第一章 白い闇

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第一章 白い闇

「今日で5月も終わりか。あと2ヶ月で本番なんて、時間の経つのは早いよな」  北園がベースを弾く真似をしながら、咥え煙草のまま感慨深げに呟いた。  煙草を右手に持ち替えてうまそうに煙を燻らせるその目尻には、40半ばという年齢にふさわしい、緩やかな笑いじわが刻まれている。  その姿を横目で見ながら、本番という言葉が僕の心でずしり、と鉛のような塊に変化するのが分かった。 「でも、よくまあ1年ちょっと、ああ、江田さんはまだ半年ですけど、この短い期間でみんなここまで音がまとまるようになりましたね! 本当にいい音が出るようになりました。 みんな凄い上達ぶりだと思いますよ! 絶対に予選を勝って、全国に行きましょう!」  そう言ってほぼ空のビールジョッキ持ち上げた蒲原は坊主頭を右に向けると、若く張りのある声でふたつ向こうの席を通りかかった女性店員に声をかけた。  はあい、と元気な声で答えた店員がいそいそとやってきて、端末を片手に僕たち4人が座るテーブルの脇に膝をつく。 「北園さんは次もビールでいいですか? 野木さんは……まだ残ってますねえ。」  蒲原の言葉に北園はビールジョッキを持ち上げ、グラスに烏龍茶がまだ半分ほど残った野木は、黒縁メガネの奥で遠慮がちに目を細めた。 「えっと、江田さんはどうしますか?」  蒲原と目があった僕は、少し考えるふりをしてから焼酎のレモン割り、と口を動かしかけた。 「ああ、焼酎のレモン割りですよね。 お姉さん、生ふたつと、焼酎のレモ……」 「日本酒、温燗でひとつ!」  僕はまるで蒲原から自分の行動がワンパターンだと揶揄されたような気がして、思わず声を上げた。  三人が意外そうな目でこちらを見ているなか、店員はにこやかな顔のまま端末に情報を入力して送信ボタンをタップする。  短い電子音のあとで店員は礼を言いつつ立ち上がり、ぱたぱたと忙しそうに厨房の向こうへ消えてゆく。 「どうしたよ江田っち、日本酒たあ珍しいじゃんか」  酔うと江戸弁とハマ言葉が混じる北園が、楽しそうな笑顔でこちらを見ている。  ああ、たまには違うものも頼まないと、ワンパターンな男だと思われるからさ」  同い年らしく出来るだけフランクな返しをしたつもりだったが、どうしても蒲原への嫌味が言葉の端から顔を覗かせてしまう。  「酒の好みはそうでも、江田さんのギターはワンパターンじゃないですよ。歌っている側からすると、それがよく分かるときがある。ミスをしても懸命にリカバリーしているときの柔軟なプレイが僕は好きです」  歌っていないときから透き通るような爽やかさに包まれた野木の声が、まるでハミングしているかのように心地よく耳に届く。  そりゃあいちど死ぬほど嫌な思いをしてるからね。  僕は言いかけた口を無理やりジョッキに付け、すっかり薄くなったレモンの香りがする何かを流し込んだ。  瞬間、喉の奥が記憶に抵抗して、ぎゅうっ、と音を立てる。  くそ、こんなときにまたアレが来るっていうのか。  僕が深呼吸で記憶に蓋をしようと大きく息を吸ったときだった。 「僕はちょっと違うと思うなあ」  不意に蒲原が誰に言うでもなく呟いた。  何気ないひとことだったのだろうが、場違いな言葉にみっつの視線が蒲原へと一斉に向けられる。 「蒲原、違うってどういう意味だ?」  僕が聞こうとしたことを、タバコをもみ消す北園が口にしてくれた。  蒲原は困ったような顔をしながら、少し考え込んだまま口を結んでいる。 「僕も知りたいな。 僕のリカバリーがどう違うっていうんだろう?」  出来る限り苛立ちを表に出さないように気を配りながら、僕は蒲原の目を真っ直ぐに見た。 