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第五章 淡緑のきっかけ
金曜日、午後7時40分。
ミュージックスタジオ176、A-1号室の二重扉を開けると、張りのあるベースの音とバスドラムの重い響きが音圧の壁となって僕に正面からぶつかってきた。
エアコンが絶賛フル稼働中の15畳ほどの部屋の中を見回すと僕以外のメンバーはすでに揃っており、それぞれチューニングやエフェクター、アンプの最終調整に勤しんでいた。
それもそのはずで、僕は仕事が長引いてしまったせいで本来であればゆうゆう7時半の集合に間に合うはずだったのに、予定より10分遅れての到着となってしまっていた。
「マメさん、どうしたの。 遅いよお。」
ギブソンの真っ赤なSGを持った野木が笑いながら眉をへの字に曲げている。
「ごめんな野木。 仕事で遅くなった。 あれ、でも確か……ゾノに連絡……。」
僕がそこまで言ったとき、小気味よいベースのスラップ音がぴたりと止んだ。
視線の先で北園が、しまった、という顔をしながらこちらを見て口を開く。
「あ、わりぃ、野木たちに言うのすっかり忘れてた。 あ、でもよ、マメが遅くなるってのは蒲原にあらかじめ伝えておいたぜ?」
今度はフロアタムのテンションを調整していた蒲原の手が止まる。
「ええ? 僕? そんな連絡貰ってないはず。 ずっとスマホ持ってたし……。」
しどろもどろになりながら蒲原がスマホを確認する。
「うん、やっぱり。 ここに来たのが7時だけど、その前には誰からもメッセージは入ってない。 もしかしてゾノさん、他の人に送っちゃったんじゃないの?」
そう返された北園は顔を赤くして
「ん? なわけねえだろう。 俺はちゃんと送りました! ほれ見ろ、ちゃんといちばん上に送った形跡が……。」
そう言いながら僕に向けられたメッセージアプリの画面には、いちばん上に『かんな』と書かれたポメラニアンのアイコンが表示されていた。
「ゾノ、この「かんな」って誰だよ? お前の彼女か?」
僕がわざとらしく含みを持たせて言うと、北園の顔がさらに赤くなった。
「違うわ! 俺に彼女なんかいるわけねえだろう。 こんな四十なかば、独身の剥げかけた音楽バカに誰が好意なんか抱くっつうんだよ。」
そう言いながら北園は慌てたそぶりでスマホになにか入力しているようだった。
北園の指の動きが止まった次の瞬間に蒲原のスマホが鳴り、画面を覗き込んだ蒲原があきれ顔でため息をつく。
「ねえゾノさん、なんで今さら「マメ遅れるって」なんて送ったの? どう考えたって、僕にメッセージを送ってないのなんてとっくにばれてるでしょう。」
蒲原が即座に切り返すと、粟田がクスクスとおかしそうに笑い始めた。
「なんだよ粟田、そんなにおかしいかよ。」
北園がまだ赤い顔のまま強がった様子で反論すると、粟田は声を上げて笑った。
「だってゾノさん、蒲原くんに連絡してないって分かったときから、ずーっと目が泳ぎっぱなしなんだもん。 そんな挙動不審な男には彼女もできないよな、って納得しちゃった。」
そう言ってからまたけらけらと笑う粟田を野木が軽くたしなめる。
「ユウ、そんなこと言っちゃダメ。 ゾノさんだって昔はモテモテだったんだよ? おそらく髪が薄くなる前は。」
野木の口からさらりとこぼれた、何の悪意も感じられない辛辣な言葉にA-1号室は大きな笑いに包まれた。
蒲原に至っては勢い余って笑いながらクラッシュシンバルを大きくいちど鳴らす始末だった。
それにしても以前はあれほど寡黙だった野木が、粟田が加入してから1か月経っただけで、ずっと僕たちに隠していた社交的なキャラクターを遠慮なく見せるようになったことが素直に驚きだった。
しかも時として今のように粟田とふたり、まるで息の合った漫才師のようなやり取りを見せることもある。
それもこれもあの日、野木が勇気を振り絞って自分がゲイだとカミングアウトしたことからすべてがいい方向に動きはじめているのは間違いのない事実だった。
また、そのときに紹介された粟田はいわゆるオネエと呼ばれる類のゲイで、物怖じもせずとにかく人とのコミュニケーション能力が高かった。
またその童顔から実年齢が40歳ということを感じさせず、昼間から焼き肉の食べ放題をブルドーザーのように平らげるその姿をどういう訳か北園が気に入り、今では北園のいいおもちゃになってしまっている。
とにかくこの1か月間で、リタイアーズの雰囲気は良い意味で劇的に変わった。
敬語を使わなくなったことでお互いが気兼ねすることなく相手を褒めることができ、それと同じぐらいに他のパートから見た客観的な指摘もできることでバンド内の風通しが良くなった。
