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第四章 緑の屋根
住宅街の真ん中にある公園には子供たちの嬌声があちこちで花開いていた。
緑の葉を透かして優しく降り注ぐ日光が、絶えず僕の身体や地面に不規則な模様をゆらめかせている。
その様子は、今が一年でいちばん過ごしやすい季節であることを分かりやすく訴えていた。
この緩やかな時間が流れている公園に、そう遠くない未来、野木と北園が姿を現す。
そのときにこの雰囲気がどのように変化するかはすべて僕の誠意にかかっているという重圧が、僕の頭をぐいぐいと押さえつけて離さない。
身の置き場のなさにベンチから思わず立ち上がり、木々を見上げる。
天気は快晴に近かった。
心を落ち着かせようとベンチのある木陰から一歩外へ出ただけで、初夏の日差しが容赦なく照りつける。
僕は慌ててベンチへ戻った。
「江田さん、落ち着いてください。」
タイミング良く自販機から戻ってきた蒲原が笑っている。
「分かってるよ。でもなんかほら、な。」
うまく言葉が出てこない。
「それに、六月の紫外線って一年でいちばん強いらしいですよ。」
どこか遠い目をした蒲原が僕にコーヒーを手渡す。
軽く礼を言ってそれを受け取り、口につける途中で手を止めた。
野木と北園に誠心誠意謝るという、男として覚悟がいるイベントが目の前に迫っている。
そんな緊張感に輪をかけるように、人生で最悪と言っていい別れ方をした恩田が蒲原のドラムの師匠だったという事実が僕の心をじわじわと蝕んでいた。
しかもその恩田が、シニアバンドの北関東大会で審査委員長を務めるという事実。
この数奇な巡り合わせが僕と蒲原、それぞれの心に色の似通った影を落としている。
正直なところ、僕には蒲原に聞きたいことが山ほどあった。
変わらず恩田のスネアの音は素晴らしかったのか、エイトビートはメトロノームのように正確だったのか、そして……僕について何か言っていなかったか。
ぐるぐると巡る思考を、きゃあっ、という子供の楽しそうな嬌声が一刀両断する。
「恩田さんのことについて聞きたい、って顔してますよ。」
反射的に首を向けたその視線の先で、蒲原は寂しそうに笑っている。
「こんなときまで理解のある大人にならないでくださいよ。 聞きたいことがあるなら、年下だろうが何だろうが恥ずかしがらずに聞く。 僕たち、仲間でしょう。」
蒲原の寂しそうな表情の意味を理解した僕は、コーヒーをひとくち飲んで喉を潤した。
「なんで分かった?」
僕はできるだけ動揺を悟られないように聞いたつもりだったが、自然と語尾が上ずる。
「そりゃあコーヒーを飲もうとしたまま口の手前で缶を止めて、あんな苦しそうな顔をしていたら分かりますよ。 それに、僕の家を出てからもわざと恩田さんの話に流れないように気を遣っていたでしょう?」
僕はその洞察力と、恩田について聞きやすい雰囲気を作ってくれた気遣いに短いため息が出た。
「あいつの、恩田のドラムはどうだった? スネアは耳が痛くなるような張りのある音、してたか?」
僕の耳の奥に、スネアの音が弾けるように響いた。
恩田はいつも、この音がバンドの良し悪しを決めるのだと言って、僕たちよりも一時間もはやくスタジオに入り、延々とエイトビートの個人練習をしていた。
その音はスタジオのぶ厚い二枚扉の外まで針のように鋭く響き、実際に僕たちは恩田の洗練されたスネアの音のおかげで、ただの一度も演奏が崩れるという経験をせずに済んでいた。
「あのスネアの音は凄かったです。 恩田さんの細身の身体からどうしてあんなパワーが生まれるのか、どれだけ僕が力を込めて叩いてもあの音には今でも遠く及びません。」
蒲原はすこしだけ悔しそうな顔を浮かべて笑う。
「まあ……、記憶補正があるかもしれないですけど、それでも恩田さんのドラムは別次元の音だったと思います。 プロと素人のあいだにはこれだけ厚い壁があるんだなと思い知らされましたよ。」
