかもそのあと、ステージの下で僕はお前にあんな……」
(恩田、お前はプロになるんだろ? こんな下らないミスをした取るに足らない人間なんかに構ってたら、その道も途絶えるんじゃないのか?)
僕の鼓膜に思い出したくもない醜い言葉がいくつもの澱みとなって折り重なる。
しかし僕はここを乗り越えなければ本当の意味で恩田に許しを請うことすら許されないということを、カウンセリングのおかげでちゃんと理解できている。
僕は……。
それはほんのコンマ何秒だったのかもしれない。
僕がその壁を乗り越える覚悟を用意するために必要としたわずかな間隙を縫って、恩田が先回りした。
「お前はプロになるんだろ? こんな下らない人間に構ってたらその道も途絶える……だったか。あれは効いたよ。今までの人生でいちばん頭をぶん殴られた気持ちになった言葉だった」
寂しそうに笑う恩田を目の前にして、僕の額に周囲の気温とは関係ない、冷え切った汗が吹き出すのが分かった。
やはりそうだった。
あのとき発した僕の心ない言葉が、恩田を苦しめ、苛んでいたのだ。
蒲原から聞いた恩田の言葉が脳裏をかすめる。
(大学でやった最後のライブ、俺はすごく後悔している)
あ……、という音が喉から漏れたきり、僕は次の言葉が見つけられないまま恩田から目を逸らし、思わず下を向いた。
「俺は今でもあの学祭ライブを後悔してる」
誰かに心臓を鷲掴みにされて出鱈目なリズムで握られているような、抑えのきかない記憶の奔流が脈打つように身体を巡る。
しかしそれは、次に恩田が発した言葉で跡形もなく掻き消えた。
「なんで……なんで俺は江田を裏切っちまったんだろうって、な」
驚いて顔を上げると、恩田は下を向いたままベンチに座っていた。
横では蒲原が怪訝な顔をして僕を見つめている。
僕を裏切った?
……恩田が?
つい今しがた耳に入ったその言葉の意味を、僕はまったく理解することができなかった。
裏切ったのは、紛れもなく僕だった。
恩田にとって大事なステージで最後の最後にギターの弦を切り、パニックになって巨大なハウリングを起こし、続けられたはずの演奏を放棄して恩田の顔に泥を塗った。
それだけでなく、ミスを侘びもせずに心にもない暴言を吐いて、バンド仲間や親友という立場からもドロップアウトしてそのまま姿をくらませた。
この情けなく、卑怯な出来事をどの角度から検証したら、恩田が僕を裏切ったという解が導かれるというのだろう?
僕の思考が混乱の渦に呑まれそうになったとき、黙っていた蒲原が口を開いた。
「もしかして……バンドメンバーが江田さんを無視していたのは、江田さんを見放したんじゃなくて、ドラムを見ろ、という恩田さんの指示だったんじゃないですか?」
恩田は下を向いたまま小さく首を動かし、そうだ、とつぶやいた。
「あの日、俺はどうしてもプロのスカウトの目に引っかかりたかった。俺の未来の端緒になるステージを失敗で終わらせるわけにはいかなかった。だから俺は、江田を見捨てちまったんだよ。自分を守るために、親友を切り捨てたんだ」
恩田は下を向いたまま、苦しそうに肩を震わせた。
その足元に、いくつも染みができては消えてゆく。
「だからステージのあとで俺はせめてお前に心から詫びようとした。けれど、謝るよりも早く、お前は俺のいちばん痛いところを真っすぐに突いたんだ。俺はそれがあまりにショックだったんだ」
恩田の言葉に嗚咽が混じる。
「それからすぐにお前のあとを追いかけたよ。けど、あのときのお前はどれだけ声をかけても振り向いてくれなかった。そのとき俺は初めて、自分のしたことの重大さに気づいたんだ」
肩を震わせながら言葉を繋ぐ恩田の姿は見ていられないほど小さかった。
初めて聞く恩田の嗚咽を耳にした僕は、どうしていいか分からないまま腰を下ろすしかなかった。
恩田の懺悔は続く。
「俺はずっと、ずっとお前に謝りたかった。本当はさっきお前を見たときにすぐ謝っておけばよかったと後悔してる。でもだめだったんだ。あまりに突然だったから、自分のしたことを再認識して覚悟を決める時間が足りなかった。だから俺は時間を稼ごうとしてお前たちをここに……、情けねえよなあ」
恩田は袖で目をぬぐい、口を閉ざした。
とつとつと苦しみを吐き出す恩田を目の前にして、僕の頭はひどい混乱のさなかにいた。
この25年という長い年月、なんとしても謝らなければと思っていた相手が僕に向かって涙ながらに頭を下げているという現実に、どうしても納得のいく説明ができなかった。
僕の横で何かを考え込んでいた蒲原は、そうか、と口にすると、ゆっくりと僕に向き直った。