「うーん、この表現が的を射ているか自信ないんですけど、江田さんはなんか余裕がないような気がするんですよね」  遠慮がちに話す蒲原の言葉には、唯一の30代にもかかわらず本業のドラムのほかにギターやキーボードも高いレベルでこなせるという、メンバーの中で突出した音楽スキルを持つ者としての重みがあった。  しかしそれをまったく意識していないであろう北園が、蒲原が話し終わるのに合わせて大袈裟に笑い出した。 「まあ、そりゃあ仕方ねえじゃんか。江田っちは大学卒業してから去年の暮れにメンバー募集に応募してきてくれるまでの20年近く、全然ギターなんか弾いてなかったんだろう? そりゃあ鈍ったカンを取り戻すのに必死で余裕なんかあるわけねえだろうよ」  北園はおかしそうに片手をテーブルに乗せたまま笑っているが、それを見る蒲原は眉ひとつ動かしていない。  蒲原は北園の笑いが収まるまで待ってから、言葉を選びつつ話し始める。 「いやあ、そういうんじゃないんですよ。カンを取り戻すとかじゃなくて、なんて言うのかなあ、うーん、なんか楽しくなさそうな演奏してることがあるんですよね、時々」  僕のいちばん脆い部分に、先ほどとは違うトゲのある重みが、ぎりり、と爪を立てた。  そんなことには気づくはずもない蒲原が続ける。 「ドラムやってるといちばん後ろからステージ全体を見ることになるんですよね。しかもドラマーはリズムを狂わせちゃいけないから、いつも冷静でいなきゃいけないんです。だから余計にギターのちょっとしたミスやテンポのズレのあとで、江田さんの動きが急に硬くなって余裕がなくなるのが見えたりするんですよ。もっと気楽に演奏したらいいのになあ、って思うことが時々あって」  僕は言い返す言葉を探そうとしたが、あまりに的確な指摘にそれを諦め、もういちど意味もなくジョッキに口を付けた。  僕が考えるフリをして天井に視線を彷徨わせていると、それまで黙っていた野木がゆっくりと口を開いた。 「なんか分かるな、それ」  僕はぎょっとして野木の顔を見つめた。  アルコールとストレスのせいで久しぶりに顔を覗かせつつある苦い記憶が、不快な感覚とともに僕を過去へと連れ去ろうとする。  僕の目には野木の周りを覆う白いもやのようなものを透かして、大学最後の学園祭ライブの日、轟音の中で立ち尽くす僕が助けを求めて振り返ったときに見たバンドメンバーたちが浮かび上がり、僕は誰にも気づかれないほどの小さな悲鳴を上げた。  慌てていちど強く目を閉じてからゆっくりと瞼を上げるともやは消えており、今見えている光景こそが現実なのだという安堵のせいか意図せずに長いため息が溢れる。  僕は首筋の血管を通して鼓動が不正確な鐘を打っているのに気づき、思っている以上に自分が動揺していることに焦りを覚えた。  呼吸が荒くなってゆく僕の目の前で、野木が珍しく饒舌に喋る。 「いや、僕もそうなんだけどね。歌いながらギターをトチったり歌詞を飛ばしたりしたとき、早く元に戻さないと、って焦るんだよ。で、その焦りが次のミスを呼び込んでどんどん冷静じゃなくなっていく。そういうことでしょ?」  そんなんじゃない。  何も分かってない。  俺の何を知っていてそんなことを口にする。  喉元まで出かかった言葉に、僕は冷めた唐揚げで無理やり蓋をする。  僕の口の中で粉々になってゆくその塊からは、この店の自慢なのだと言われた柚子胡椒の味などついぞ感じることができなかった。 「そうじゃない」  蒲原がぴしゃりと言い放つ。 「演奏ミスなんて誰でもしますよ。でも普通はやっちまった程度で済むはずなのに、江田さんはミスをすごく恐れてる感じなんですよ。いちどトチっただけで、自分の世界に入っちゃうというか、僕たちが見えてないっていうか……」  早鐘が勢いを増してゆく。 「お待たせしましたあ」  僕は必要以上にその声に反応してしまった。  いずれにせよ、僕の心臓がどうにかなってしまう前にさっきの店員が飲み物を運んできたおかげで会話が途切れてくれた。  心を落ち着ける時間が確保できたことは掛け値なしにありがたい。  僕は胸を撫で下ろしつつ、温燗を受け取る。  