第二章 ブルーの朝

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第二章 ブルーの朝

 見慣れない淡いブルーの天井に、ゆっくりとシーリングファンが回っていた。  壁のスティックケースからここが蒲原の家だということは予想が付くが、絶えず鈍痛がのたうつ今の頭では自分がここにいることについての合理的な説明が浮かばない。  なにより、僕の記憶は野木が店を出ていったあと、北園に胸ぐらを掴まれて詰め寄られたあたりからぶつりと途絶えてしまっている。  残された記憶の最後、北園の目にはうっすらと涙が浮かんでいたような気がするがそれすら定かではない。  僕は曖昧な記憶を少しずつさかのぼろうと試み、しばらくして野木が怒りの滲み出た表情で僕を見下ろしている光景にたどり着いた。  負の感情が混ぜ込まれたその目をはっきりと思い出してしまったせいで僕は思わず固く目を閉じたが、そのはずみでよりいっそう頭痛がひどくなり、思わずうめき声を漏らしてしまった。  そうだ、僕は野木との約束を破って、あいつが前に組んでいたバンドを空中分解させたことを他人の前で口にしてしまったのだ。  でも、なぜだ。  なんで僕はあんなふざけたことを口走ってしまったのだろう?  自問自答の解は、いくらその先を探ろうとしても形の定まらない曖昧なイメージとなって掴もうとする端からふわりと霧散してゆく。  思えば昨日の僕は、どこかおかしかった。  今ならば聡明という状態とはほど遠い、この重だるい頭でもはっきりとそう思える。  しかしあのときの僕は口を誰か他の人間が操っていたという説明がしっくりとくるほどに、思ってもいない台詞が口を突いて次から次へと転がり出てきていた。  いや、あのときだけではない。  僕は人生において似たようなことを何度か繰り返してきたなかで、必要のない敵を増やしたり、必要な仲間を減らしたりしてきている。  こみ上げてくる不快感と申し訳なさに耐えられず僕は体を起こそうとしたが、身体を支える腕にうまく力が入らない。  仕方がないので起き上がることを諦めて身体を半回転させると、落ち着いたグリーンの背もたれが視界のほとんどを覆いつくした。  僕は目を閉じてから昨日、僕が僕でなくなったきっかけを探るべく、先ほどよりも深く記憶をさかのぼることにした。  スタジオでの練習中は特に問題なく、いつも通りに演奏に徹していたことを覚えている。  スタジオを出てから小さなアーケードを四人でそぞろ歩いてなじみの居酒屋へ入るときも、僕は野木とふたりでエリック・クラプトンの運指の素晴らしさについて話をしながら歩いていた。  それから店に入って席に案内されるなり、トミー・ボーリンは自分のアルバムジャケットに漢字で『富墓林』などと書いたから早死にしたんじゃないか、などと謎を解き明かした探偵のような真顔で言う北園に僕たちは腹を抱えて笑ったのだ。  ひとしきり笑ってから僕は、そんなものはシカゴのテリー・キャスが愛用していたからテレキャスターをテレキャスと略すようになったというヨタ話と変わらない、と返したことを覚えている。  あんぐりと口を広げたあと、してやられたといった顔で頭を掻く北園を見ながらもういちどみんなで大笑いしていたあのときまでは、僕は確かにいつも通りの僕だった。  酒席が進み、野木が二杯目のウーロン茶を半分ほど飲んだときは来週末に控えた練習での課題をみんなで話し合っていて、実に和気あいあいとした雰囲気だったはずだ。  「本番まであと2か月か。」  北園の台詞を思い出したとき、ふいに胃の中から猛烈な吐き気がせり上がってきた。  僕は思わず声を上げ、半身をソファーの上に勢いよく起こす。  ぼやけた視界の向こうで、黒いショートカットの女性と目が合った。  「おはようございます。 ああ、起こしてしまいましたか?」  嫌な顔ひとつせず、柔らかな口調で蒲原の細君がキッチンから僕に笑顔を向けていた。  以前に蒲原からスマホで撮ったスナップを見せられてはいたが、細君は髪を短くしたことでその写真の頃よりも美しさが際立だっているように思えた。  