「マメさんと恩田さんの視点では、見えている事実の捉え方が逆だったんじゃないかな」
蒲原の言葉が僕の混乱に拍車をかける。
「いや待て、僕は裏切られた覚えなんかない。むしろ僕は弦を切って、ハウリングを起こして恩田に迷惑をかけて……」
「そこですよ。」
蒲原が僕の言葉を遮った。
「ハウリングです。きっとその音の壁がふたりの認識する事実を捻じ曲げて、お互いの心にトリガー・ポイントを植え付ける原因になってしまったんですよ」
僕の眉間に皺が寄るのが分かった。
「どういうことだ? ハウリングがトリガー・ポイントだって? すまん、僕にはお前の言っている意味がさっぱり理解できない」
そのとき蒲原の目に映っていた僕の表情は、きっと形容しがたいほどに情けないものだっただろう。
しかし蒲原は晴れ晴れとした顔で続ける。
「ギターの弦が切れたマメさんは、パニックになってアンプの前に立ったんですよね? そんなことをしたら当然ハウリングが起きる」
僕の耳に、あの空気を切り裂いたような、キイン! という音が再生された。
「そのとき、マメさんは残りのメンバーが自分を見捨ててなんとか曲を成立させようとドラムの前に集まって演奏を続けているのを見た、と。そうですね?」
僕が、そうだ、と頷くと、いつの間にか恩田も目を腫らしながら蒲原を見つめていた。
「でも本当は、マメさんがハウリングの音で聴覚を奪われていたまさにそのとき、恩田さんはずっとマメさんにサインを送っていたんじゃないですか?」
蒲原が恩田の方へ顔を向けると、恩田の口がゆっくりと開いた。
「ああ、俺はずっと江田に向かって叫んでいたんだ。 大丈夫だ、こっちを見ろ、まだ曲は続いてるってな。けど……」
「マメさんは弦が切れたこととハウリングを起こしてしまったことに責任を感じて、恩田さんのことをまともに見られなかった。だから当然、恩田さんの言葉は届かない。そして恩田さんはマメさんとコンタクトを取るのを諦めて、自分の指示が聞こえていたメンバーと曲を続けるという苦渋の決断をしたんですよね?」
言い淀む恩田に割って入った蒲原の言葉は、僕の心に巨大な穴を穿った。
目の前では恩田が、その通りだ、と頷いている。
「蒲原、ちょっと待ってくれ。それじゃあ僕が抱えてきた恩田への贖罪の気持ちは……」
「お互いのちょっとした行き違いと認識のずれが生んだ齟齬。まさに存在しない痛み、トリガー・ポイントだったんですよ」
僕のなかで、いびつな形に膨れ上がった感情が音を立てて粉々に割れてゆく。
そうか、僕の抱えていた痛みは。
僕はたまらずに両手で顔を覆った。
25年間、ずっと僕の内側で負の感情を喰い続けていた贖罪意識という名の怪物は。
ああ、すべて。
あの日に生まれた虚構が創りあげたものだった。
抑えきれない喜びとわずかな羞恥に身を焦がされる思いがして、顔を覆う手を外すことができなかった。
「そうか、じゃああのときの江田の言葉は、僕の卑しい心に嫌気がさして僕に見切りをつけた言葉じゃなかった、ってことなのか?」
震える声で恩田が蒲原に語り掛けると、ええ、という優しい言葉が返された。
そうだ、僕が贖罪意識に苦しんでいたということは、恩田にも全く同じことが言えるのだ。
僕を裏切って演奏を成立させたと思い込み、プロになってからもずっとその虚構を引きずり続けて苦しんでいたのだろう。
しかし今日、いま、この瞬間に、僕たちを互いに縛り続けていた呪いの鎖はほどけ、跡形もなく消え失せたのだ。
衝動的に笑いがこみ上げた僕の掌に、温かいものがいくつも流れ落ちる。
掌の向こう側では恩田もまた、笑っているような、呆れているような声で泣いているのが分かった。
僕は我慢できずに顔を覆っていた掌をベンチにたたきつけて立ち上がり、恩田へと歩を進めた。
同じタイミングで恩田も立ち上がる。
僕たちは25年ぶりに、お互いが手を伸ばせば届く範囲にまで近づいた。
まるでずっとこのタイミングを計っていたかのように、僕たちは言葉もないまま互いの背中に手を回し、同じだけ歳を重ねた身体を力強く抱きしめる。
恩田も、僕も、ただ笑いながら泣き、互いの背中を叩き合った。
背中に温かい痛みがひとつ走るたびに、抱えていた苦しみや葛藤がひとつ、またひとつと呼吸の中へ溶けてゆく。
あの日、僕がステージの上に置いてきてしまったものが、25年の時を経て僕のあるべき場所へと戻ってきた。
「馬鹿野郎! なんであんないいとこで弦なんか切っちまったんだよ、江田!」
「うるせえよ、お前だって、なんでもっと大きな声で教えてくれなかったんだよ!」
「どうやったらマーシャルのハウリングより大きな声なんか出せるってんだ! ちっとは考えてものを言えよな、ファズの調整もちゃんとできない下手くそギタリストめ!」