最後の方は諦めや自虐が混じっていたが、蒲原が僕に気を遣って言葉を選んでくれているのは痛いほど伝わってきた。
「そうか、確かに恩田のドラムは別物だよな。 そりゃあ学園祭にプロのミュージシャンが視察に来るさ」
視界に一瞬だけ白い闇が吹き出したが、僕は強く目を閉じてそれを追い払った。
「聞きたいのは……、本当にそこですか?」
すべてを見透かしているような目で蒲原がこちらを見ている。
そこにいつもの人懐っこい笑顔はなかった。
背骨に氷柱をぶち込まれたようだった。
僕は思わず背中を伸ばしてから蒲原のまなざしを避け、地面に視線を向ける。
「その、あれだ。 あの……。」
思っていることが喉の壁を越えようとしない。
僕はもどかしくなって自分の頬をいちど張った。
ぱあん、という乾いた音のあとで、僕の口は平手に押し出されるように本音を弾き出す。
「なあ、恩田は僕のこと、なにか言ってなかったか? いや、僕だけじゃない。大学時代のバンドのことでもいい、あるいは……。」
意識せずコーヒーの缶を握る手に力が籠る。
「僕がさっき話した学園祭のこと……とか。」
そこまで言うのがやっとだった。
それ以上を口にすると、これからふたりに謝る前に心が折れてしまいそうだった。
ゆっくりと笑顔に戻り、少しだけ考えてから蒲原が訥々と話しはじめた。
「おそらく、学園祭の話は聞いたと思います。」
僕が顔を逸らすのを蒲原が視線で制した。
「これから僕が伝えることは、あくまで僕が聞いた言葉そのままです。 そこに恩田さんのどういった思いがあったかは想像できません。 そこは申し訳ないですけど、僕よりも付き合いが長くて学園祭のことをよく知る江田さんが判断してください。」
僕が小さく頷くと、蒲原もそれに続いた。
蒲原が意を決したように長い息を吐く。
「大学時代にやった最後のライブ、俺はすごく後悔している。」
僕の視界が一瞬でブラックアウトした。
ああ、やはりそうだったか。
音楽事務所やプロの視察が来ているなか、絶対に失敗できないステージで僕が自分を見失ったために、恩田のイメージは泥にまみれたのだ。
僕がみんなの姿を見ていられずに、アンプを向いてしまったせいでマーシャルが巨大なハウリングを巻き起こしたことが、そのまま恩田の人生に影を落としていたのだ。
恩田はきっと、人生の中で自分に悪い影響を与えた人物を問われたとき、江田、以外の名前が浮かばないほどに僕を恨み、忌避しているのだ。
ましてやその直後に僕は謝りもせず、あれだけひどい言葉をぶつけてしまった。
あのときの恩田の悲しそうな顔は、救いようのない僕という人物を表現するのにいちばん適した表情だったのだ。
僕は漏れだしそうなうめき声を、拳を握ることでなんとか抑えながら蒲原を見た。
「ありがとう。 予想通りだったよ。 でも、よく嘘をつかないで本当のことを教えてくれた。 やっぱり蒲原は信頼できるな。」
僕は笑ったつもりだったが、どうやら表情筋は別の感情を表現していたらしく、蒲原の顔がよりいっそう曇った。
「あのさあ、本当は辛いクセに、強がるなよ。」
初めて聞く蒲原の横柄な物言いに、僕は言葉が出なかった。
そのまま蒲原は僕の目を真っすぐ見ながら続ける。
「江田さんは確かに大人ですよ。 でもね、大人な考えや態度が必ず正しいわけじゃない。 大人だろうが子供だろうが、悔しかったら怒るし、嬉しかったら笑う、それに……辛かったらそう素直に言えばいいじゃないですか。 なにを無理やり笑おうとしてんだよ。 みっともないよ。 伝えた僕だって辛いのに、自分は世界でいちばん不幸なんだ、って顔して。」
そこまで一気にまくし立ててから、蒲原は持っていた紅茶をごくごくとあおった。