その清楚なたたずまいに、僕の吐き気は嘘のように喉の奥へと身をひそめる。  しかし次の瞬間、自分は新婚の家に無粋に転がり込んでいるという目をそむけたくなるような事実を改めて目の前に突き付けられ、ひどくいたたまれない気持ちになった。  いったい僕はこの半日で、どれだけの人間に嫌な思いをさせてしまったのだろう。  激しい自責の念が胃のなかをぐるぐると暴れまわり、嘔吐感の向こうにこのまま消えてしまいたいという欲求が見え隠れする。  「おはようございます。 あの、いきなりお邪魔してしまいこんなこと言うのも申し訳ないのですが、トイレは……。」  細君はエプロンで手を拭きながら、トイレへ案内するためにキッチンからこちらへ向かってくる。  僕はそれを軽く手で制してから、場所だけを聞いて小走りで洗面所の奥にあるトイレへと駆け込み、便座を抱きかかえるようにしてあらん限りの力で吐いた。  呼吸の苦しさで薄らいだ意識のなか、心の奥底に沈んでいた鉛のように重い塊が吐瀉されて下水へと続く渦に溶けていくようなイメージが不意に湧きたつ。  それはぶよぶよと形を変えながら最後は細長い線になって水に呑まれていき、僕の意識から姿を消した。  激しく流れる水の音で現実に引き戻された瞬間、これが僕を昨日からおかしくしていた元凶だ、と直感めいたものが頭を駆け抜け、僕は小さく声を漏らす。  きっと今しがた吐き出した鉛のようなストレスが僕に学園祭で見た白い闇を思い出させ、冷静さを欠いて頼んでしまった日本酒の酒気と混じることで僕をタガの外れたバケモノに変えていったのだろう。  僕は便器から顔を上げ、トイレットペーパーで口をぬぐいながら便座に腰を下ろした。  元をただせば北園の言った、本番、という取り立ててなんの不自然さもない言葉が僕のトラウマを刺激した、たったそれだけのことだった。  しかしわずかそれだけのことで僕は自分を制御できずに野木を傷つけ、温厚な北園を怒らせ、居酒屋にいた人を怯えさせ、蒲原を呆れさせ、あまつさえその細君にまで迷惑をかけてしまっている。  自分はなんと、本当になんと情けない人間なのだ。  脳裏に妻と、今年の春に社会人になった娘が憐れむような目でこちらを見つめる姿が浮かび、僕は胃液と涙で濡れた顔をトイレットペーパーで覆ってしばらくのあいだ声を殺して泣いた。  「ごめん、みんな、本当にごめん……。」  昨日の居酒屋でも、あの学園祭ライブの後ですら出てこなかった、短く、とても大事な言葉が、他人の家の狭いトイレの中で体からあふれ出るように繰り返し繰り返し、止まることなく口からこぼれ出た。  思えば昨夜の僕と、学園祭ライブが終わったときの僕は実に良く似ていた。  小さなことがきっかけとなって焦りが不安に変わり、猜疑心が冷静さを失わせ、言わなくていいことを口から滑らせて敵を作る。  「恩田、お前はプロになるんだろ? こんな下らないミスをした取るに足らない人間なんかに構ってたら、その道も途絶えるんじゃないのか?」  ステージから降りてすぐのテントの中で近寄ってきた恩田に対して、頭の片隅に浮かんだ、ごめん、という言葉の代わりに僕が言い放った台詞が蘇る。  今にして思えば、自分以外のメンバーとアイコンタクトを交わしながらちゃんと曲を成立させた恩田の姿を見ながら、僕は一方的な逆恨みを抱いてしまっていた。  あの台詞のあとの恩田の表情は常にもやがかかったように思い出すことができないが、ミスを謝るでもなく低俗な嫌味を言ってのけた僕を見るその顔は、きっと鬼のような形相だったに違いない。  だから僕は、その顔を見なかったことにしようと記憶の中で恩田の顔にもやをかけ、そのうえ学園祭での失態に始まるすべての出来事に記憶の蓋をしたのだろうと察しがついた。  つくづく、なんと卑怯な人間だろう。  僕は20数年前と何も変わっていない自分という人間の小ささに気づかされ、便座に腰かけたままで涙が止まらなくなった。  トイレの中に、僕の嗚咽と鼻をすする音だけが幾重にも共鳴する。  