それに加えて粟田というキーボードの加入により演奏やアレンジの幅が広がり、それにつられるようにして演奏レベルそのものがぐんと向上した。
また北園の提案で、最年長者である僕と北園をそれぞれマメとゾノというニックネームで呼ぶようになったことも、年齢の垣根を越えてバンド仲間として付き合える雰囲気づくりに大きな影響を与えていた。
「ところでマメよ、ぼけーっとしてねえで準備しなよ。」
嬉しくなって柔らかな雰囲気のメンバーを眺めていた僕は小さく、あ、と漏らしてから慌ててギグバッグを開けてストラトキャスターを取り出した。
すらりとしたフォルムのそれが姿を現すと、北園が目を細めながらこちらに向かって右手を向けていた。
「いつ見てもいいよなあ、そのストラトの色。 淡いグリーンでよ。」
「まあね、偶然に立ち寄った楽器屋でこいつを見つけていなければ、僕はまた音楽を始めようとは思わなかったよ。 そういう意味も込めて、このジェフ・ベック・モデルのストラトには本当に感謝してるんだ。」
僕はネックを高く持ち上げながら、誇らしげに答えた。
磨き上げたグリーンのボディーに天井のLEDが反射する。
「 いや、本当にいいギターだよ。 ピックアップもいいのを使ってるからストラトらしい柔らかい音も出るし。 メイプルのネックも細いからものすごく弾きやすい。」
野木が自分のSGを眺めながらしみじみと言う。
「俺はギブソンのマホガニーネックの音も好きだけどな。 ネックは太いけど音も太くて特に低音がよく響くからなあ。」
僕がそう言うと、野木はBマイナーを押さえた手をボディーに向けて動かしながら、ひとつずつオクターブを上げていき、人差し指が15フレットに差しかかったところで渋い表情を浮かべた。
「どうしてもハイフレットでネックの太さが引っかかるんだよね。 ギターにテクニックが追い付いていない僕はまだまだってことだよ。」
そう言って笑いながら人差し指を5フレットまで戻してステアウェイ・トゥ・ヘヴンの前奏を弾きはじめた野木が、途中で演奏をやめて焦ったように北園の方を向く。
「ゾノさん、大丈夫? また痛むの?」
視線を向けた先で北園は、右手の小指を押さえながら眉間に皺を寄せている。
その額にはわずかだが脂汗が滲んでいた。
「ゾノさん、アタシ痛み止め持ってるけど、飲む?」
粟田が大きな体を丸めながら、不安そうに北園の顔を覗き込んでいる。
「へへ、なあに、いつものことさ。 心配かけてすまねえな、じきに収まる。」
北園はおろおろする粟田に、にっ、と笑ってから、近くに会ったパイプ椅子にどっかりと腰を下ろした。
「大丈夫だよ、粟田さん。 ゾノさんの痛みは本体のない痛みだからすぐに治まるんだ。」
蒲原が優しく微笑みながら言ったその言葉に反応して、僕の頭にある言葉が蘇った。
「蒲原、それってトリガー・ポイントってやつか?」
僕は一か月前に覚えた言葉を反芻すると、蒲原は優しい顔をしたまま小さくかぶりを振った。
「ううん、それとはちょっと違って。 北園さんのはファントム・ペインてやつ。 日本語だと幻肢痛って言うのかな?」
また新しい単語が僕の頭の中を駆け巡る。
「ファントム・ペイン? なにそれ? どっかのケーキ屋さんみたいな名前よね。」
事故はょう会の際に脳内で言葉が勝手に食べ物に変換されると本人が言っていたとおり、粟田は未知の単語を驚くべきスピードでケーキ屋に仕立て上げてしまった。
「あのね、ファントム・ペインっていうのは実際には欠……。」
「いいよ蒲原、そういやマメと粟田にはまだ話してなかったもんな。」
蒲原が言いかけた言葉を遮り、北園が左手を高く上げた。
「よし、痛みも治まったところで、ふたりにこれから俺がとっときのマジックを見せてやろう。 びっくりして腰抜かすなよ? ほれ、粟田、マメ、俺の前に来いよ。」
北園は上げた左手でおいでおいでをするように僕と粟田を呼び寄せた。
「よし、じゃあ、ちゃんと見ておけよ。 お前らの度肝を抜いてやる。」
そう言うと北園はグーにした右手の小指だけを、ぴん、と伸ばして、それを左手の人差し指と中指で覆い隠した。
北園の左手の陰からは、右手の手首と飛び出した小指の爪先だけが見えている。
僕は得意気な北園の顔と、それを目を輝かせながら見つめる粟田の顔を見比べて思わず笑いそうになった。
これはマジックなんて呼べるようなシロモノじゃない。
右手の指が取れたと見せかけて、実はそれは左手の指を曲げているだけという、誰しも一度は人前でやったことのある、あれだ。
いかにも北園らしい、粟田をおもちゃにする茶目っ気の効いたネタに付き合うことにした僕は、黙って北園のマジックの続きを眺めた。
いや、違う。
何かがおかしい。
このマジックは、確か親指で行うものではなかったか?