「さっきも言ったけど、僕たちは仲間でしょう? なんで今朝はあれだけ腹を割って話したのに、ここにきて自分に嘘をつきはじめるんですか。 江田さんは学園祭のあとで恩田さんに謝れなかった。 だからこそこれからあのふたりにちゃんと謝ることで、同じ過ちを繰り返さないんでしょう? 違いますか?」
僕は初めて、蒲原から怒気というものを強く感じていた。
しかしその感情は決して僕を否定し、卑下するものではない。
むしろ逆に、本当に僕のことを気遣ってくれているからこそもどかしさが怒りに変わったのだということはすぐに感じ取ることができた。
そうか、僕はまた、蒲原に助けられたのだな。
そう思った瞬間、言葉が自然とあふれ出た。
「すまない。 そのとおりだよ。 僕は嘘をついた。 本当はあいつが僕のことを誰よりも恨んでいるのは自覚していた。 けど、けどな……、やっぱり大学時代いちばんの親友に嫌われたっていうのがショックで、どうしてもそれを認めたくなくて……、強がって平気なふりをしちまうんだ。」
蒲原はまだ怒気を孕んだ目で僕を見つめている。
しかしその奥には純粋な優しさが透けて見える。
「うん、そうだ。 僕はこれからあのふたりにちゃんと謝ることで、過去を受け入れて成長しなきゃいけないんだ。 例えあいつが審査員長だとしても、そんなのは結果でしかない。 僕はいま目の前のことをひとつひとつクリアして、みんなで大会に出て……。」
「優勝するんですよ、江田さん。」
ああ、と頷いた僕の言葉を止めるものはもうない。
「恩田にちゃんと僕たちの成長を見てもらって、優勝しような。」
言い終わるのと同時に、蒲原が、うし! とガッツポーズを見せる。
その顔には、今日見たなかでいちばんの笑みが貼りついていた。
「僕はさっきの江田さんみたいに辛くても無理に笑って、結果として壊れていく患者さんをたくさん見てきました。」
医者の顔をした蒲原が続ける。
「患者さんたちは誰にも相談できずにひとりで抱え込むしかできない人が多いんです。 でも江田さんには、みんながいるじゃないですか。」
蒲原の言葉にはまるで澱みがなく、僕の心の深い部分まで思いが染み渡るようだった。
「そうだな。 その仲間を失わないためにも、僕がしっかりしなきゃいけないな。」
「そうですよ。 頑張れ江田! ですよ」
けらけらと笑う蒲原の顔に、柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。
僕はその笑顔を見て、ある思いが脳裏をよぎった。
それは堰を切ったように僕の心の中で増殖してゆき、僕は思わず蒲原に声をかけた。
「蒲原、僕からちょっとお願いがあるんだ。」
少し驚いた顔で蒲原が視線を投げてよこす。
「僕に敬語を使うの、やめないか?」
言い終えた途端、口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった蒲原は慌てて身をかがめた。
少しのあいだせき込んでから、蒲原は苦しそうに顔だけをこちらに向ける。
「へ? なに言ってるんですか江田さん。 僕、まだ32ですよ? 江田さんは確か……。」
「47だ。」
「そう! 47! 15歳も年下なのに、ため口なんて使えるわけないじゃないですか!」
「さっきはため口だったじゃないか。」
「いや、あれは流れっていうか、ちょっと頭にきたっていうか、とにかくそんな口きけないです!」
僕は小さくかぶりを振った。
「あのな、僕は年上だとか年下だとか、そういうことを言っているんじゃない。 さっきお前は仲間だ、って言ってくれただろう? 同じグループで、同じ方向を向いて頑張っている関係っていうのは仲間だろう? そこに年齢差を持ち出して、言いたいことも言えないようじゃ仲間とは言えないんじゃないか? お前は誰よりも音楽スキルがある。 そんなお前だからこそ、僕たちに言いたくても言えないことがあるはずだ。 違うか?」
捲し立てるように言い終えると、蒲原は実に困ったような表情を浮かべながら小さく、そりゃあ……、とつぶやいた。
