第三章 鈍色の棘

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第三章 鈍色の棘

 僕が嫁に電話をして、蒲原の家に泊まらせてもらったこと、夕方までに帰ること、それに加えてこの時間まで連絡しなかったことに対する侘びを伝えたあと、蒲原は僕をリビングの奥にあるドアへと誘った。  リビングの壁面に沿って続く廊下を渡った先にあるドアに蒲原が鍵を差し込むと、がちゃり、という鈍い音がした。  開いたドアの向こうは大きめの窓から朝日が燦々と差し込む12畳ほどの空間になっていて、部屋の中央には6人掛けのテーブルと椅子、壁際には冷蔵庫や電子レンジとテレビが置かれている。  テレビと反対側の壁には、蒲原のものと思われる小さなデスクと医学書の詰まった書棚が鎮座していた。 「ここが従業員の休憩室です。 まあ、看護師は嫁さんのほかにふたりと事務がふたりの小所帯なんですけどね。」  そう言いながら蒲原は部屋を横切り、今入ってきたのとちょうど向かいにあるドアを開けてから、壁の裏にある照明のスイッチを入れた。 「どうぞこちらへ。」  促されるままドアをくぐると、そこは予想どおりに診察室だった。  蒲原はドアの前にある大きめの黒い机の脇に立ち、机を挟んだ高い背もたれの椅子に僕を案内した。  僕が座ったのを確認すると蒲原はゆっくりと席につき、両手を机についた楽な姿勢のまま穏やかな笑顔をこちらへ向ける。 「こうしてここに座ると、なんだか医者みたいでしょう?」  そう言ってにやりと口角を上げる蒲原に、僕はついつい笑ってしまった。 「医者みたいもなにも、お前さんは立派な精神科医じゃないか。 『かんばらこころのクリニック』の先生はいい医者だってもっぱらの評判だ。」 「いやいや、そんなものはただの噂で、本当は人の弱みに付け込んで高額な料金を請求する悪徳医者かもしれないですよ?」 「よく言うよ。 そんな性格のねじ曲がった悪徳医者が、あんなに必死な顔して僕と野木の仲裁に入ってくれるかよ。」  そう口にして、僕は蒲原に大切なことを言い忘れていることに気づいた。 「蒲原、遅くなってしまったけど、ちゃんと言わせてくれ。 昨日は申し訳なかった。 そして、今朝のことも含め、あんなことをしてしまった僕を見捨てずに、ちゃんとひとりの人間として扱ってくれて本当にありがとうございました。」  両手を深く畳んで頭を下げた僕に、蒲原の優しい声がかかる。 「僕は江田さんのそういう大人なところが好きだから、一緒に音楽をやっていて楽しいと思えるんです。 僕なんかまだガキみたいなものですから、たまに北園さんや野木さん、江田さんが互いのミスや認識の違いについて素直に謝ったりしている姿を見て、羨ましいと思うことがあるんですよね。」  僕はその言葉が少しばかり意外だった。 いちばん年下なのに明るく振る舞いながらムードメーカーとなり、各パートのミスやズレに対して冷静に的確な指示を出してくれる蒲原こそが、リタイアーズのなかで最も大人なのだという認識をみんなが持っているものだと思っていたためだ。 「僕は、ちゃんと年上に対しても指摘ができる大人だと思って感心していたけどなあ。」  素直に思ったことを口にしたつもりだったが、蒲原の顔がわずかに曇った。 「僕だって、けっこう気を遣ってますよ。 気分を悪くされたらどうしよう、とか、それを言ってギスギスしたら困るなあ、とか。 でも皆さんは僕みたいな奴の言葉にもちゃんと耳を傾けてくれますよね。 それこそ大人でなきゃあできないですよ。」 「そんなもんかねえ。 僕らはそういうことの積み重ねで少しずつバンドとして上手くなってきたし、いい音も出るようになってきた。 それもみんな蒲原のおかげだと思ってるさ。」  蒲原は照れたように頭を掻いてから真顔になった。 「そう言ってもらえるのは嬉しいですね。 ……じゃあ僕からのお願い、ひとつ聞いてくれますか?」  僕は少しだけ身構えたが、蒲原は相変わらず楽な姿勢を保ったままこちらを見ている。 「野木さんと、それから北園さんに誠心誠意、謝ってください。 それができないと、リタイアーズはもう終わりだと思います。」  口調と話の重さが驚くほど反比例していた。 「僕は江田さんが後悔している姿をこれ以上見ていたくない。 それに野木さんも北園さんも、昨日は感情やお酒が背中を押したせいであんなことを言っただけだっていうのは、僕の方が江田さんよりも彼らとの付き合いが長いのでよく分かっています。 ですが、昨日の件に関してはお酒もですが江田さんが自分を制御できなかったことがいちばん悪い。 その点は……認めていますよね?」  僕は目を逸らしそうになるのを懸命に堪えながら強く頷いた。  それを確認した蒲原の顔に柔和さが戻る。 「良かった。 やっぱり江田さんを無理やりにでも家に泊まらせた甲斐がありました。 では今日、一緒にふたりのところへ行って謝りましょう。」  若いのになんと温かく、それでいてしっかりとした人間なのだろう、この蒲原という男は。  僕は自分の小ささを実感するとともに、蒲原が楽しいと言ってやまないリタイアーズを解散させてはいけないという強い思いが芽生えるのが分かった。 「ありがとう。 何から何まで世話になってしまって本当に申し訳ない。 僕もリタイアーズを解散なんてさせたくないのは同じだ。 どうか僕の謝罪を手伝ってほしい。」  真っすぐに蒲原の目を見ながらそう伝えると、その目が不意に細くなった。 「大丈夫ですよ。 きっとあの二人だって本気で怒ったわけではないでしょうから。 大切なのは江田さんが誠意を見せる、たったそれだけのことですよ。」  僕はいちど頭を下げてから、淡いグレーの天井を見上げて溜まった息を吐いた。 「なんか、ようやく胸のつかえが取れたような気がするよ。」 「そう言ってもらえれば嬉しいです。 ところで、本題に入りますけどいいですか?」  僕は思わず視線を戻し、できる限り姿勢を正す。 「まあ、そんなに硬くならないで聞いて下さい。昨日の江田さんを見ていて感じたことがあります。もしかして、と思ったので少し話を聞きたいのですが、いいですか?」  頷く僕に蒲原が続ける。 「まあ、無料のカウンセリングみたいなものですので、ちょっとだけ付き合ってください。」  僕に断るという選択肢は存在しなかった。  それでもわずかな猜疑心が心をよぎった僕が曖昧に首を縦に振ると、蒲原はゆっくりと口を開いた。 「そうですねえ。まずはじめに、今まで心療内科に通ったことはありますか?」  僕はかぶりを振った。  テンポよく質問が続く。 「次に、自分は他の人とはどこか違うかも、と思ったことはありますか?」  少し考えてから、まあ……たまに、と答える。 「なるほど。 どういったときにそう思いますか?」  おそらく真っ先に頭に浮かんだ答えが蒲原の求めるものだと予想がつき、思わず沈黙してしまった。  僕は口を開く覚悟を決めるためにじゅうぶんな間を空けてから、大きく息を吸った。 「昨日、野木にあんなことを言っていたときの自分はおかしい、とはっきり思う。 僕は昔から感情が恐怖で染まったとき、目の前に白いもやがかかったようになって行動を制御できなくなるときがある。 なあ蒲原、これは何かの病気なのか?」  僕が言い終わるのと同時に、蒲原がゆっくりと目を閉じた。  静寂のなかで、壁の秒針の音だけが規則的に時を刻んでいる。 「病気という言葉は使いたくありませんし、今の時点でそれを判断するわけにはいきませんよ。 そして、なるほど……恐怖ですか、うん。 では無理をしなくていいですから、昨日の夜、あの居酒屋で何に恐怖を感じたか、教えてもらえますか?」  蒲原の優しい口調が少しずつ僕の心を解きほぐしていくのが分かったが、緊張のせいか僕の呼吸はいつもより少し荒くなっていた。  