第七章 黒いスティック

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第七章 黒いスティック

 「おいおいそれで? 蒲原はどうなったんだよ?」  「だから、ちょっと遅れるって連絡が来ただろう? さっき僕が話した、粟田の知り合いっていう人に治療してもらって遅くなってるんだろうさ。」  「じゃあ、どうして野木も来ないんだよ? あいつは関係ねえだろう。」  「粟田が蒲原を連れて行くなら、そりゃあ野木も一緒に着いていくだろうよ。」  「まあ……、そりゃあそうだろうがよ、せめて誰かひとりぐらいまともな連絡を寄こしたっていいじゃねえか、なあ?」  僕の目の前では、さきほどから焦った様子の北園が咥え煙草のまままで大きな目をぎょろつかせていた。  それもそのはずで、北園はさっき初めて蒲原の肘が危険な状態にあることを僕の口から知らされたばかりだった。  スタジオ176の待合室脇にある喫煙スペースは北園の燻らす紫煙でわずかに霞み、その向こうに見える時計はスタジオに入る予定の午後2時まであと数分のところを指していた。  北園は煙草を咥えたまませわしなく口の脇から細切れになった煙を吐き出していたが、残り半分まで短くなったところで分煙器の脇にある灰皿へこすりつけて火を消した。  いつもは軽口を叩くことが当たり前の北園の口数が極端に少なくなったところを見ると、どうやら本気で不安を感じ、なにかを心配している様子だった。  その心配の内容が蒲原のことなのかリタイアーズのことなのか、あるいは大会のことについてなのか推し量ることはできなかったが、少なくとも北園の挙動からは普段みせているどこか余裕のある態度は消え失せてしまっている。  かくいう僕も、遅れます、ということだけを伝えるメッセージを昼すぎに受け取っただけで、いったい蒲原がどのような状態にあるのかまるで見当がつかずに、ふたつ重なった不安が募るばかりだった。  蒲原の状況もだが、もうひとつの僕の不安の正体は実にシンプルだった。  大会までの練習すべて、手を動かせない蒲原に代わって僕がドラムを叩かなくてはいけないという重圧。  おそらくリタイアーズのメンバーの中では、曲がりなりにもドラムを叩ける人間は自分をおいて他にいないだろうという予想はついていた。  ましてや演奏する曲はギターがふたりいるため、メインギターの僕が抜けたとしても野木がいればとりあえず演奏は成立する。  しかし僕はドラムを叩けるといっても大学時代に恩田からスティックの持ち方や手の使い方、スネアの音の出し方、そして基本的なエイトビートしか教わっていない。  恩田には笑いながら、お前はスジがいい、と言われたこともあったが、ドラムを教わってからすでに四半世紀が過ぎてしまっているため、今となってはまともにリズムが刻めるかどうか分かったものではない。  ぐるぐると思考と不安が頭の中を駆け巡りはじめたが、それらを解消する方法は僕が頑張ること以外にないということはとうの昔に理解していた。  僕は北園を促すようにして喫煙スペースを出て、待合室のソファーに腰かけた。 いま、この状態でなにを話していいのかお互いに探り合うまま時は流れ、結果としてふたりとも黙ったままで待ち合わせの2時を迎えてしまった。 「もう少し、ここで待つか。」  力のない北園の言葉にぼんやりと天井を見上げながら頷いてはみたものの、僕の頭は昨日の夜、ラーメン屋を出て家に帰ってからの出来事を反芻し始めていた。  蒲原とふたりで駅を出てからほとんど口をきかないまま互いの家へ向かう分かれ道まで来たとき、ふいに蒲原は不安を口にした。  本当にこの肘の痛みは治るんだろうか、このまま我慢した方がみんなのためなんじゃないか、自分の代わりに僕がドラムを叩くことでみんなの感覚がズレるんじゃないか。  正直なところ僕は心の奥でそれと似たような不安を抱えていたが、最後の部分に関しては明確に否定した。  僕と蒲原はいわば恩田の弟子で、教わった時期だけを見れば僕は兄弟子に当たる。  兄弟子が弟に迷惑をかけるわけにはいかないからできる限りのことはするので安心しろ。  お前は粟田と粟田の紹介する何者かの言うことをちゃんと聞いて、治すことだけに専念しろ。  蒲原は納得いったのかそうでないのか判然としない様子だったが、ひとこと礼を言ってから外灯の中を家へと戻っていった。  あんな見栄を切ってしまった僕は結局なかなか寝付けず、今朝は9時過ぎに起きだしてから大学時代に恩田から譲ってもらったジェフ・ポーカロ・モデルのスティックをテレビ脇のケースから取り出した。 