「だろ? 敬語で遠慮のない思いが伝わるか? 僕はお前が、僕やほかのメンバーに対して言葉以上の敬意を持ってくれているのはよく理解している。 だから、最初は音楽の話をするときだけでいい。 僕に敬語は使うな。 仲間として、音楽が好きな友達として、僕に向き合ってくれ。 頼む。」
僕が頭を下げるのを困惑したように見つめていた蒲原だったが、納得のいく言葉を聞かない限り僕が頭を上げないのを理解すると、ようやく長いため息のあとで重い口を開いた。
「分かりました。 分かりましたから……。ああもう! 分かったから! 顔上げてよ江田さん!」
僕は口角がにやりと上がるのが分かった。
「あ、いま笑った! 江田さん、笑ったでしょ! なんだよもう、僕が混乱してるのを見て楽しんでたんでしょ? 性格悪いなあ! なに、こんな感じで話せばいいの? こんなフランクな感じで話していいの?」
僕は親指を立てることで肯定の意思を伝えた。
蒲原は額に手を当てながら、もう、とつぶやいておかしそうに笑ってから、所在なさげに、あのふたり遅いなあ、と、きょろきょろ周りに目を走らせた。
「確かに、そろそろ来てもいいころなんだが。」
僕は不安をかき消すために、わざと時計を見ないように視線をさ迷わせた。
「大丈夫でしょう。 きっとふたりで連れ立って来てくれるはず。」
それが蒲原の気休めでないことは理解しているつもりだが、先ほどから木陰に立ち並ぶベンチにたたずんでいる人間はほとんどいない。
僕の視界に映るのは、今しがたふらりと表れてスマホをいじっている太めの男と、ふたつ離れたベンチで仲良くウォーキングの休憩をとる夫婦だけだった。
あちこちに視線を走らせた結果、期せずして視界に入った公園の大きな時計が、僕たちがこの公園に来て30分が経とうとしていることを伝えている。
待ち合わせ時間もとうに過ぎてしまっており、僕は流石に不安になった。
僕はパンクチュアルなふたりに何かあったのではないかと少し不安になりながら横を見ると、蒲原もわずかに眉間に皺を寄せながら腕時計を見つめていた。
蒲原の診察室を出てから僕はシャワーを借り、身体の火照りが治まってからまずは北園に電話をかけた。
電話に出た北園が、自分の家にこれから野木も来る、と驚くことを言った。
言葉を失う僕を置き去りにしたまま、これからのリタイアーズについて話し合うのだと一方的に言う北園に、僕はできうる限りの丁寧な謝罪をしたあとで、自分が蒲原の家にいること、ふたりに謝りたいと思っていることを伝え、11時に野木とふたりで北園の家の近くにある緑地公園まで来てもらえるように頼んだ。
電話の向こうで沈黙が続いたが、しばらくしてから、分かった、という短い言葉が聞こえたことで、僕はわずかに安堵した。
そこから間髪を入れず、北園の声がすこし低くなった。
「野木には電話するな。 俺から話しておくから。 それじゃあ、11時に。」
その言葉が聞こえたとき、僕は思わず長いため息を漏らした。
何度目か分からないが、時計に目を移して確認した時刻は現在、11時15分。
少しずつ不安が喉を詰まらせはじめていた。
「それにしても、いったいどうしたっていうんだ。 僕は、とにかく謝りたい。 あんなにひどいことを言ったのだから野木に許してはもらえないかもしれないけど、やっぱり僕はお前と一緒でリタイアーズを解散なんてさせたくない。 せっかくまた音楽をやろうと思えたのは、お前たち三人が本当にいい奴らだったからだ。 僕はもう自分の過ちで仲間を失いたくなんてない。」
僕は不安を払拭しようと、できるだけ早口で蒲原にそう伝えた。
「それは僕だってそう。 恩田さんに破門されてからまるまる5年はドラムを見るのも怖かったのに、あのふたりに出会えたからこそまたこうして楽しく叩けているわけだし。 本当にあのふたりには感謝してもしきれないから。」
蒲原はひどく感情のこもった口ぶりでそう言ってから、さわさわと揺れる木々に目を移した。