どれぐらい経ったのか、ドアの向こうから聞こえる細君の、大丈夫ですか、という呼びかけで僕はふと我に返った。  僕は心配をかけまいとできるだけはっきりした声で、大丈夫です、と返してはみたが、おそらく細君にはその情けない鼻声から僕が泣いていたことは否応なしに伝わっていただろう。  僕はしばらく自責の念を噛みしめてから、顔を覆っていたトイレットペーパーをゆっくりと剥がした。  顔から紙が離れるたびに中途半端に乾いた音がして、それが余計に僕を情けなさの渦に引きずり込む。  目尻を指でなぞり、涙が止まっていることを確認してから深呼吸をひとつして、最後にゆっくりと長い息を吐き出し、腰を上げた。  気が付けば、胃も、心も、視界も、そして鈍痛を抱えていた頭までも、まるで悪いものをどこかへすべて吐き出したかのように、僕を苛んでいたものが跡形もなく掻き消えていた。  僕はせめてもの罪滅ぼしにトイレを軽く拭いてからドアを開け、洗面所の鏡に映る自分の姿と相対した。  やつれた顔を浮かべた表情のない男がこちらに無機質な視線を投げてよこしているのを目の当たりにして、僕は思わず笑う。  「情けないなあ、お前は。」  どこか他人事のようにつぶやいてから、僕はいちど強く目尻を抑えた。  もういちど顔を上げた鏡の中には、いつもよく見る、他人に必要以上に気を遣うことで自分の存在を確立させながら生きる男が立っていた。  そいつを睨みつけつつ冷たい水で顔を洗い、目の腫れが治まるまで待ってからリビングへ戻ると、細君が朝食を用意しているところだった。  フライパンの上でこんがりと焼けた鮭の切り身を裏返している細君に僕は深々と頭を下げる。  「本当にすいません、あの、何から謝っていいか分かりませんが、勝手に家に転がり込んでしまったり、トイレにこもったまま出てこなかったり、しまいにはご主人にも迷惑をかけてしまって……。」  細君は大げさに手を振りながら、どうか気にしないでください、と逆に頭を下げ、はっとした様子で口に手を当てる。  「そういえば、ご挨拶がまだでしたね。 夫がいつも本当にお世話になっております。 蒲原公一の妻で、さつきと申します。」  さつきはそう言っておずおずともう一度こうべを垂れた。  僕は自分の頭をいちど思い切り殴りたい衝動を抑えつつ、できるだけ丁寧な言葉を選ぶ。  「こちらこそご挨拶がまだでした。 私は江田秀之と申します。 ご主人……蒲原君にはいつもバンドでお世話になりっぱなしで……。」  そう言いながら僕の脳裏には怒り心頭の野木の肩を押さえながら、必死でなだめようとする蒲原の悲痛な顔が浮かんでいた。  ここで僕は初めて蒲原本人がいないことに気づいたが、きっと昨夜の痛飲に加えて、僕があのような事態を引き起こしてしまったショックのせいでまだ布団から離れられないのだろうと思い至った。  「主人でしたら、もうしばらくしたら戻ってくると思いますよ。」  僕がきょろきょろと周りに目をやる姿でそれを敏感に察知したさつきが、ダイニングテーブルに案内するように手を動かしながらこちらへ笑顔を向ける。  僕はさつきの鋭い洞察力よりも、蒲原がとうの昔に活動を開始していたことに驚きを隠せなかった。  「え、こんな朝早くから出かけているんですか? まだ6時半過ぎなのに?」  テーブルの向かいに座ったさつきが僕の顔を見ながら面白そうに笑う。  「ええ、6時には家を出て、ジョギングに行きましたよ。 精神科医とはいえ医者の資本は体力だ、なんて言って、毎日1時間ほど走っているんです。 ああいうストイックなところが不器用でもあり、まあ、魅力でもあるんですけどね。」  新婚らしく言葉の端にのろけが含まれていることなどはお構いなしといった様子で、さつきはテーブルに置かれたポットから冷たい麦茶を注いでくれた。  「でもね、もしかしたら江田さんも主人から聞いたことがあるかもしれないですけど、あの人、そのストイックさのせいで今でも苦しんでいることがあるんですよね。」  そう言ってすこし遠くを見つめるようなさつきの目には、風向きによっては涙に変わりそうな儚さが湛えられていた。  