親指をうまく折り曲げて、さも指が抜けたように見せるのがオチのはずだ。
しかし北園はいま、小指でそれをしようとしている。
激しい違和感が僕を襲った。
小指が抜けたように見せるのなら、左手の指でその代用をしなければいけないはずだ。
しかし北園の両手は甲がこちらに向いていて、どうやっても角度的に代用できる指が見当たらない。
そうこうしているうちに、北園の指がゆっくりと右手を離れ、それから前触れもなく地面に落ちて粟田の目の前へころころと転がった。
視線の固まった粟田の顔色が一瞬で蒼白になる。
それと連動するようにして、肉付きのいい両手がその口を覆い隠す。
「いやあああっ! 指が、指がっ! エイタぁ、ゾノさんの指が落ちたよぉ!」
尻餅をついて野木の名前を呼ぶ粟田と、その前に無機質に転がった指を、僕はただ茫然と見ていた。
それから、どっこいせ、と言いながら指を拾った北園は何食わぬ顔でもういちどパイプ椅子に腰かけると、にやり、と笑って僕を見た。
「どうだ、びびったろ?」
僕は胸騒ぎを覚えつつ素直にひとつうなずいてから、まだ起き上がれないでいる粟田を顎で指した。
「僕以上にびびってるのがいるから、まずはそっちを落ち着けてあげてくれよ。」
北園は粟田を見て吹き出すと、ゆっくりと立ちあがってそろりと粟田に近づいた。
「いやああっ、来ないで! ゾノさん、あっち行って!」
北園は楽しそうにゆっくりと指を付けたり外したりしながら、半べそをかいて後ずさる粟田に一歩ずつ近づいてゆく。
やがて壁が背中についた粟田は、観念したように体育座りのまま動かなくなった。
「ゾノさん、ユウが本気で怖がってるからやめたげて。 この子、ホラー映画とかマジで無理なぐらいビビリなんだから。」
野木が苦笑まじりにそう言うと、北園は、ちぇ、と分かりやすい舌打ちをしてパイプ椅子に戻った。
「ほら、ユウ、もう大丈夫だから。 ちゃんと見な。 あれは義指、ゾノさんは右手の小指が半分ないんだよ。」
恐る恐る目を開いた粟田に向けて、北園は、ほれ、ほれ、と言いながら何度か義指を外して見せた。
それから少し申し訳なさそうな顔をして
「いやあ、まさか粟田がそこまでビビるとは思わなかったからよ。 楽しくなってちょっと調子に乗り過ぎちまった。 勘弁な。」
そう真面目な表情に戻して謝りながら、軽く頭を下げた。
粟田はようやく事態を察したらしく、それでもまだこわごわと言った感じで北園に近づくと、その精巧に作られた義指をまじまじと眺めて、へえぇ、とため息を漏らした。
「これ、超リアル! 本物の指に見える! でも、なんでゾノさんこれを着けてるの? 怪我でもしたの? ……ん?」
僕が先ほどから感じていた胸騒ぎの原因に粟田も気づいたらしく、再び顔が青ざめた。
「おう、お察しの通り俺は元こっちの人間さ。」
北園は人差し指で頬を斜めに切る真似をしながら、粟田ににやりと笑いかけてから
「まあ今はエンコも詰めて、カタギのトラック運転手してるから安心しろや。」
あっけらかんと言い放った北園の言葉はその重さと反比例していて、不思議なほど現実味がなかった。
「ヤク……ヤクザ、なのですか? じゃあ、人とかも、その、殺したり……。」
粟田が口を震わせながら、物怖じしない性格が災いしてとんでもないことを口走った。
それを聞いた北園の顔つきが一瞬で変わる。
「元・だって言ってんだろうが! それに俺は人なんか殺っちゃいねえ。 殺しに行こうとする仲間を止めたことはあるがな! ……馬鹿にすんじゃねえよ。」
北園が発した言葉の最後は、まるで自分に言い聞かせるように静かだった。