「ああ、僕は下手くそだ! それは今だって変わってない。けどな、こうしてお前とのわだかまりが消えた僕は強いぞ。いいか、僕たちは今日、いちばん最後にホテル・カリフォルニアを演奏するんだ。どうしてもお前の鼻をあかしてやりたかったからな!」
「………楽しみにしてるさ。ただ、いいか、俺はたとえお前らでもプロとして厳しく見るからな。せいぜい聴かせられる演奏しろよな!」
「当たり前だろ! お前が俺から音楽を奪ったなんていう勘違いなんか忘れさせるような音を聞かせてやるから、せいぜい楽しみにしておけよな……恩田」
恩田が嗚咽を飲み込んだのが分かった。
きっと、親友として、プロとして、僕が音楽という場所に戻ってきたことが何よりの喜びなのだろう。
僕が恩田の身体からそっと手を離すと、恩田はもういちど、すまなかった、と言ってから頭を下げた。
その様子を、蒲原が目尻をぬぐいながら見ている。
「ああーー! いたいた! こっち! みんなこっちよ! マメさんも蒲原ちゃんもいる!」
映画だったら最高に盛り上がるラストシーンに割り込んできた粟田の甲高い声に、僕は肩の力が抜けるのと同時に思わず声を出して笑ってしまった。
「ちょーっとぉ! 飲み物買ってくるって言って20分以上経つじゃないの! こっちは危うく乾燥して死んじゃうところだったのよ?」
姿は見えないが、テラスへ続く階段を上る粟田の重い足音と荒い息遣いがはっきりと聞こえ、その後ろからは北園と野木が慌ただしく階段を駆け上る音がこだまする。
すぐに、北園と野木が同時にテラスに姿を現した。
「おい、どうしたんだよお前ら! いつまでも戻ってこねえから白だるまの野郎がうるさくてよ、探しに来ちまったじゃねえか!」
北園が不安そうな顔で毒づく。
「え? 何かあったかもしれないから探しに行こうってずっとソワソワしてたのはゾノさんじゃない。ユウのせいにしたら、また面倒くさいことになるよ?」
野木が北園を茶化してから恩田の存在に気づき、怪訝な顔を浮かべる。
「はあ……はあ……。 聞こえてたわよ、モジャ河童! いまアタシのせいにしたでしょ! そんなんだからアンタは禿げるのよ! ……って、ええ!?」
恩田と目が合った粟田は、どういうわけか途端に身をこわばらせてしまった。
なんという光景だろう。
リタイアーズのメンバーと恩田が、同じ場所で一堂に会している。
僕はやはりその光景がひどく嬉しくて、身体の芯から喜びがあふれ出るような感覚を味わっていた。
「みんな、お前たちのバンド仲間か?」
恩田が楽しそうに僕たちに聞く。
僕は、ああ、と首を縦に振った。
「蒲原も、みんなも、僕の自慢の仲間だ。僕はこの、いちど音楽を離れたやつらが集まった、リタイアーズというバンドに入れたことを誇りに思う」
蒲原が続く。
「元々は僕がどうしても音楽が好きで、諦められなくて立ち上げたバンドなんです。それから2年半でこんなに素晴らしいメンバーが集まって、今日、この場所に立てています。あのとき恩田さんが僕を破門にしてくれなかったら出会えていなかった仲間です」
恩田は嬉しそうに頷きながら蒲原の話を聞いていたが、階段へ身体を向けると深々と頭を下げた。
「僕は恩田昇也と申します。スタジオミュージシャンをしています」
北園と野木が顔を見合わせている。
「恩田……って、マメの、いや、江田くんのバンド仲間で、蒲原のドラムの先生だった、あの……?」
大きな目をぎょろつかせる北園の問いに、恩田は優しく首を縦に振る。
「そうです。皆さんはご存じだと思いますが、僕は一時的とはいえ、彼らから音楽という素晴らしい時間を取り上げてしまった。でもそれは今日、互いにすべてを話すことで誤解が解けました。ですから僕は今、この瞬間からひとりのプロミュージシャンに戻って皆さんの演奏を審査させてもらいます」
恩田の言葉には、優しさのなかにプロとしての矜持が顔を覗かせていた。
それから恩田は僕たち全員の顔をまじまじと眺め、最後に僕に向き直った。
「江田、お前はみんなにマメって呼ばれてるんだな。しかもメンバーは年が違うのに垣根がないように見える。……お前は、いい仲間と出会えたんだな」
恩田の顔には、嬉しさと、ほんの僅かだけ寂しさが浮かんでいた。
「ああ、ありのままの僕を受け入れてくれる最高の仲間だ。だから今日はこの最高の仲間と、最高の演奏を聞かせるよ」
僕が手を差し出すと、恩田はそれに応えてくれた。
恩田は、今日はよろしくお願いします、と頭を下げると、毅然とした足取りで建物へと消えていった。