「蒲原君が苦しんでいる? 私にはそんな話をしてくれたことはないかもしれないなあ。」  僕の言葉に、さつきが意外といった表情を浮かべる。  「ああ、そうなんですね、いつも主人が江田さんは信用できる方だと言っていましたので、てっきり……。」  不思議そうに眉を動かすさつきの口から思いもよらず嬉しい言葉が聞こえたが、僕は反射的に跳ね上がりそうになる口角をなんとか押さえ込む。  いや、待てよ。  脳裏にいつも練習後に見せる蒲原の姿が浮かぶ。  「私はまだ彼からその話を聞いていないですが、もしかしてそれはドラムの技術に関してのことではないですか?」  僕は蒲原がスタジオ練習のとき、誰の目から見ても完璧と思えるプレイをしたあとでさえ納得のいかない顔で何度もスネアを叩きながら独り言を言っていることに思い当たっていた。  あるときそれがあまりに気になった僕が、いったい今日の演奏の何がまずかったのかと聞いたとき、個人の情けない問題ですから、と曖昧に笑ってごまかされたことがあった。  察するに、蒲原は自分の演奏技術に自信がなく、それを克服する方法にまだたどり着けていないのだろう、というのが、蒲原が時折見せる苦悩に対しての僕なりの結論だった。  「あの……、よろしければ、主人は練習のときどんな様子なのか教えていただけませんか?」  そう言ってさつきはすがるような目で僕を見つめてきた。  僕が包み隠さずに蒲原の様子を伝えると、さつきはため息とともに肩を落とした。  「あー、やっぱりまだ引きずっていたかあ。 もういい加減忘れてしまえばいいのに。」  僕は麦茶に伸ばしかけた手を止め、どうしていいか分からないまま少しの時間が過ぎた。  さつきはゆっくりと顔を上げると、僕に向き直って言葉を続けた。  「あの人、ああ見えてすごく負けん気が強い人で、誰よりも努力をしていないと不安になるらしいんです。 それで大学に通っていた頃にプロに弟子入りをしようとしたんですけど、その試験で徹底的にだめな部分を指摘されてしまったらしくて。 それまでは周りの仲間からもプロになれるレベルだ、などと言われていたらしく、そのプロから徹底的に否定されたことが相当ショックだったようで……。」  僕自身にそこまでの経験はないが、そのときの蒲原の悲痛な気持ちは痛いほど理解できた。  自分が自信を持っていたものを跡形もなく壊されてゆくその姿を黙って見ていなければいけなかった心の痛みは、いったいどれほどのものだろう。  ほんの少し想像しただけで身震いしそうな恐怖が湧き上がった。  しかしおそらく蒲原がダメ出しをされたのには、明確な理由がある。  それは時折見せる蒲原の悪いクセにも通じる部分だ。  蒲原は曲の合間に、本人はおそらく意識していないだろうが持てる技術をフル活用したプレイを鼻歌でも歌うかのように僕たちに披露する。  スネアのダブルストロークやトリプルストロークにはじまり、やがてパラディドルでエンジンがかかり、細かなハイハットワークを織り交ぜつつドラムソロは続く。  そのショーのあいだ僕たちはチューニングやエフェクターの調整に勤しむのだが、ドラムの音が邪魔して作業がうまく進まないことがよくあった。  そのときは北園が、うるせえよ、と一喝することで音が止み、蒲原が申し訳なさそうに舌を出して終わるのが常だったが、僕にとってそのショーは、蒲原が無意識のうちに自らの技量の高さを見せつけるために自分を演出する独り舞台のように思えていた。  「プロからのダメ出しですか。 ……ご主人は、天狗になっていたのかもしれないですね。」  蒲原のショーを思い浮かべながら思わず口の外に出てしまった言葉を、僕は慌てて否定しようと口をまごつかせる。  また余計なことを言ってしまった、と後悔の念が押し寄せるなか、目を丸くするさつきの口から意外な言葉が漏れた。  「ありがとうございます。」  一瞬ののち、僕は自分の耳を疑った。  いま確かにさつきは、自分の伴侶をけなした僕に向かってありがとうと言った。  