もしあれ以上僕の心を削ぐような話が続いたら、きっと僕はあのライブの最後の曲、ソロの出だしで弦が切れてしまったときの恐怖が克明に思い出されてしまい、あの日そうしたように大声で叫んでいたに違いない。  僕はストレスをかき消すために味のしないぬるいアルコールを喉に流し込み、すぐに激しく咳き込んだ。 「ほれみろ、言わんこっちゃないじゃんか。慣れない日本酒なんか頼むからそうなっちまうんだよ。江田っちは黙っていつものレモン割り飲んでりゃそんな咳き込まなくていいのによ」  笑いじわをいくつも作りながら、北園が僕を指差している。  僕はそれに向けて曖昧な笑顔を返してから、もういちどゆっくりと日本酒を口に含む。  そして脳裏でうごめく苦い記憶を流し去るイメージで、喉の奥深くへと味のしない何かを飲み込んだ。 「いや、美味いよ。辛口は好みだからね」  僕は精一杯の強がりを言いながら、頭蓋の内側にこびり付いた記憶が少しだけ薄くなっていることに安堵した。  ワンパターンと揶揄されることを牽制する以外にも、どうやら日本酒を頼んだのは正解だったようだ。  この一合徳利を飲み干す頃には、おそらくはいつもの自分に戻れるだろう。  そう言い聞かせながら僕は抵抗の消えた喉に日本酒をあまり間をおかずに流し込んだ。  そうやってしばらく飲んでいるうちに、僕はどことなく誰かが勝手に自分の手足を動かしているような不思議な感覚に沈み始めていることに気付いた。  普段であれば酒が進んでもこんなことはないのだが、どうも先ほど顔を覗かせたあの苦い記憶が、酒の力を借りて僕の中で蠢きはじめていることが影響しているようだ。 「江田さん、ずいぶんと顔が赤いけど、大丈夫ですか? お水もらいましょうか?」  しばらく黙々と飲み続けた僕にかけられたその言葉につられるようにして横に目をやると、隣の席から野木が心配そうにこちらを覗き込んでいる。  僕の目の前には一合徳利がふたつ転がっていた。  この程度の酒でふたつも年下の男に心配されるようじゃ、僕もまだまだ未熟だな。  ふとそんな思いが過ぎったが、僕の口は滑らかに思ってもいないことを並べ立てる。 「野木くんは優しいな。さすがバンドの女メンバーを全員泣かせたイケメンボーカルだけのことはある! こんなに優しかったらそりゃあ女も感違いするだろうさ」  恐らく半分はひがみ、残りは本音だった。  30代の頃に組んでいた社会人バンドの女性メンバー全員が野木に熱を上げ、それが原因でバンド内の空気が悪くなって空中分解したという逸話は、このあたりで音楽をやっている人の何割かは耳にしたことのある都市伝説だ。  しかしそれは都市伝説などではなく紛れもない事実で、バンド解散後、どうしても歌うことをやめるという決断を下せなかった野木が地元のネット掲示板で男だけの洋楽バンドを探してこの『リタイアーズ』に加入したという話は、ここにいるメンバーだけが共有する秘密だった。  脳が慣れない日本酒に浸食されていたのか、その秘密に触れるようなことを無遠慮に口にしたことに僕は気づけなかった。  僕の目の前では、鋭い目で射竦めるように野木がこちらを睨んでいる。  僕は自分が口にした言葉をろくに認識しないまま、ただぼうっと野木の目を見ていた。  「江田さん、今のはどういうつもりで言ったんですかね? 僕は確か、その話は人前でするなと言ったはずですが、いい大人がまさかお酒のせいだなんて言い訳はしませんよね?」  穏やかな口調の中に、野木の制御しきれない怒りが満たされているのが手に取るように分かった。  とろけ始めた脳でも自分に対する敵意を感じ取った僕は、頭をフル回転させて野木に向けるべき言葉を探した。  しかし野木の指摘のとおりアルコールが程度の悪い潤滑油となって、脳内のシナプスをめちゃくちゃな回路に繋げようとするせいで何もまともな言葉が浮かんでこない。  それどころか、少し気を緩めただけでさらに野木の怒りに燃料を投下するような台詞が口から転がり出そうになる。  