その背中を見送った誰もが、扉が閉まったあとも口を開けずに時間だけが過ぎた。
僕たちはそれぞれベンチに座り、なにを話していいか分からないままタイミングを測るように互いに目を走らせていた。
木々がざわめくだけの静寂を破ったのは、やはり粟田だった。
「ねえ、さっきの恩田さんって……ビスマルクのショーヤよね?」
その言葉に、野木が過剰に反応する。
「やっぱり! どこかで見たと思ったんだよね。あの長髪とモデルみたいな体系、あとはあの流し目!」
粟田と野木は嬉しそうに笑いあっている。
「なあなあ、そのビスマルクって、あのビスマルクだよな? あんなやついたか?」
北園が身を乗り出して尋ねると、粟田が汚いものを見るような目で睨む。
「アンタ、本当に邦楽のことは何も知らないのね! ビスマルクは結成して25年も経つのよ。ショーヤはその初期メンバーで、結成してから10年もドラム叩いてたの!」
呆れたような口ぶりに、北園が口を尖らせる。
「でもよ、マメはそのことを知ってたんだろ? なんで教えてくんなかったんだよ。」
少なくともこの時点で、この5人のなかでは僕がいちばん驚いていたに違いない。
ビスマルクというバンドはイーグルスやエアロスミスなどの70年代のアメリカン・バンドに強い影響を受け、現在でも日本のロックシーンに欠かせないグループだ。
現に僕の娘もビスマルクのファンで、ツアーのたびに足繁くコンサートに通い、そこで手に入れた大きな十字があしらわれたフォトフレームやUSBメモリなどを今でも大切に使っている。
しかし当の僕は、恩田があのビスマルクのメンバーだったということを、いま初めて知ったのだ。
それほど恩田をはじめとした大学の友人たちと疎遠になってしまっていたという現実を、僕はまざまざと目の前に突きつけられたような気持になった。
「いや、僕はずっと恩田たちとは連絡を取っていなかったから、ビスマルクのメンバーだったなんてことは本当に知らなかったんだ。正直、驚いてる」
蒲原を除く3人の目が丸くなる。
「え、マメさん、本当にショーヤのことを知らなかったの? じゃあ、どうしてビスマルクを辞めたかも知らないってことだよね?」
立ち上がった野木が、早口でまくし立てる。
僕はなんだか申し訳ない気持ちになり、遠慮がちに頷いた。
「そっか……そうなんだ。あのね、これはあくまで噂かもしれないけど、ショーヤは個性的なテクニシャンが集まったビスマルクをまとめるのに疲れちゃったみたい。決して喧嘩別れじゃないらしいんだけど、脱退してからしばらくして雑誌のインタビューに答えたとき、『いちど仲間を捨てた人間がバンドをまとめる資格なんてない』って言ってたんだよね」
僕の背筋に電流が走った。
恩田は僕たちから音楽という素晴らしい時間を奪ったと言っていたが、それは恩田にも同じことが言えたのだ。
僕との間で生まれた齟齬のせいで、恩田は大切な仲間と、スターダムへの道を失ってしまっていた。
そして恩田はそれを、自分の過ちの結果として真摯に受け入れていたのだ。
「世の中は何が起こるか分かんないね、マメさん」
僕の気持ちを理解してくれたであろう蒲原が、寂しそうにつぶやいた。
「おい! 本番まであと1時間ちょっとだぞ! しんみりしてるヒマなんてねえんじゃねえのか?」
北園が自分の膝を、ぱあん、と打って勢いよく立ち上がった。
北園も北園なりに気を遣ってくれたらしい。
「ほれ、みんな行くぞ! もう恩田さんがどうだとか、ビスマルクがなんだとか関係ねえ。俺らは俺らができる最高の演奏をするだけだ! 違うか?」
顔を上げると、北園は僕に手を差し出しながら満面の笑みを浮かべていた。
僕はその手を取り、立ち上がる。
「うん。今日はもう余計なことは考えないで、20分間、最高の演奏を会場に響かせよう!」
僕は北園と掌をぶつけあった。
ばちぃん、という小気味よい音に背中を押されたように、みんなが一斉にベンチから立ち上がる。
「へえ、たまにはいいこと言うじゃない、ゾノさん。そんなこと言いながら、ベースの音を外したりしないでよ?」
粟田がにやりと笑いながら、僕と同じように北園と掌を合わせる。
それに続いて、蒲原と野木も次々と掌を合わせ、最後は全員で円陣を組む形になった。
「よおし、らしくなってきたじゃねえか! これでこそリタイアーズだ! それじゃあ、いっちょぶちかまして、がっちり優勝してやろうぜ! 今までの人生で最高の20分の始まりだ!」
僕たち5人の、おお! という野太い声が、夏の日差しが降り注ぐテラスに響き渡った。
僕たちの演奏は、出場6組中6番目、いわゆる大トリだった。