「それにしても、恩田なあ……。 まさか俺だけじゃなく蒲原のトラウマにも関係していたとはな。」
「江田さんは自分のトラウマの原因が恩田さんだと勘違いしていて、他人の僕のトラウマの原因が実は恩田さんだった、なんて、皮肉にもほどがあるでしょ。」
そう言ってから、蒲原は乾いた笑いで暗くなりかけた雰囲気を取り繕った。
「でもな、いくら恩田が僕たちにとって大きな壁になったとしても、これは絶対に受け入れなきゃいけない試練だと思う。 僕が野木にあんなことを言ってしまったのも元を正せば自分の弱さのせいだ。 さっきも言ったが、その弱さを克服するためには恩田の目の前で最高の演奏をしなけりゃいけない。」
そう言いながら横を見ると、真剣な目をした蒲原と視線が交わった。
「今度の大会、絶対に四人でいい演奏をしま……しよう!」
僕が小さく頷いたとき、背中越しに聞こえる話の重さに耐えかねたのか、若い男が少し離れたベンチへ移動してからまたスマホをいじりはじめた。
「知らないおっさんがこんなことを話してたら、そりゃあひくわなあ。」
僕が小声でそう言うと、蒲原は小さく笑ってくれた。
次の瞬間、蒲原の笑顔の向こうに見える公園の入り口からふたり連れの男が入ってくるのを見つけた僕は、蒲原に目配せをして立ち上がった。
「良かった。 来てくれたよ。」
ふたりは焦るでもなく、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
僕は自分の鼓動が不安の中でなお高鳴るのを感じていた。
最初にかけるべきはどんな言葉だ、昨日はお疲れさま、か、わざわざ来てもらって、か、それとも……。
いや、違う。
言うべき言葉は、ちゃんとある。
とても大事な、僕が失いかけていた言葉だ。
言えよ、言うぞ、言うんだ、俺。
呼吸を整えながら、あと数歩でふたりが目の前に来るというタイミングで僕は深々と頭を下げた。
「「「昨日は、すいませんでした!」」」
みっつの声がぴたりと重なった。
僕と北園たちは同時に頭を上げ、それぞれが不思議そうに互いの顔を見つめたまま、なにも喋れずにいる。
少しの静寂のあとで、背中にいる蒲原がいきなり笑い出した。
「なんなんですか、三人おんなじタイミングで頭を下げて、おんなじこと言って! あんたらどんだけ仲いいんですか!」
げらげらと腹を抱えて笑い続ける蒲原をよそに、僕たち三人の顔は今度は同時に赤く染め上がり、それから誰ともなしに照れたように笑い出した。
「なんだよ! 俺が最初に謝って収めようとしたのによお!」
北園が頭を掻きながらそう言うと、野木が照れ臭そうに続く。
「蒲原くん、これは間違っても打ち合わせた結果じゃない。 それは分かってくれるね?」
笑いの止まらない蒲原が苦しそうに頷くと、北園と野木が僕の目をじっと見つめてきた。
僕は、今しかない、とこの数時間で蓄えた勇気を振り絞った。
「いや、まずは僕に謝らせてくれ。 昨日は僕の心の弱さのせいであんなひどいことを言ってしまって、本当に……。」
「あーもう! 弱さでもワラサでもどうでもいいよ、そんなこと! とにかくだ、いきなり胸ぐらなんか掴んじまって悪かった、江田っち。 この通りだ。」
北園が剥げかけたつむじを見せるようにしながら頭を下げたが、僕にはその理由が分からなかった。
「いや、北園くんが謝る必要はない。 お前さんが怒って当然のことを僕がしてしまったわけだし。」
僕の言葉に北園は強くかぶりを振る。
「いやいやいや、違うんだ、違うんだ江田っち。 あんときは俺もおかしかったんだ。 昔の仲間があんなふうにして俺の前からいなくなっちまったことがあって、それがフラッシュバックして思わず手が出ちまったんだ。 俺はゆうべきっと、お前さんじゃなく、あのときの自分の胸ぐらを掴んでたんだよ。」
北園は苦しそうな顔で言葉を吐き出してから、もういちど、すまん! と頭を下げた。