先ほどよりもずいぶんと長い時間をかけて言葉を選んだが、蒲原は黙ったまま僕の口が動くのを待ってくれている。  北園の言った、本番、という言葉が緊張とともに恐ろしく感じた、と言ってしまえば、きっと学園祭での出来事も洗いざらい話すことになるだろう。  つまりそれは、あのとき他のメンバーの演奏が恩田を中心に今までにないほど完成されていたことや、誰も自分のことを見ていなかったこと、そしてライブが終わったあとで僕が恩田に吐いてしまった最悪の言葉まで、すべての恥部やトラウマをつまびらかにしなければいけないということになる。  僕のちっぽけな自尊心が、羞恥心が、果たしてそれに耐えられるのだろうか。  僕は奥歯を鳴らしながら、しばらくのあいだ目を閉じて葛藤と戦った。  時間が経つにつれてその葛藤の正体が、自分の本心を認めたくない一心で生み出された、実に情けない虚像であることがうっすらと自覚できた。  僕の本心は、蓋を開けてみれば実に単純なものだ。  きっといちど堰が切られれば、今まで誰にも言ってこなかった心の底に溜まった後悔を、まだ出会ってたかだか半年の、僕よりも15歳も年下の男に一気に話してしまうことになるだろう。  いや、年下だとか、会って半年とかではないのだ。  大事なのは、そこではない。  僕は目を開け、姿勢を正した。  僕はずっと、情けない自分が犯してしまった愚かな話を、信頼できる誰かに聞いてほしかったのだ。  心に深く刺さった鈍色の恐怖に染まった棘を、誰かに抜き去って貰いたかったのだ。  僕は自分の呼吸が少しずつ落ち着いてゆくのが分かった。  どれだけ時間が過ぎたのか定かではなかったが、呼吸の落ち着きとともに僕のなかでようやく過去の自分と向き合う覚悟ができつつあった。  膝の上で閉じられた両拳に力が入る。  そのとき、僕の変化を見透かしたように蒲原がひとつ頷き、それをきっかけにして僕の口はたどたどしく動きはじめた。  今まで誰の耳にも入れてこなかった、僕を構成する最も苦い記憶を体の外へと解放するために。  長い時間をかけ、僕は学園祭にはじまり、恩田へ吐いた暴言のこと、会社でミスをしたときなどに恐怖に耐え切れず制御不能な感情に陥ったことなど、思い出したくもない記憶を次から次へと口にした。  ずいぶんと時間が経つのが遅く感じたが、話しはじめてからしばらくした頃、ひとつなにかを吐き出すごとに心が軽くなっていくのが感覚的に分かった。  同時に、今まで人生の中で感じてきたものとはまったく異質な快楽が脊髄と脳のあいだを激しく何度も行き交い、心と身体がぶるぶると揺さぶられるような感覚に身もだえた。  僕はその快楽が今まで抑圧してきた自分の記憶が浄化されてゆく解放感であるということに気付き、その感覚を求めて次から次へと思い出せる限りの恥や後悔を蒲原に向けて吐き出し続けた。  どれほど経った頃からだろう。  気が付けば僕の頬にはいく筋もの涙が流れていた。 僕はそれすら構わず、今まで心の内側に鍵をかけて閉じ込めていた恥部を余すことなく口にした。  途中で時系列が乱れたり、感情的な物言いになったり、細かい部分を飛ばしたりと、回顧録としては落第点を貰っても仕方ないような内容だったが、僕の口はおよそ一時間にわたって止まることなく動き続けた。  蒲原は話の途中で何度か驚いたような顔を浮かべることがあったが、それでも最後までただ頷きながら、あちこちへと散らばる話を真摯に聞いてくれていた。  やがて吐き出し続けた記憶の澱みが底をつきはじめると、今度はそれと入れ替わるようにして新鮮な空気で体が満たされてゆくような不思議な充足感が僕を包み込んでゆく。  きっとこれがカウンセリングの持つ効果なのだろうな、とぼんやり認識する僕の口は、意識とは少しだけ離れた場所で滑らかに動きながら残った澱みを最後まで吐き出し続けた。  