ステージから見える客席はほとんどが埋まり、ステージの上に整列した6組はざわざわとした話し声のなかで、間もなく始まる総評と結果発表を待っている。
やがてスタッフがステージ脇の演台に何枚かの賞状とトロフィーを用意すると、客席の照明が落とされ、それと同時にざわめきはなりを潜めた。
「いよいよだな。」
北園が、僕たちにだけ聞こえるような小さな声でささやく。
「大丈夫、やれるだけのことはやった。 悔いはない。」
それにつられて、蒲原が充足感を隠そうともせずに微笑んだ。
「ねえ、でも、周りのバンドもかなり上手だったじゃない? 特に3番目に演奏したあのイケメン揃いのグループ。」
そう口にしながら額の汗をタオルで拭う粟田の姿を見て、野木が深いため息をつく。
「ユウはイケメンだからそう思ってるだけでしょ? それにあの人たちね、みんな演奏前にエントランスで彼女だか奥さんに応援してもらってたよ。 トイレに行ったときに見たから間違いないね。」
今度は粟田の長いため息が聞こえる。
「なによ、ノンケに用なんかないわ。 演奏だって大したことなかったじゃない。」
その言葉に、たまらず僕たち全員が吹き出した。
今から30分ほど前に終わった僕たちの演奏は、仲間の誰もが認める最高の出来だった。
みんながそれぞれ持っているポテンシャルを最大限に発揮し、僅かなミスはあったものの、それを周りがすぐに補う柔軟さは練習のときをはるかに凌いでいた。
特に、ホテル・カリフォルニアで僕が最後のソロの音を1か所だけ外したときなどは、全員がすぐさまアイコンタクトで僕に、大丈夫だ、と伝えてくれた。
その直後に僕は、審査員長席で不安そうに僕を見つめる恩田と目が合った。
僕が、大丈夫だ、とアイコンタクトを返すと、恩田はただ目を細め、優しい顔で僕にひとつ頷いてくれた。
それだけで僕の指は、心は、驚くほど軽くなった。
これほど音楽というのは楽しいものなのか。
改めて、本当にそう思える20分間だった。
周りを見渡すと、薄闇のなか他のグループが緊張の張り付いた顔を並べている中で、僕たちだけが笑みを浮かべている。
演奏のレベルでは確かに僕たちよりも上と思われるグループもあったが、僕たちにはその差を埋めて余りあるほどの一体感と、メンバーひとりひとりが楽しんで演奏する姿があったと断言できる。
とにかく、僕たちは演奏をやり切った。
テラスで北園が鼓舞してくれたように、きっと人生で最高の20分間を僕たちは味わうことができたのだと思う。
「それでは、只今より総評ならびに結果の発表を行います。」
よく通る女性司会者の声に弾かれたように、ステージ上を演奏前とは違う期待のこもった緊張感が駆け抜ける。
「それでは総評と結果発表を、審査員長の恩田昇也さま、お願いいたします。」
恩田がマイクを持ってゆっくりと立ちあがり、ステージを端から端まで見渡す。
その後で深々と下げた頭に拍手が降り注ぐ。
恩田は大きく息を吸い、目を閉じた。
「今日はみなさん、本当に素晴らしい演奏を聞かせていただき、ありがとうございました。」
ステージの全員が恩田の動きに合わせて一斉に頭を下げる。
「私はプロとしてみなさんの演奏を審査させていただく立場にありますが、アマチュアである皆さんと私の間にあるものについて考えながら、今日は演奏を拝聴させていただきました。」
そこでいちど言葉を切った恩田は、いちばん最初に演奏したバンドを手で指した。
「皆さんと私の間にあるもの、それがなんだか分かりますか? ああ、別にその答え次第で評価が変わるとかそんなことはないですから、どうぞ気楽に答えてください。」
客席から笑い声が上がる。
ステージの端では恩田の質問に答える人間のなすりつけ合いが始まり、会場の笑いが大きくなる。
やがて観念したらしいボーカルの男性が、司会者からマイクを受け取っておずおずと口を開いた。
「やはり……演奏テクニックとか、だと思います。 アマチュアである僕たちよりもテクニックがないと、プロとしてはやっていけないんだと思います。」
恩田はそれを黙って聞いていたが、話し終わるのに合わせて大きく頷き、そうですね、と前置きしてから続けた。
「その通りです。 例えばドラムひとつを取っても、たくさんのテクニックがあるわけですね。 そしてそのテクニックを複合して、また別のテクニックへと繋げていく。 言うのは簡単ですが、これは実に時間と根気が要ります。 とても普通に働きながら短時間で身に付けられるものじゃないんです。 言い換えれば、そのテクニックに到達できるほどの根気と自覚、そして何よりも時間を自分のものにできるか、これはプロとアマの大きな違いだと思います。 素晴らしい答えを言ってくれたあの方に、皆さん拍手!」