僕がどう返答していいものか考えあぐねていると、今度は僕の右隣の野木が口を開いた。
「江田さん、僕こそすいませんでした。 僕もあのときはかなり感情的になり過ぎました。 確かに人前であの話をされたことに腹を立てたのは認めますが、本当はそうではない部分がひどく頭に来て……。」
僕だけではなく、蒲原と北園も形容しがたい顔で頭を下げる野木を見つめていた。
「そうではない部分って、なんだよ?」
北園が無遠慮に聞くと、野木は頭を掻きながら顔を上げた。
「江田さんが言ったことが事実とは違う内容だったから、です。 僕がバンドメンバーだった女の子全員から好かれて、それが原因で空中分解したっていう話のことです。 僕は自分に自信がなくて、みんなにも嘘を教えていました。 本当にごめんなさい。」
目の前で、痩躯の色男が何度も頭を下げている。
その様子を、少し離れたベンチから若い男が怪訝な顔で見つめていた。
「ちょっと待ってくれ。 いや、なんで嘘をついたかとかそんなのはいい。 そもそも、事実とはどう違うんだ? お前さんみたいな美形の男なんて、誰からも好かれそうなもんだがな。」
僕が不思議に思ったことを次々と口にできる北園の物言いが、このときばかりは感謝の対象に変わっていた。
それにしても、僕はいつ、どうやって謝罪のきっかけをつかめばいいんだろう。
僕の意志とは無関係に滞りなく進んでいくステージ上の演劇を見せられているような気がして、僕は少しずつ焦りを感じ始めていた。
「僕は女の子に好かれるタイプだということは認めますが、問題はそこじゃない。 僕は、バンドのキーボードの子と当時からずっと付き合っているんです。」
あっさりとモテることを認めた野木に対して驚いたことは確かだが、それよりも、女っ気の片鱗すら見せない野木が現在も付き合っている相手がいたということの方が驚きだった。
確かにそれは空中分解の引き金になりうることではある。
しかし、野木はさっき、自分に自信がなくて嘘をついた、と口にしていた。
その部分がどうにも腑に落ちない。
「そのキーボードの子は音楽に対してすごく真っすぐで、音楽の趣味もほぼ一緒で、そして何より一緒に演奏しているとアドレナリンが止まらないほど楽しいんです。」
野木の顔は本人が知ってか知らずかうっすらと赤く染まり、まるで好きな先輩の話をする女子高校生のようだった。
不思議なものでその話を聞いているこちらも、どこかこそばゆい感覚に陥る。
「へえ、それだけ相性のいいバンド仲間なんてそう簡単に見つけられるもんでもないだろう。 しかもそれが人生のパートナーにもなるなんて、お前さんは幸せだよ。」
北園の言葉に、野木の頬がますます赤くなった。
「そう言ってもらえて、みんなにパートナーを紹介する勇気が出ました。」
クライマックスに向かってノンブレーキで突っ走ってゆく演劇を見させられていた僕は、たまらず口を挟む。
「あの、せめて僕にも謝らせてくれないかな? 昨日は本当に……。」
「いいよそんなのは! 江田っちはさっき謝ったろ? それよりも今は野木の話の方が二千倍は興味が沸くじゃねえか。 な、で、どんな人なんだよそのパートナーってのは?」
北園が興味津々と言った感じで目を輝かせる横で、蒲原が僕を見ながら先ほど以上に腹を抱えて笑っている。
「ね? ふたりともいい人でしょ?」
蒲原は僕にだけ聞こえるようにそう言ってから、何か含みを持たせた笑みを僕に向けてきた。
「いやホント、北園さんは言葉に遠慮がなくて面白い人だなあ。 それに、どんな人かを説明するよりも見てもらった方が早いと思って、実はここに呼んであるんですよ。」
野木の言葉に、僕たちは慌てたようにして周りをきょろきょろと見回す。
それからすぐに蒲原だけは、ああ、と言ってから小さく頷いた。
「おい、いつ来るんだよ。 何時に来ることになってんだ?」