ほんのわずかな時間ではあったが、僕の頭の中でさまざまな妄想と推論が激しくぶつかり合い、それは実に間の抜けた、へ? という言葉となって口から吐き出される。  へ? とは、我ながらなんと情けない言葉だろう。  思わず自分の言葉に脱力して笑うと、さつきもそれにつられて笑い出した。  本当に楽しそうに笑う人だ、と素直に思えるほどにその笑顔には屈託がなく、蒲原はこの笑顔に惹かれて結婚したのではないかとさえ思えた。  しばらく口に手を当てて笑ってから、さつきは窓の外に目をやって小さくため息をついた。  「笑ってしまってごめんなさい。 江田さんがあまりに驚いた顔をしていらしたので、つい。」  さつきは麦茶をひとくち飲んでから続けた。  「天狗……、そうですね、周りにもてはやされてきっと過度な自信を持ってしまったんだと思います。 本人もあの頃の自分は勘違いをしていたと言っていましたから。 でもここまで他の人にはっきりと言われたことは、おそらくそのプロの方以外にはないと思いますけどね。」  そう言ってからこちらを見て微笑むその笑顔に、僕の胸はちくりと痛んだ。  「いや、でも蒲原君は実際のところ私たちの中では何をやらせても群を抜いて上手いですからね。 ギターだって本業の僕や野木よりも上手いんじゃないかと思いますし。 私だったらもう間違いなく天狗になっていると断言できます。」  僕が胸を張ってそう言うと、さつきは先ほどとは違い、声を上げて笑ってくれた。  「それ、絶対に主人には言わないでくださいね? 僕は上手いんだー、なんて調子に乗っちゃったら、きっと皆さんに迷惑がかかっちゃうので。」  僕が曖昧な微笑みを返してようやく麦茶に手を伸ばしたとき、玄関の開く音が聞こえた。  「あ、帰ってきたみたいです。」  そう言っていそいそとさつきは玄関へ向かう。  「お帰り。 江田さん、とっくに起きてあなたのこと待ってたのよ。」  「ああ、そりゃ悪いことをした。 江田さん、おはようございます! 汗をかいちゃったので、ちょっとシャワー浴びてきます! 5分で戻りますんで!」  玄関へと続く扉の向こうから蒲原の声だけが聞こえ、僕が挨拶を返すよりも早く洗面所のドアが閉まる音が響いた。  さつきが扉から出てきて申し訳なさそうに頭を下げ、リビングの収納からバスタオルを持ってもういちど扉の向こうへと消えた。  本当に仲のいい夫婦だな。  朝から良い光景を見せられた気持ちになった僕は、ついさっきまで情けなさに嗚咽を漏らしていた自分と対比してしまい、思わず顔をしかめた。  僕にも蒲原のようなさわやかに前を向く心があったらどれだけ違う人生を歩めただろう。  そんなことを考えながら僕は、ぬるくなり始めた麦茶を一気にあおった。  それからちょうど5分後、蒲原は頭に薄いブルーのタオルを巻いて扉から顔を出した。  「すいません、お待たせしてしまって。 正直、あれだけぐでんぐでんに酔っていたら、しばらくは起きてこないだろうと思っていました。」  そう言ってさつきの隣に腰を下ろした蒲原に謝罪の言葉をかけるタイミングを逸するのと同時に、僕はひどく恥ずかしさを覚えた。  「え、そんなにひどい状態だったのか……?」  そう言う僕の顔をまじまじと見つめてから、蒲原は合点が行ったように、ぽん、とひとつ手を打った。  「全然覚えていないんですね? 涙ながらに野木さんに謝っていたこと。」  「え、泣いていたのか?」  蒲原が言い終わる前に僕は喰いつくように質問を浴びせると、さつきは僕から目をそらして下を向いた。  「泣いても何も、本当に後悔しているように見えましたよ。 なあ、お前も見ただろ?」  そう言って蒲原が顔を向けた先で、さつきは遠慮がちにこくりと頷いた。  なんということだ、僕は醜態を見られた相手と何の気なしに笑いながら話をしていたというのか。  耐え切れないほどの羞恥心がめきめきと肋骨を広げるように心の中で広がってゆくのが手に取るように分かったが、僕はどうすることもできずに、ただひとこと、申し訳ない、とつぶやくにとどまった。  