僕の意思は今、どこにある?  いったいどこから歯車が狂い始めた?  酒か?  学園祭の辛い記憶が滲み出てきたからか?  混濁する思考の中で答えを探そうと懸命にもがいてはみるが、ねっとりとした膜に覆われたように意識が定まらず、考えがまとまらない。  のたうつような鈍い苦痛のなか、北園の、今のは謝ったほうがいいという声が間延びしたように頭に響く。  謝る?  どこを?  何に対してごめんと言うのだ?  まとまりかけた思考が掴みどころのない雲のようにあちこちへ霧散してゆく。  その瞬間、ばん! という鈍い音が響いた。  反射的に音の方向を見ると、ぼんやりとした視界の向こうでテーブルの上に五千円札が一枚置かれており、その前ではすらりと背の高い黒縁メガネの男が立ったままこちらを見下ろしている。 「地方大会まであと2ヶ月っていう大事なときにこういうこと言うのもなんですけど、あとは自主練にしませんか? それと、もう一曲追加するって話もなしにしましょう」  僕はまだ状況が理解できずにいたが、北園は僕に向かって、謝れと連呼している。  蒲原は立ち上がって野木の両肩に手を置き、落ち着いてくださいと何度も頭を下げている。 「それじゃ、次は大会で。今日は最後の練習、お疲れさまでした」  よく通る声で野木がそう言ってから少しして、はじめて僕は自分が何を言ったのかを恐怖とともに認識した。  その横を慌てた様子の蒲原が駆け抜けてゆく。  僕は反射的に立ち上がりかけたものの、ひどい目眩に思わずテーブルに手をついて身体を支えなければいけないような有り様だった。  それからゆっくりと体勢を立て直して店の入り口の向こうへ消えた野木を追いかけようとしたとき、いきなり北園のごつごつした右手が鈍い衝撃とともに僕の胸ぐらを掴んだ。 「おい、お前! 自分の言ったこと分かってんのか? さっき野木も言ってたが、ここにきて酒のせいなんかにすんじゃねえぞ! お前は今、野木がいちばん触れられたくない部分に土足で上がり込んだんだからな!」  店長らしき男性が慌てて厨房から飛び出してくるのが、充血した目が大きく見開かれた北園の顔越しに見える。  酒を持ってきてくれた女の子は柱の陰から怯えるようにこちらを見ていた。 「いいか、野木は次は大会で、なんて言ったがな、その前に言った最後の練習って言葉の意味が分かるか?」  激昂する北園に、僕は何も答えることができない。 「大会に出たらこのバンドから野木は抜けるってことだよ。なあ、ボーカルのいないバンドなんてありえねえよな? つまりは実質、解散だ!」  北園はそこで悔しそうにいちど言葉を区切り、うまく言い表せない感情の滲んだ目で僕を睨んだ。 「なあ、せっかく俺と蒲原がもういちど音楽をやりたいと思って立ち上げたバンドを! どう責任取ってくれんだこの野郎!」  北園の間を置かない罵倒のなか、入り口からうなだれた蒲原が悔しそうに両手を固く握りながら戻ってくるのが見えた。  何かを言わなきゃいけない、そう思いながらも脳は正しい信号を口に送らず、いたずらに記憶の底をかき回すばかりだった。  僕は自分がどんな表情をしているかも分からないまま、さっきからひとことも言葉を発することもできずただ北園にがくがくとゆすられている。  いや、言葉を発せないのではない。  正確に言えば、この状況をほんの少しだけでも緩めることのできる言葉が、どこをどう探しても見つけられないのだ。  誰が見ても、スタジオ練習後の楽しい語らいの場をこんな殺伐とした状況にしてしまったのは僕が酒の勢いのまま発した無責任な言葉のせいだ。  しかしいくら北園に責任を取れと言われても、僕にはその術など見当もつかない。  そうだ。  ああ。  また僕は20年前と同じ、とんでもない選択ミスをしてしまったのだ。  思い出したくない光景が、圧に耐えられなくなった間欠泉のように記憶の割れ目から勢いよく吹き上がってくる。  