やがてすべてを話し終わった僕が虚脱感と心地よい疲労に包まれながらうなだれていると、蒲原の長い吐息が聞こえた。 「江田さん、ありがとうございました。 ……ありのままを話し終えた今の気分はどうですか?」  僕はゆっくりと顔を上げ、いちど伸びをしてから大きく息を吸った。  呼吸器を通して曇りのない空気が肺を満たしてゆく感覚をじゅうぶんに味わい、もったいぶるようにゆっくりと息を吐き出してから顔を蒲原に向けた。 「うん、すごく晴れやかな気分だ。 こんな感じは生まれて初めてだと思う。 僕は今までずっとひとりで過去を抱えて、無理をしてきたんだというのが分かったような気がするよ。 ありがとう。」  僕は真っすぐ蒲原に向き直って、ゆっくりと頭を下げた。 「……よく、ぜんぶ話してくれましたね、江田さん。 今まで、本当に辛かったですね。 でも大丈夫ですよ。 話してくれたおかげでその苦しみを僕も共有できましたから。 それに……江田さんを苛むものの正体が分かりました。」  僕はその言葉に思わず身を乗り出した。 「江田さんの心を苦しめていたもの、それは実体のない、トリガー・ポイントと呼ばれるものです。」  聞いたことのない単語に充足感がわずかに薄れ、頭の中でざわざわと波が起こる。 「トリガー・ポイント?」  僕のオウム返しに蒲原は優しく微笑んだ。 「トリガー・ポイントは医療用語ですが、本来は精神医学には用いられない言葉です。」 蒲原はさらりと口にしたが、医学の道を志した経験のない僕にとっては難しい話になりそうで思わず肩に力が入った。 「ああ、別に緊張しなくていいですよ。 要は肩こりのひどいものだと思ってもらえればいいんです。」  そう言って蒲原は右手で自分の左肩をぐい、と押した。  つられて僕も肩を押すと、いつもの鈍痛がじわりと広がって思わず眉間に皺が寄った。  蒲原はそれを見逃さずに僕の左肩を指さす。 「いま痛そうな顔をしたということは、江田さん、肩こりに悩まされていますか?」  蒲原が僕の肩を指したまま尋ねる。 「ああ、そうそう。 デスクワークが多いからどうしても肩がこってな。 マッサージしたりシップを貼ったりしても痛みが取れなくて困っているんだ。」 「まさにそれがトリガー・ポイントです。 その痛みが心にもできてしまうことがあるんです。」  蒲原が淀みなく言ってのけた言葉に、僕は首をかしげることしかできなかった。 「肩がこると痛いからマッサージをして、ひどいときは一日に何度も揉んだりしますよね。 そうするとその場所から痛みの信号が何度も脳に送られます。 脳はしつこく同じ場所から痛みの信号が送られてくるものだから、そこはずっと痛い場所だと誤解してしまい、勝手に『ここはずっと痛い』という目印を付けてしまうんです。」  僕は蒲原の言葉に素直に頷いた。 「だから仮に血流が良くなって肩こりが解消されても、脳はずっとその場所が痛いと認識し続けるんです。 それが痛みのトリガー、つまり引き金となって、実際は痛くないのにも関わらず慢性的な肩こりによる痛みだと思ってしまうんですよ。」  実に理解しやすい説明に、僕は心から蒲原の知性の高さを実感せざるを得なかった。  蒲原の説明は続く。 「さっきも言ったとおり、この言葉は精神医学では基本的に使いません。 ですが僕は患者さんが過去に抱えたトラウマが原因で苦しんでいて、なおかつその原因が取るに足らないものだと判断した場合、まずはこのトリガー・ポイントの説明をしてあげるんです。」  そこでひと呼吸ぶんの間を空けてから、蒲原ははっきりと言い切った。 「江田さんの心に刻み込まれたトリガー・ポイント、それはずばり、学園祭です。」  その言葉に、僕は反射的にかぶりを振った。 「いや、僕にとってあの学園祭は、取るに足らない安っぽい感傷なんかじゃない!」  取るに足らない、という言葉に強い引っ掛かりを覚えた僕は、少しだけ語気を強めた。  