北園が腕時計を覗き込みながらいぶかしげな表情を野木に向けるが、その野木は落ち着いた様子で微笑んでいる。
「もう来ていますよ。 ユウ、こっち来て!」
野木が声をかけた方向から、地面を蹴る音が聞こえた。
僕と北園がそちらを振り向くと、少し離れたベンチから若い男が勢いよく駆け寄ってくる。
そのユウと呼ばれた男は野木の左わきにぴたりと収まると、初めまして、と言いながら緊張した面持ちでおずおずと頭を下げた。
「紹介します、僕のパートナーでキーボーディストの粟田佑馬。 前のバンドメンバーに僕たちの関係が明るみになって、バンドは解散しちゃいました!」
あまりのことに声も出なかった。
北園も口を大きく開けたまま、ただぽかんと野木を見つめている。
しかし僕はとんでもないことをさらりと言ってのけた野木の膝が、細かく震えているのを見逃さなかった。
野木は今、とてつもなく怖いのだ。
僕が彼らに謝ることの何倍も、何十倍も、恐怖に身を焦がされているのだ。
その横で同じように笑顔のまま膝を震わせている粟田と呼ばれた青年も、すべてを野木に預けて恐怖を乗り越えることしかできないのだ。
かつて自分がゲイだと知られたことでバンドは消滅し、やもするとまた同じことが繰り返されるかもしれないという戦慄とせめぎ合いながら、野木は全員の前でのカミングアウトという決断をした。
その勇気たるや。
その覚悟たるや。
確固たる意志が透けて見えるような野木の真っすぐなまなざしは、この場で何が起きても構わないという強い意志を滔々と湛えていた。
「え? それはそれでいいんじゃねえのか? 俺は別にそれで野木の評価が変わったりしないぜ?」
北園の軽いトーンが不意に沈黙を破った。
おそらくは傍から見ている者にとってはあっという間に過ぎた沈黙だったのだろうが、僕以上に野木たちふたりには長く、重い時間に感じられたはずだ。
「僕もだ。 野木が誰と付き合っていても、犯罪者とかでもない限りそれをどうこう言うつもりはないよ。」
僕は本心でそう言いながら、野木と粟田の顔を見渡した。
かつて大学時代にも同じゼミにゲイと噂されたふたりがいたが、ふたりとも実に優しく、誰からも好かれる存在だった。
長い時間を彼らと過ごしたことで、僕は同性愛という選択肢は人生においてビハインドとはなりえないのだ、ということを、若い時分から理解していた数少ない人間のひとりであると自負している。
だから、野木の言葉に対しても、僕は、ああそうか、としか思えなかったし、逆に自分が同性愛者であるということを打ち明けた勇気は称賛に値するものであると、野木のその行動に深く感服さえしていた。
僕は蒲原の方を見て続ける。
「それに、ちょうどリタイアーズにはキーボードがいなかったじゃないか。 粟田くんだっけか、君さえ良かったら、リタイアーズに入ってくれないかな? どうだろう、みんな。」
僕の言葉に、粟田はいちど野木を見てから、いいんですか? と口にして目を輝かせた。
その言葉に、いつの間にか僕のすぐ脇に立っていた蒲原が口を開く。
「じゃあ、僕からもお願いします。 野木さんから聞いてるかもしれないですけど、僕たちあと2か月後に迫った大会に出るんですよ。 そのメンバーとして一緒に演奏してください! あ、僕、蒲原っていいます!」
「なんで最後に自己紹介してんだよ、蒲原! あ、俺は北園です。」
僕たちが笑う声につられて、野木たちの顔もほころんだ。
見ると、ふたりとも膝の震えは止まっていた。
「僕は江田といいます。 野木くんと一緒にギターを弾いてます。 もう大会まであんまり時間もないけど、これからよろしくお願いします、粟田くん!」
僕がそう言って粟田に手を伸ばした瞬間
「なんだよ江田っち! 自分だけ大人ぶりやがってよ! こういうときはみんなで一緒に横並びが基本だろ! ほれ、蒲原も!」
北園が蒲原の手をぐい、と引っ張り、僕の伸ばした手に無理やり重ねてきた。