深く下げた僕の頭に、蒲原とさつきの、気にしないでください、という声がユニゾンで響く。  「正直、嬉しかったんですよ。 人間は酔っているときや寝ているときは脳の管制がゆるくなって、普段隠している本音が出やすくなるんです。 だから江田さんがあれだけ酔った状態で野木さんに対して謝ったってことは、ゆうべの江田さんの言葉は本音じゃないってことが分かったので。」  そう言ってから蒲原が麦茶をひと息に飲み干すと、さつきが僕のグラスと蒲原のグラスにお代わりを注いでから席を立った。  「なるほどー、そうかあ。 だから寝言でよく、もう調子に乗りません、絶対に上手くなりますから弟子にして下さい、って言ってるのかあ。」  さつきがキッチンに向かいながらさらりと口にした瞬間、蒲原が口をつけたグラスから麦茶がこぼれた。  「え、嘘でしょ、そんなこと寝言で言ってるの? ねえ、ちょっとってば!」  さつきは背中越しに顔だけをこちらに向け、にやりと含みを持たせた笑顔を見せた。  「うわあ、マジかあ。 僕、そんな恥ずかしいこと言ってたのかあ……。」  蒲原は両手で頭を抱え、そのままテーブルに肘をついた。  実に長いため息のあとで顔を上げた蒲原は、苦虫を噛み潰したような顔でゆっくりと口を開いた。  「いやあ、実はですね、学生の頃にプロのドラマーを目指した時期があって、それで知り合いの伝手を辿ってプロのスタジオミュージシャンに弟子入りしようとしたことがあるんですよ。 でも僕のドラムをけちょんけちょんに否定されて部屋を追い出されて……。」  ああ、さっき聞いた。  思わずそう口にしそうになったが、それを言ってしまったあとの落ち込み具合を想像すると、とてもではないが軽々しく口には出せなかった。  蒲原はあくまで『何も知らない』僕に話を続ける。  「それで、何が悪かったんですか、って聞いたら、お前自身と、お前をもてはやした人間すべてだ、って言われたんですよ。 そりゃあもうショックでしたね。 ドラムのことだけ言われたんなら上手くなりようもあるのに、人間性と仲間にまでダメ出しを受けたら、僕という人間を根本から否定されたことになりますから。」  僕の視線の先で、蒲原の顔にはありありと分かる苦痛が張り付いていた。  それでも蒲原はまるで嫌なものを吐き出すように言葉を続ける。  「で、悔しくなって、ずっと外で待ったんですよ。 6時間。」  「6時間!」  声が裏返った僕を見て、蒲原が楽しそうに笑った。 「そう、6時間です。 しかも2月。 寒いのなんのって。 でも僕がいないときに帰られたらまずいんで、コンビニにも行かずにすぐ横にあった自販機のホットコーヒーだけでしのいだんです。 馬鹿みたいでしょう?」  蒲原もさつきと同じく、笑うと本当に楽しそうな顔になる。  それを見ているだけでこちらが幸せになれる顔というのは得だな、と僕は素直に羨ましく思った。  「それで? 結局そのプロの人とは会えたのか?」  僕は話の続きが気になって仕方がなかった。  「ええ、きっちり6時間後に会えましたよ。 夜の10時でした。」  思わず、うわあ、と声を漏らした僕の視線の先で、蒲原はけらけらと笑っている。  「待っている間、時間だけはあったんでずっと考えていたんですよね。 僕と僕の周りの人たちのこと。 そこで気づいたのが、僕はセンスがあると思い込んで、基礎を全然やってこなかったってことです。 しかもかっこいい、要は魅せるドラムにこだわってしまって、バンド全体のことなんて考えてなかったんですよ。 もう恥ずかしいやら悔しいやらで、それに気づいたときは正直、途中で帰ろうかと思いました。」  ふと遠くを見る目になった蒲原は、それでもどこか楽しそうに続けた。  「で、6時間経って出てきた先生が僕を見つけてぎょっとした顔をして、まだいたのか小僧、って。 でもね、そのとき僕の足元に転がっている10本近いコーヒーの空き缶を数えて、初めて笑ってくれたんですよ。」  蒲原の表情はめまぐるしく変わり、最後は、ぱあっ、と子供のように無邪気な顔になった。  