しかし蒲原は相変わらず柔らかな笑顔を浮かべたまま、小さく頷く。 「そんな失礼なことは言っていませんよ。 そのとき江田さんが感じたであろう無力感や焦燥、恐怖。 僕もそれなりに長いこと音楽をやっていますから容易に想像できます。 ただ、僕が言いたいのは学園祭全体のことではなく、もっとピンポイントな痛みの根源についてです。」  また少しの間が空いた。 「僕は江田さんが振り返ったときにメンバーの誰も目を合わさず、ドラムの方を向いていたという記憶。ここに大きな誤解があると思うんですよ。」 「誤解?」  僕はオウム返しをしてから首をひねり、数時間前と比べてすっかりもやの薄くなった記憶をたどった。  いったい蒲原はどの部分に誤解があると言っているのだ?  あのとき僕が見たのは紛れもなく、みんなが恩田だけを見て素晴らしい演奏を続けていた光景のはずだ。  そこに誤解など存在しようはずもない。  僕がそう反論しようと口を開きかけた瞬間、蒲原がぴしゃりと言い放った。 「これは僕の予想ですが、残りのメンバーはトラブルを超えて演奏を続ける、というシンプルな答えにたどり着いただけだと思います。」  僕は想像もしていなかった現実を突きつけられ、短い言葉を発する余地すらなく絶句した。 「江田さんはそのとき、弦が切れていても残った弦でコードを弾くなりルート音を鳴らすなりして演奏に参加することができたのに、それをしなかった。 それに気づいたときはもう手遅れだった。 先ほどの話を聞くにつけ、それがすべてだと思います。」  僕は胸を締め付ける苦しさから逃れようとどうにか口を開こうとするが、それさえままならないほどに身体の至るところに力が入っていた。 「他のメンバーがドラムを中心に最後まで演奏するという、いわば当たり前の姿が素直に認められず、事実をゆがめて解釈した結果として彼らが自分を見放したと思い込むことにした。 そしてその記憶に事実を曖昧にする白いもやのようなものを被せることで、江田さんは心にセーフティーロックをかけたのだと思います。 つまり、江田さんは自ら作り上げた存在しないトラウマ、心のトリガー・ポイントで自分を苦しめていただけじゃないでしょうか?」  あ……、という言葉だけがようやく漏れ出し、そのあとはひとことも言葉を繋げることができなかった。  蒲原の言葉は僕がすべて話しきったと思っていた記憶の底の、さらに下にあるものをいとも容易く目の前に引きずり出していた。  僕がステージを降りるときに感じた葛藤や、不都合な事実を無かったことにした挙句に被害妄想という重しを乗せて封をしていたはずの記憶が、長い時を経て白日の下にさらされている。  優しい眼差しでこちらを見つめる蒲原の前で、僕は次々と蘇る記憶の奔流に耐えきれず、がっちりと頭を抱えた。  そう、すべては蒲原の言うとおりだった。  例え弦を切ったとしても、いくらでもリカバリーする方法はあったのだ。  好きだった女の子が最前列で笑っている姿に動揺して当たり前のことをすべて放棄した僕は、偽りの記憶で自分をごまかしてしまった。  その過ちのせいで、自分で開けた穴にはまり込んでいったのだ。  僕はなんと情けないことをしてきたのだ。  自責の念がふたたび押し寄せたことで呼吸は荒くなり、時間は不思議なほどゆっくりと過ぎていった。  不定期に僕が漏らすうめき声の隙間から、蒲原の静かな呼吸だけが聞こえてくる。 「江田さんがいま思い出したこと、それが江田さんのトリガー・ポイントです。 もう悩まなくてもいいほどの遠い過去の、しかも自らが作り上げた取るに足らない痛みを、ずっと苦しみとして認識してしまっているんです。」  蒲原の言葉に感情が乗る。 「もういいじゃないですか。 もう許してあげてもいいじゃないですか。 過去を乗り越えた強い自分を認めてあげて、これからも僕たちと一緒にリタイアーズとして音楽を楽しんでいきましょうよ。」  