「ごめんなさあいぃ! アタシ、そんなつもりじゃ……。」
北園の剣幕に頭を抱え込む粟田を野木が優しく抱きしめる様子を見ながら、蒲原が頷いている。
「まあね、ゾノさんの風貌でそんだけ凄まれたらそりゃ怖いよね、粟田さんも。」
蒲原が苦笑しながら言うと、北園が唾を飛ばしながら反論する。
「だってこいつよ、いきなり俺のこと人殺し扱いしやがったんだぜ? ヤクザだろうが何だろうが、そんな簡単に人殺してたら、まともに社会で生きてなんかいけねえっての。」
そりゃそうだ、と笑ってから蒲原が続ける。
「あのね、粟田さん。 ゾノさんは本当にそっちの道に深く入る前に足を洗ったんだよ。 僕も詳しくは聞いてないから分からないけど、ゾノさんは人なんか殺しちゃいない。 これだけは絶対に間違いない。」
蒲原は真剣な目で、諭すように粟田に語りかけた。
粟田はその真摯な物言いに何かを感じ取ったのか、ゆっくりと北園に向き直ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。 アタシ、あの指を見て怖くなってパニックになっちゃって。 失礼なことを言っちゃって本当にごめんなさい。」
その姿を見た北園は、くすりと笑ってから
「いいよ、気にすんな。 悪意がないのは分かってるからよ。 ……まあ、そんな下向いてないで顔上げてくれや。 そろそろ練習しようぜ。」
そう言って粟田の肩に優しく手を置いた。
粟田はいちど、びくっ、と身体を震わせたが、それからゆっくりと顔を上げた。
「そうよね、ゾノさん。 見た目がいくら粗暴だからって、それだけで人を殺したなんて決めつけちゃダメよね。」
いちど背中を向けた北園が、ゆっくりと振り返る。
野木が口に手を当てながら、あ、と言うのと同時に、振り返る途中の北園のげんこつが粟田の頭に直撃した。
悲鳴を上げる粟田が頭を抱える姿を見ながら、北園が満足したようにリバーブの目盛りを、ぐい、と上げる。
「さて、そんじゃあ今日は追加した一曲、ホテル・カリフォルニアから行くか! マメ、蒲原、ばっちりこの曲を完成させて、恩田って奴にひと泡吹かせてやろうや!」
楽しそうに目を輝かせる北園の言葉に、全員の、おう!という声が重なった。
僕はストラップを肩にかけ、たぐり寄せたシールドをVOXのアンプに差し込んでスイッチを入れ、ひとつ息を吐いた。
恩田の目の前で、ホテル・カリフォルニアを演奏する。
そこを完璧に乗り越えられれば、きっとまだ少しだけ残っている頭の中の白い霧がすべて晴れてくれるのだろう。
僕はその瞬間にたどり着くために、わざわざこの曲を追加してもらったのだ。
あと一か月後、人生においてきっと三本の指に入るほどの厳しい自分との戦いに挑まなければいけないという緊張感が胸をかける。
それは蒲原もおなじ気持ちだろう。
かつて先生と呼び、自分を破門にした相手に成長した証を見てもらう。
それこそが蒲原がいま最も望み、そして最も恐れていることなのだから。
僕はもういちど長く息を吐き、戦友である蒲原へ目をやった。
引き締まった表情の蒲原が、凛とした姿でドラムセットの後ろに座っている。
大丈夫だ。
僕も蒲原も、恩田と自分自身の呪縛からあと一か月後に解き放たれるのだ。
そう自分に言い聞かせて蒲原から視線を外そうとした瞬間、左肘を押さえながら眉間に皺を寄せる蒲原の姿が、ほんの一瞬だけ視界をかすめた。
続く
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