「それで、コーヒーばっかじゃ腹減っただろ、ラーメン食いに行くぞ、って。 そのとき、何だか分からないけど僕、泣いちゃって。 先生に恥ずかしいからやめろって言われても、もう涙が止まらなくて。 そのときに僕が言ったのが、さっきの台詞なんです。」  全く意図せずに僕の口から、ああ、と声が漏れた。  蒲原は頭に巻いたタオルで坊主頭をわしゃわしゃと撫でると、バスケットのシュートを真似て丸めたタオルを部屋の隅にある洗濯かごに見事に投げ入れた。  「ナイッシュウ!」  小気味良い口笛のあと、朝食の乗ったトレーを運んできたさつきが蒲原に微笑んだ。  「見た? 今の見た? 一発で入ったんだぜ? 褒めて褒めて!」  目を子犬のように輝かせながら、蒲原はさつきを真っすぐに見つめている。  さつきはテーブルに味噌汁とご飯を並べ終わると、よしよし、と蒲原の頭を撫でた。  さりさりと髪と手がこすれる音を聞きながら、ふたりの仲睦まじい姿を眺めていた僕の目を蒲原がまじまじと見つめてきた。  「で、続きなんですけどね。」  僕の気持ちを読んでいたかのように蒲原は話を続けてくれた。  「ラーメン屋で僕が6時間かけてたどり着いた答えを聞いてもらったら、先生は、そうだ、と言ってくれたんです。 それでそのあと、もういちどスタジオに戻って先生が目の前でドラムを叩いてくれたんですよね。 もうね、別次元でした。 音がまるで違うんですよ。 それで先生が言ったのは、しっかり練習した上で自信やプライドを持つのはいいが、今持っている驕りは捨てて、ちゃんとした音を出すところからやり直せ、でした。」  そう言って腕を組んだ蒲原は、深く目を閉じて言葉を繋ぐ。  「先生はそう言ってから、何も言わずにエイトビートを叩いたんです。 ズッ、タン、ズ、ズ、タン、ズッ、タズッ、ズ、タン。 単調なリズムだけど、本当に丁寧な音で。 その音は今でもずっと耳に残っていて、それに少しでも近づけたくて僕は今もスタジオに入る前にイメトレを続けているんですよね。」  そうか、と僕は合点が行った。  確かに蒲原は誰よりも早くスタジオに行き、待合室でエア・ドラムのスティックを振っている。  身体を温めているだけかと思ったが、あの行動にはそういう意味があったのかと今さらながら蒲原のストイックさに頭が下がる思いだった。  そしてそのストイックさゆえに蒲原はその先生と呼ばれるプロの幻を追い続け、いまだに夢にまで見てしまうほどなのだ。  趣味の延長だと思っていたアマチュアバンドでもこれほど志の高い人間が多く存在するのか、それとも楽しく弾ければいいという自分の志が低いだけなのか、僕は急に不安になって窓の外を見た。  「それがきっかけでジャムセッションのオカズを減らしたんだっけ? 天才ドラマーさん。」  さつきがいたずらっぽい笑顔を浮かべたままうっすらと美味そうな焦げ目のついた鮭の切り身と、ほのかに湯気の立つだし巻き卵を僕の前に置いてくれた。  僕は礼を言いつつそれを受け取りながら、思わずさつきに質問した。  「オカズなんて言葉を知っているということは、奥さんもドラムをやられていたんですか?」  その問いにさつきは照れたように笑い、蒲原が答えを補った。  「同じ大学の違う学部だったんです。 付き合い始めたときにドラムを教えて欲しいと言われて、調子に乗っていた僕は得意になって基礎よりも前にいくつかカッコいいオカズ、いや、フィルインを教えたんです。」  フィルイン。  僕はその言葉に聞き覚えがあった。  大学の頃、恩田がよくジャムセッションで披露していた。  そのしなるような見事な手さばきでタムを連打する恩田のテクニックを見ながらクリームのジャムセッションを真似たのは、今になっては懐かしい思い出だ。  しかし恩田はテクニックを褒めると決まってがっかりした表情を浮かべて、俺が本当に褒められたいのはそこじゃないんだよなあ、と苦笑いをしていた。  今の蒲原の話を聞いていて、きっと恩田はバンドのリズムを狂わせないためのスネアの張りのある音や、バスドラムの鋭く突き上げる音を褒めてほしかったのだろうと理解できたような気がした。  