自己否定の渦に飲み込まれそうな僕を必死で救い上げようとする蒲原の言葉にどこか違和感を覚えて顔を上げると、蒲原の頬をひと筋の涙が伝っていた。  驚く僕の目の前で蒲原はただ黙って目を閉じ、涙を流し続けている。 「僕だって目を逸らしてしまった過去があります。」  蒲原は流れ落ちた涙をぬぐって話しはじめた。 「今朝ほど僕がした話には、誰にも言っていない続きがあるんです。 でも今の話を聞いて、江田さんだけにはすべて話さないといけないと思いました。」  僕だけに?  浮かんだ言葉はすぐに喉へは移動せず、頭の中を何度かぐふぐると巡ってから僕の口を動かした。 「なんで僕だけに話しておかなきゃいけないんだ?」  しばらくぶりに発した言葉は、少しかすれていた。 「すいません、それは最後にお伝えします。」  蒲原は言葉を切り、長い息を吐き出す。 「僕はあの日、先生のドラムを聞かせてもらってから、どうやったら先生のようにちゃんとした音が出せるか考え、ひたすら練習しました。 先生は1か月にいちどだけ僕のドラムを見てくれる時間を作ってくれたので、それから毎月、先生の所へ通いました。」  蒲原はそこで声のトーンを下げた。 「でもスネアの音もバスドラムの音も結局いちども認めてもらえなくて。 いくら基本からやり直そうとしても、いちど体に馴染んでしまった手クセや技術はそう簡単に上書きできないんです。」  蒲原は悔しそうに歯ぎしりした。 「時間はどんどん過ぎて、医師の国家試験のことを真剣に考え始めなければいけない時期が近づいたとき、僕はどうすればいいのか迷いました。 論文もインターンも、とにかく医者になるために頑張ってきたことを無駄にしないためには練習の時間を割く他になかった。 プロのドラマーを目指すべきか医者の道へ進むか、究極の二択でした。そして僕は、たまらず先生に相談したんです。」  蒲原は話を止め、悔しそうに目を閉じてから先ほどよりも長いため息をついた。  その相談の結果として、プロを目指せと言われていたならば蒲原は今この黒い机の向こうには座っていないだろうことは容易に想像できた。  つまり蒲原は自分の意志で医学の道へ進むという結論に至ったのだ。  それが正解だったかは分からないが、このクリニックの評判から考えても心に傷を抱えた相当数の人間が蒲原に救われたことになる。  もし後ろ向きなことを蒲原が口にしたら、そう言ってやろうと構えていた僕の耳に、想像とは違う言葉が飛び込んできた。 「破門にされたんです。」  僕は、ええ? と大きな声を出してしまった。 「ちょっと待ってくれ。 医者かプロのドラマーか、どちらを選ぶか相談しに行っただけなのに、師弟関係を解消されるってのはどういうことだ?」  僕の質問に蒲原は乾いた笑いで応える。 「センスのない奴は人の何倍も練習してようやく半人前だ。 お前はドラムのセンスもなければ練習する時間もない、おまけに国家試験の手前まで医者かプロドラマーかで悩むほど優柔不断ときてる。 それならきっぱり諦めろ。 お前はプロに向いていない、二度とここに来るな。 それが先生が僕に言った、最後の言葉でした。」  蒲原が瞼を閉じるたびに、大粒の涙が溢れ出した。 「このことは嫁さんも知りません。 他人に初めて話しました。 いえ、江田さんだから話せたんです。」  僕はいつの間にか、固唾を飲んで蒲原の次の言葉を待っていた。  ざわざわとしたものが僕の背中を駆け上がって両肩にまとわりつく。  僕はひとことも口をきけないまま蒲原を見つめていた。  そんな僕の視線の先でずいぶんと間を空けてから、蒲原はハンカチで2度ほど涙をぬぐった。 「すいません、本当は医者が泣くなんてご法度なんですけどね。 江田さんに運命めいたものを感じたら、つい感情があふれてしまいました。」  ぎこちなく笑う蒲原の声は、まだ少し震えていた。 