会場から大きな拍手が沸き、マイクを持った男性が照れ臭そうに頭を掻いている。
恩田は拍手の雨が収まってゆく様子を満足げに眺めていたが、ちょうど良いタイミングでまたマイクを口に近づけた。
「そう、テクニック。 そして私はもうひとつ、プロにとって欠かせない要素があると考えます。 それは、どれだけ失敗して、挫折して、苦しんだのかということです。」
その言葉に、会場は水を打ったように静まり返った。
「正直なところ、テクニックに関しては皆さんの中にもかなりの腕をお持ちの方がいました。 まあ、ギターに関してはみなさん、Yで始まるバンドのRというギターよりは上手いのは間違いないです。 まあ、ドラムはみんな私よりも下手でしたけどね!?」
誰だ誰だ? というざわめきと共に沸き起こった大きな笑い声と拍手に、甲高い口笛の音が混ざる。
僕の目から見ても恩田は、会場の雰囲気を出来るだけ暖かいものにしようとしているのがよく分かった。
僕は学園祭の前、この恩田の軽口でみんなが腹を抱えて笑い、最高の状態でステージに上がったことを思い出していた。
「私は今まで、たくさんの挫折をして、たくさんの大切なものを失くしてきました。 恋人、仕事、仲間、地位、お金、そして、かけがえのない親友。」
僕が審査員長席を見ると、恩田は僕と一瞬だけ目を合わせてから、ゆっくりとまたステージの端へ視線を戻した。
「でも、それは決してマイナスではなかったんです。 私はそのたびに後悔して、反省して、そして自分に足りなかったものに気づかされてきました。 私はドラムマシーンじゃなくて人間ですから、そうやって少しずつ成長してきたんです。 皆さんだって仕事はプロとしてお金を貰っている訳ですから、きっと私の言っていることが当てはまると思います。 たくさんの失敗と挫折を繰り返して、一流になっていく。」
うす暗い客席のあちこちで、うんうん、と頷く姿が見えた。
「そのベクトルが、私はたまたま音楽に、そしてドラムに向いていた。 大まかなことを言いますと、私と皆さんの間にある違いとは、挫折や後悔のベクトルの向きだけなんです。 私も、もちろん皆さんだって、ちゃんと自分たちの見つけ出したベクトルに沿って毎日頑張っているんですから!」
わっ、という歓声と同時に、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
会場は今や、恩田の振る言葉の指揮棒によって完全に支配されつつあった。
「そんな中で、今日の審査は実に難航しました。 あ、司会者さん、長くなっちゃったけど大丈夫ですかね?」
くすくすとした笑い声のなか、司会者が笑顔で大きな丸を作っている。
「ではお許しが出たのであと3時間、というのはさすがに嘘ですが、もう少しだけ。」
恩田はそこまで喋ると、ひとつ咳ばらいをした。
「正直なところ、皆さんの演奏はどれも素晴らしかった。 これはお世辞でもなんでもなく、プロの目から見させていただいても実に学ぶところが大きかったんです。 あとはもう、洋楽邦楽の好みや、メンバーに怖そうな人がいるかどうかで決めるしかない。」
この日いちばんの笑い声のなか、恩田は声のトーンを落とした。
「ですが、音楽、というものをもっと別の角度で捉えると、話は少し違ってきます。」
恩田が出場バンドの端から端まで視線を走らせると、ステージの雰囲気が変わった。
「ここで皆さんにちょっと質問です。 皆さんは今日、何を思いながら演奏しましたか? ああ、演奏順にさっきのマイクを隣に渡してあげてください。」
先ほど質問に答えた男がいくぶん慣れた様子で、優勝したいと考えていました、と答えてから隣のグループにマイクを渡した。
「僕も、優勝したいと思いました。」
「私は、お酒飲みたいなー、です。」
「俺は……、そうだなあ、無心でした、無心。」
「緊張していて覚えてませーん!」
順調にステージを移動してきたマイクは、リタイアーズのなかでいちばん端にいた蒲原の手に渡った。
蒲原はそれを少しのあいだ眺めていたが、何も言わずにそれを僕の前に、ずい、と差し出して白い歯を見せた。
「ここはマメさんが答えなきゃだめでしょ。」
僕が驚いて周りを見ると、みんなが小さく頷いている。
「ほら、お前の言葉でちゃんと言ってやれ。 審査員長が待ってるぞ。」
そう言って北園が僕の背中を、とん、と押した。
僕はその勢いで体勢を崩し、よろけて列の前へ飛び出してしまう。
観客席、ステージ、司会者、審査員、そして恩田の視線が、一斉に僕に突き刺さる。
僕は何を考えながらギターを弾いていたんだ?