みっつの手に、そっと粟田の手が重なる。
その上から、野木の手が力強く乗せられた。
「ありがとう、みんな、ありがとう……。」
野木は笑顔のままひと筋の涙を流していた。
そのことにみんな気づいてはいたようだったけれど、誰もそれについては触れなかった。
その涙の意味が、これからのリタイアーズを絆で結び、更に上のレベルに引き上げる起爆剤になると気づいていたからだ、と僕はひとり納得した。
「あの、みんなに提案があるんだけど、いいかな?」
僕はその絆をより強固なものにするため、先ほど蒲原に提案したのと同じ内容に、すこし項目を追加してみんなに話した。
敬語はやめよう。
言いたいことは素直に言おう。
改善点はみんなのいる前で本人に直接言おう。
北園は手放しでそりゃいいじゃないかと言ってくれたが、やはり年下の三人は予想どおりにすこし難色を浮かべた。
しかし北園が、俺らは音楽バカのバカ仲間じゃねえか、のひとことで豪快にその場をまとめ、しばらくのやり取りののちに渋々ながらも三人も僕の出した案に納得してくれた。
「じゃあ、そういうことで。 しゃっちょこばった敬語はできるだけ使わないで、お互い気兼ねなく楽しもうな。」
なんだかんだで僕の提案は北園がうまく取りまとめてくれたおかげで、そのままリタイアーズのルールになったらしかった。
「それで、野木も腹を割って話してくれたことだし、僕の話も聞いてほしいんだ。」
こちらを振り向いた蒲原と目が合って頷くと、蒲原も首を縦に振った。
僕は恩田のことや僕が苦しんだ学園祭のこと、蒲原と恩田の関係について話そうと、みんなにベンチに腰かけるように促した。
本心としては、これを話しておくことで僕と蒲原が大会にどのような気持ちで臨むのかをみんなに共有してほしかったというのが正直なところだった。
しかし、ここでまた北園が割って入る。
「なんか長くなりそうだからよ、飯食いに行かねえか? 俺、腹減っちまったからよ。 粟田くんの歓迎会も兼ねて、昼焼肉なんてのはどうだ?」
「それいい! 焼肉! 大好き!」
さっきまで静かだった粟田が水を得た魚のように飛び跳ねた。
野木も珍しく、手を叩いて子供のように喜んでいる。
「江田っちと蒲原もいいよな? 焼肉、美味いぜ?」
こうなってしまったら、いいも悪いもない。
北園は自分が決めたことは最終的になんとしても実現させてしまうのだ。
しかしそれに対して誰も嫌な顔をする者はなく、みんな北園の豪快な兄貴肌に惹かれるようにして、気が付けばその背中を楽しく追いかけている。
その北園がベンチの脇をすり抜けて公園の出口へと歩きはじめる。
「おら、みんな、行くぞ!」
そう言いながら僕たちを手で招き寄せる真似をしながら、北園は背を向けた。
「謝る機会と恩田さんの話をする機会、逃がしちゃった……。」
そう言いながら蒲原が僕の隣で楽しそうに笑っている。
「仕方ないさ。 それはいつでも話せる。 それよりも僕はこの雰囲気がこれからもずっと続くことを祈るばかりだよ。」
「そうだね、うん。 僕もそれがいちばんの望みだなあ。 きっとこの雰囲気のまま練習に打ち込めたら、もっともっとリタイアーズは上手くなる。 そんな気がする。」
そう言って蒲原は早足で北園の背中を追いかける。
「北園さん! 昼間っから飲む気じゃないですよね?」
蒲原が北園に追いつきながら言うと、北園が眉を吊り上げて
「こら蒲原! 敬語は使うなってさっき言ったばかりだろうが!」
子供を叱るようにしてげんこつを振り上げた北園に、蒲原は反射的に身をすくめる。
「ごめん、つい敬語使っちゃった。 これから気を付けるね、北園!」
「そこは北園さん、だろうが!」
北園のげんこつが、それはそれは優しく蒲原の頭に振り下ろされた。
子供たちの嬌声に、僕たち五人の笑い声が重なった。
続く
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