「江田さん、4人で予選を勝って、絶対に全国に行きましょうね!」  蒲原の右手が机越しに延び、僕は少しだけためらってからその手を握り返す。 「分かった、絶対に全国に行こうな。」  自然と右手に力が籠る。 「今日は僕の不安や苦しみの正体も教えてもらった。 本番までに絶対にそれを受け入れて克服してみせる。 目標ができたから僕は昨日までとは違う生き方ができる、そんな気がする。 本当にありがとう。」  言い終わる前に、蒲原の両手ががっしりと僕の右拳を掴んだ。 「大丈夫です! まずは二人に謝るところから始めて、少しずつ受け入れていきましょう。 野木さんも北園さんも本当にいい人です。 誠意をもって話せば、絶対に気持ちは伝わりますよ。」  蒲原の言葉には、優しく背中を押してくれるような力があった。  僕は強く頷いてから、蒲原の拳を両手で握り返す。 「こんな僕だが、これからもよろしく頼む。 僕がまた道を逸れそうになったら、ひっぱたいてでも止めてくれ。」  蒲原は何度も大きく頷いたあとで、ゆっくりと僕から手を放して椅子に深く腰掛けた。  不意に、また秒針だけの静寂が訪れた。  僕たちは向かい合ったまましばらく天井を見上げていたが、蒲原が不意に口を開いた。 「江田さん。 さっき僕が言った、江田さんだけに話しておかなければならないこと。」  僕は身体を起こし、蒲原に相対した。  蒲原の全身から、とても重要なことを話し出そうとしている雰囲気が伝わってくる。 「今の江田さんにだからこそ話せることなんですが、この話は僕にも江田さんにも、ちょっとだけ覚悟がいります。」  そう言いながら蒲原はゆっくりと窓の外に目をやって腕を組んだ。  僕は思わず姿勢を正す。 「僕たちが出場するシニアバンドの地方大会、5人の審査員がいるんです。」  そういえば、大会の概要について僕はまだ詳しく聞かされていなかった。  どこかの楽器店が主催して、審査員にはプロが顔を並べる、その程度の認識だった。  蒲原は落ち着いた様子で続ける。 「もちろんその中には審査委員長がいるんですよね。 で、実はその人、僕がさっきから先生って呼んでいる人なんですよ。」 「なんだって?」  蒲原を見る僕の目は、きっと大きく見開かれていたはずだ。  僕はさきほどから感じていた予想もしたくない可能性に思い当たり、それを意識したことでざわざわとしたものが背中全体を覆い始める。 「正直に言って、怖いんです。 またダメ出しをされるんじゃないかって。 顔を見ただけで無条件で落とされるんじゃないかって。」  さすがに審査は公平に行われるはずだとは思うが、審査するのが人間である以上、そこに個人の忖度が介入してしまう可能性は否定できない。  蒲原の表情からは僅かな苦悩が見て取れた。 「でも、それだけで審査が厳しくなるなんてことはないと信じたいな。 さすがに向こうもプロだし、そこにお金が発生する以上はちゃんとした演奏をすれば良い評価が返ってくると思うけどな。」  蒲原はゆっくりとかぶりを振った。 「プロとしてはそうでしょう。 でも、プロになる以前のしがらみまでなかったことにできる大人はそこまで多くないと思います。」  プロになる以前。  その部分がとても引っかかった。  蒲原が教えを請うたその先生は、プロのスタジオミュージシャンだったはずだ。  なんだろう、何かがおかしい。  蒲原は黙ったまま僕の目を見ている。 「……なあ、何が言いたいんだ?」  背中に嫌な汗がにじむ。  僕の質問からじゅうぶん過ぎる間を空けて、蒲原の口がゆっくりと開いた。 「審査委員長の名前は、恩田昇也さんです。 そう、江田さんのよく知る人です。」  反射的に閉じた瞼の裏に、あの日の僕が吐き出した暴言を聞いたときの、悲しそうな恩田の顔がはっきりと蘇った。
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