しかし当時の僕たちはそれを評することができるほど耳は肥えておらず、おそらく恩田はそんな僕たちに対してヤキモキとした気持ちを抱いていたのだろうと思う。  僕は恩田の張りのあるドラムの音がふと聞きたくなり、僅かな感傷が心を引っ掻いた。  思い出にふけっている僕に、さつきが申し訳なさそうに声をかける。  「あの、冷めてしまいますので、どうぞ。」  さつきが小首をかしげて朝食を手で指しており、僕は慌てて手を合わせる。  淡い黄色に輝くだし巻き卵に箸を入れると、何の抵抗もなく、するり、とふたつに切れた。  箸の上でふるふると震えるそれをほおばった口の中に、卵の上品な甘みとだしの香りが花開く。  続けざまに箸を入れた炊き立ての白米は粒が立ち、ほのかな米の香りが鼻腔を柔らかく刺激する。  「ずいぶん飲まれたようですので、今朝はしじみの味噌汁にしたんです。」  僕が汁椀を持ったタイミングでさつきが口を開いた。  「しじみは二日酔いに効きますよ。 スタジオ練習の次の日の朝は、必ずこれですね。」  そう言いながら蒲原が美味そうに味噌汁をすする。  僕もそれに倣って口に含むと、染み渡る、という表現がぴたりと当てはまるような柔らかな口当たりとしじみの風味が舌を満たしてから、喉の奥にゆっくりと落ちていった。  「いやあ、これは美味しい。 まさか飲んだ後のしじみ汁がこんなに美味いものだとは思いませんでした。 身体が欲していたような、まさにそんな感じですよ。」  僕がひといきに半分以上飲み終えた汁椀をさつきが手で指し、もう一杯お持ちしましょうかと聞いてくる。  遠慮しつつも僕は素直にその好意に甘え、二杯目のしじみ汁も美味しく完食させてもらった。  大満足のまま朝食を終えた僕のグラスに、蒲原が麦茶を注いでくれた。  その向こうでさつきは鼻歌まじりに食器を洗っている。  「いやあ、本当に美味かった。 改めてご馳走になりました。」  僕が頭を下げるのを蒲原が制し、逆に頭を下げられた。  「感謝しているのはこっちです。 鼻歌が聞こえるでしょう? あれって最高に機嫌がいいサインなんですよ。 江田さんが美味しい美味しいって朝ごはんを褒めちぎってくれたのが嬉しかったみたいで。 これであいつはしばらくご機嫌なままですよ。 本当にありがとうございました。」  蒲原はそう言ってから、空になっていたさつきのグラスに麦茶を半分ほど注いだ。  「ところで江田さん、このあと時間ってありますか?」  蒲原が時計と僕の顔を見比べながら聞いてくる。  今日は土曜日で仕事も休みのため予定はなかったが、蒲原からバンド以外のことで誘われるのは初めての経験だったため少し驚いた。  「時間はあるけれど、その前に嫁に電話しないとまずいかな。」  僕は胸ポケットからスマホを取り出すと、着信履歴を表示させた。  そこにはたった一件、昨夜11時過ぎに、嫁からの「先に寝ますのでごゆっくり」という短いメッセージがあるのみだった。  僕はその画面を蒲原に見せながら  「子供が巣立った夫婦なんてこんなもんさ。 いいか、今から20年後にこうならないように、ちゃんと嫁さんと仲良くしておけよ?」  そう言ってできるだけ笑顔に近い表情を浮かべたつもりだったが、蒲原に、ちゃんと笑えてないですよ、と一蹴されてしまった。  「でも、江田さんとこはまだましですよ。」  両の頬をマッサージしている僕に蒲原が意外なことを言った。  「うちなんて、僕が夜遅くなったりしてもメッセージも電話も寄こさないですもん。」  「なんだよ、それだけ信頼されてんだからいいじゃないか。 のろけか?」  僕が間髪を入れずに返した言葉に蒲原が小さくかぶりを振り、声をひそめる。  「そのかわり、朝起きても、どれだけ僕が機嫌を取っても、あいつの中で怒りが消化されるまでは絶対に口をきいてくれなくなるんですよ。」  「聞こえてるよお。」  蒲原の、ひいい、という声がリビングに響いた。
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