仲間のこと?
恩田のこと?
それとも……
僕は大きく息を吸い、いちど目を閉じた。
脳裏にほんの30分ほど前に体験した、人生最高の20分が蘇る。
「僕は……。」
野木が笑顔でアルペジオを奏で、歌っていた。
粟田が踊るようにキーボードを操っていた。
北園が軽快なステップでリズムを取っていた。
蒲原が弾けるようなスネアの音で僕たちを導いてくれていた。
そして僕は……、指が勝手に動いてしまうほど、みんなとの一体感に身を委ねていた。
「僕は、なんて楽しいんだ、と思いながら演奏していました!」
「よく言った!」
北園の場違いなヤジに、会場から失笑が漏れだす。
恩田に目をやると、満足そうに目を細めながら大きく頷いていた。
「ありがとうございます。 みなさん本当に素直な気持ちを言葉にしてくれましたね。 さて、それではこのまま結果発表に入らせていただきます。」
ステージの照明が落とされ、ホールにざわめきが走る。
静かにドラムロールが流れるなか、真っ白なライトがステージ上で8の字を描く。
出場者たちは判で押したように全員が胸の前で手を組み、自分たちの頭上をその白い光が照らすことを一心に念じている。
「音楽とは、音を楽しむ、と書きます。 その本質的な部分を、ステージの上で見事に表現したグループがあります!」
タンッ、という音とともにドラムロールが止み、僕たちをまばゆい光が照らした。
「優勝は、リタイアーズ! おめでとう!」
一瞬遅れて、きゃあっ! という粟田の野太い悲鳴が響き、割れんばかりの拍手に笑い声が混じった。
僕は耳を駆け抜ける喝采のなか、茫然としてその光を見上げてから、首を横に向けた。
粟田と野木が抱き合って泣いていた。
北園は静かに天井を見上げ、歯を食いしばりながら何かをつぶやいている。
僕がいきなり身体に走った衝撃に驚いてそちらに顔を向けると、蒲原が目にたくさん涙を浮かべながら僕の身体を揺すっていた。
「マメさん! 優勝したんだよ! ねえ、全国だよ? 僕たち、全国大会に出れるんだ!」
僕は身体をがくがくと揺すられながら、こみ上げてくる涙を堪えることができずに声を出して泣いてしまった。
「やった……、やったな。 僕たちが、リタイアーズが優勝したんだな。 みんなに、恩田に認めてもらえたんだな。 この2か月、本当に、本当にいろいろなことがあったよなあ……。」
僕は溢れるものをそのままに、居酒屋での僕の暴走に端を発した解散危機や、蒲原が肘を痛めたときの絶望感、粟田の機転と恩田のタオル練習法で繋ぎとめた希望、そして今日、文化センターのテラスで解かれた恩田と僕のすれ違い、それらの濃密な記憶を次々と思い出し、思わず蒲原の手を強く握った。
蒲原は何度も頷きながら、黙って僕の手を強く握り返してくれる。
人生最高の20分間には、人生最高の延長時間が用意されていた。
僕は涙をぬぐい、これ以上は出ないほど大きな声で、ありがとう、と叫んだ。
誰に向けて吐き出された言葉かは分からなかった。
ただ僕は、きっと生まれて初めて胸に湧いた感情をそのまま口にすることができたのだと思う。
僕の中にあった羞恥心でできたフィルターのようなものは、溢れ出る感情が押し流してしまったらしい。
それでもいい。
いや、それでいいんだ。
視線の先で、恩田が僕たちに向けてサムズアップしている。
その顔が泣いているのか笑っているのか白い光のせいで判然としなかったが、僕の頭の中にほんの少しだけ残っていた白いもやのようなものが完全に消えたような、そんな気がした。
僕は恩田から小さなトロフィーを受け取った北園とハイタッチをする。
たくさんの拍手の中でそれはひときわ大きく、ぱあん、とステージに響いた。
客席とステージから贈られる最大限の祝福のなか、僕たちのシニアバンド北関東大会はこうして終わりを告げた。
「あと2か月で本番なんて、早いよなあ。」
北園がエフェクターの調整をしながらつぶやいた。
「そりゃそうよ、あの大会からもう1か月以上経ってるのよ? いつまでも寝ぼけたこと言ってるとまた禿げるわよ、エロ河童!」