学園祭のステージで振り返った白い視界の先で、バンドメンバーは誰も僕と目を合わさず、ドラムの恩田を中心にアイコンタクトを取りながら淡々とホテル・カリフォルニアの演奏を続けていた。  4年間の活動を締めくくる最後の最後で弦を切ったせいで演奏をやめてしまった僕が、バンドメンバーたちから呆れられ、見放されたのは、観客を含めた誰の目から見ても間違いなかった。  僕は申し訳なさが先立って打ち上げにも参加せず、そのまま彼らの前から黙って身を引いた。  その後は講義がほとんど修了していたことも手伝って、学園祭のあとはメンバーとはほとんど口をきかずに大学を卒業し、逃げるようにしてこの関東の片田舎に戻って就職した。  僕は面と向かって彼らに頭を下げたのだろうか?  それすら覚えていないほど、学園祭以降の大学生活は記憶が薄れてしまっていた。  当然のように僕はギターを弾くのが怖くなり、それからしばらくの間、音楽というものから意図的に視線を逸らして生きていた。  ……はずだった。  街を歩いていてふと覗き込んだ楽器屋のショーウィンドウに、学生の頃に憧れたメイドインUSAの淡いグリーンのストラトキャスターを見つけるまでは。 「野木さん、タクシー見つけて帰っちゃいました……」  蒲原の落胆した声が、僕の意識を一気に現実に引き戻す。  北園の右手はもう僕の胸元から離れていた。  僕は何かを言おうと口を動かしかけたが、うまくろれつが回らずに意味のない呻き声だけが口からだらしなく漏れた。  くそ、と吐き捨てて、北園が席に戻る。  店長らしき男性は北園が座ったのを確認して、安心したように厨房へと消えた。  周りがさっきまでの和やかな喧騒を取り戻してゆくなか、僕はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。  目の前の席に戻ろうとするが、両足が自分のものではないような感覚に襲われて二歩ほどよろめく。  その身体を蒲原のがっしりとした両手が支えた。 「江田さん、無理して日本酒なんか飲み過ぎちゃダメですよ」  優しく語りかけてくるその言葉に何か答えようとした瞬間、僕の意識は薄れ、世界は一瞬のうちに白一色に染め上がった。  大丈夫ですか? という声、救急車! という怒号、そして背中に走る鈍い衝撃。  色々な感覚がない交ぜになって、不快な白い世界に流れ込んでくる。  やがてその白に明確な濃淡が現れ、それはゆっくりと人や楽器、エフェクター、マーシャルの二段積みアンプの外観へと収斂してゆく。  やめてくれ。  もう音も消えてしまった世界で、彼らはただ互いを真っ直ぐ見つめながら演奏している。  誰もこちらを気にするものはいない。  ……もういいじゃないか。  サイドギターの運指から、演奏しているのがホテル・カリフォルニアだと気付くのに時間はかからなかった。  ……これ以上思い出したくないんだよ。  わずかに残った意識の残滓の中に、歌詞カードで繰り返し見たホテル・カリフォルニアの対訳が浮かび上がる。  やめろ!  君は好きなときに辞めることはできるさ  ただ、ここから二度とは出られないけれど  僕の意識はそこで途切れ、引きずられるように白い闇に飲み込まれた。  最後に認識できた映像の中で、ドラムセット越しに恩田が何かを言いたそうにこちらを見ていた。  その目が、口が、僕が忘れてしまっている何かを訴えているような気がした。  次に目を覚ましたとき、僕は見知らぬ家の朝日が差し込むリビングに置かれたソファーの上に横たわり、柔らかな味噌汁の香りに包まれていた。  ひどい頭痛に顔をしかめたあとに目だけを横の壁へ向けると、そこにはいつもスタジオで見る蒲原のスティックケースが掛けられており、その下には僕のギグバッグが丁寧に立て掛けられていた。  恩田の姿は、もうどこにも映っていなかった。
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