スタジオ176、A-3号室では相変わらずのやり取りが繰り返されていた。
以前ならここで北園が激しく言い返すところだが、今日はなぜかひとことも返さない。
「どうしたの、ゾノさん。 今日はやけに大人しいじゃない。」
野木が心配そうに北園の顔を覗き込むと、北園は、なんでもねえよ、と背中を向けた。
「また飲み過ぎた? なんか最近、足繁く通ってるスナックがあるみたいじゃない。」
蒲原がシンバルの高さを調整する手を止めて、にやりと笑った。
「あ、分かった! いつかアンタが間違ってメッセージ送ってた、かんなちゃんじゃないの? そのスナックのママか女の子の名前がかんなちゃんなのよ。 どう? 図星でしょ?」
北園は無言で振り向くと、粟田の前までゆっくりと進んでから脳天に軽くげんこつを食らわせた。
「痛い! 何すんのよ! エイタ、あのエロ河童なんとかしてよ!」
野木はその嘆願をハエでも見るかのように綺麗に無視して、黙々とアンプの設定を進めている。
「あのな、だから、かんなは違うって前も言っただろ? 本当に学習能力がねえな、ラードマンは!」
今、奇跡的に生まれた粟田の新しいニックネームは、僕たち3人の爆笑を誘発した。
「ラードマン! 日本語に直すと油男だよ、ユウ! これはいいよ、ゾノさんさっそく今日から使わせてもらうからね!」
野木が苦しそうにそう言うと、まんざらでもなさそうな北園が親指を立てた。
「はあ? アンタたち、リタイアーズのマスコットキャラクターを捕まえてどんだけ失礼なの? アタシがあの大会で最優秀キャラクター賞もらったの、もう忘れたわけ?」
「馬鹿野郎、あれはあのステージでいちばん重い奴が受賞しただけだろうが。」
北園の言葉は相も変わらず鋭く粟田を切りつける。
粟田は何か言い返そうとするが、悔しさが先走っているのかボキャブラリーの不足か、言葉が出てこずにきいきい言いながら地団太を踏んでいる。
「ユウ、スタジオの床が抜けるから地団太踏むのやめな! ……って、あ、ごめん、間違えた。 地団太踏むのやめな、ラードマン!」
粟田の、きいいいいっ! という悔しそうな叫びを聞いて、僕は軽くとどめを刺すことにした。
「なあ粟田、お前、リタイアーズに関して大きな勘違いをしてないか?」
僕の言葉に周りは不思議そうな顔を浮かべてから、何かに気づいて、ああ、と納得する。
「なによマメさん。 アタシが何を間違ってるっていうのよ!」
眉根を寄せながら粟田が僕に喰ってかかるのを制して、北園が割って入る。
「おいラード、お前、いつまで解散したバンドの名前なんか使ってんだ?」
少し考えたあとで、しまった、という表情になった粟田が今度はみるみる赤くなる。
「そう、リタイアーズは半月前に解散したじゃないか。 お前は僕たちの仲間じゃなかったのか?」
僕がわざとらしく意地悪な口調でそう言うと、ごめんなさい、と言ったきり粟田はしおらしく黙り込んだ。
それを見届けた野木がセッティングが整った蒲原に目で合図を送ると、蒲原がスティックを持った手を高々と上げて声高に叫ぶ。
「それじゃあ、今日はママ・キンから始めますか! We are?」
蒲原の言葉に、全員が笑顔で声を揃える。
「Re:STARTS(リスターツ)!」
ヒッコリーの乾いたカウントに合わせ、僕はストラトキャスターに繋いだファズのスイッチを思い切り踏んだ。
そう、また始まるのだ。
了
長々と書いてしまいましたが、最後までお読みくださり有難うございました。
お読みくださったすべての方には、感謝の言葉もありません。
ようやく自分が本当に書きたかった物語を書き、そして完結させることができました。
おそらくこの物語のアフターストーリーとして、北園のお話を書くと思います。
まだいつ執筆するかは分かりませんが、もしよろしければそちらもご覧いただければ幸いです。
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