それからヘッドホンをはめ、演奏曲のひとつであるヴァン・ヘイレンのキャント・ストップ・ラヴィン・ユーを何度もリピートで聴きながら、できるだけリズムを意識しつつドラムが目の前にある前提で練習をした。  またやってる、と言った感じでワイドショーがCMに切り替わるたびに向けられる妻の冷めた目が痛かったが、それでも何もしないよりはましだと思い、恩田のアドバイスを記憶の底から引っ張り出しながら僕は無心でスティックを振り続けた。  しばらくそうしているうちにある程度のリズムと構成を頭に入れることができた僕は、プレーヤーの液晶に表示された右向きの矢印をタップした。  少しの間隔が空いたあとで、両耳のイヤホンが懐かしく、そしてまだ少し心の痛むBマイナーのゆっくりとしたアルペジオを奏でだす。  ライブ盤のホテル・カリフォルニア。  僕たちの学生時代最後の演奏曲でもあり、僕が恩田にドラムを教わるときに使っていた課題曲だった。  変則的なハイハットにくぐもったようなバスドラム、そして乾いたスネアの音が僕の頭の真ん中でひとつになり、僕の手は知らず知らずのうちに教わったリズムを刻み始める。  やがて曲が進むにつれ、僕はまるで通りのケヤキ並木が窓から覗くあの軽音楽部の部室にいるような錯覚に陥っていた。 窓に面した僕の正面には恩田が立ち、動きのぎこちない僕に向かって楽しそうに、いくぶん大げさな動きを交えながら懸命に指導している。  「いいか、叩くとき最後に動かすのは手首じゃなくて指なんだよ。」 「打面とスティックが触れている時間を短くすれば、インパクトのある音になるぞ。」 「そうそう、そんな感じで腕全体を使って叩くんだ。 いい音になってきたじゃないか。」  「江田はいいスジしてるな。 本気でドラムも始めてみないか?」  「俺はお前と演奏してるときがいちばん楽しいって思えるわ。 ほんと、お前はいい仲間だよ。」  ……仲間。  そうだ、あのとき恩田は僕のことを仲間と呼んでくれた。  ……それを僕は。  リビングルームの景色に、白いもやが湧き出す。  僕は慌てて目を閉じてからかぶりを振り、大丈夫だ、と自分に言い聞かせてから耳に入ってくる音だけに集中した。  曲は最終盤のソロ回しに差しかかり、それに引きずられるようにして記憶がよみがえり、どういう訳か僕は、一段高い場所からステージを見下ろしていた。  目の前には僕のプレイを目で追いながら、互いに呼吸を合わせて演奏を続けるかつてのバンドメンバーたちがいる。  その一方でステージのいちばん端ではマーシャルの前でストラトを肩にかけた僕に似た男が、がっくりとうなだれている。  しかしその男はやがて弦の切れたギターでゆっくりとコードをストロークし始める。  それから僕の方を向いて白い歯を見せながら、親指を立ててみせた。  大丈夫だ。  僕のトリガー・ポイントはもう払拭されているのだ。  だから今は、できることをすればいい。  蒲原のために、リタイアーズのために、そして、僕自身のために。  不意に誰かに肩を叩かれる感覚で目を開けると、天井を背景にして北園が心配そうにこちらを覗き込んでいた。  僕は一瞬何が起こったか分からずに小さな悲鳴を上げてしまったが、北園はそれを見て安堵の表情を浮かべた。  「マメよお、なにをずーっと天井見上げながらぶつぶつとつぶやいてるんだよ? 僕がやらなきゃ、とかなんとかよ。 俺、お前が変になっちまったんじゃねえかと思ってよお。 お前までダメになったら、俺ら本当にどうしようもねえからよお。」  北園は驚くほど弱気な表情を見せながら、僕の肩を揺さぶっている。  そうか。普段は元気が売りの北園も本当はこれから先のことが見えずに怖いのだ。  「なにをそんなにビビってんだよ。 僕はゆうべラーメンを食べ過ぎて苦しくて寝れなかった。 だからちょっとうたた寝してた。 それだけだよ。 この年になると夜中のラーメンは応えるってのはゾノだって知ってるだろ?」  僕は北園の手を肩から離してから、わざとらしいとは分かっていたが出来るだけ馬鹿にしたような態度で話すようにして、少しでも北園の不安を払拭しようと試みた。  北園は少しのあいだ訝しんだような顔をしていたが、僕の意志を察したのか一瞬だけ眉を吊り上げてから大きな声で笑い始めた。  「わーかってるよ! どうせ下らねえ夢でも見てたんだろ? 僕がやらなきゃ、なんてどう考えてもアニメやドラマの台詞だもんな! それよりもあれだ! お前、本当にドラムなんか叩けるんだろうな?」  北園はそう言いながら胸ポケットから煙草の箱を取り出し、軽く手を震わせながら火をつけようとした。  「あら! やだちょっと! ここって禁煙じゃなかった? 店長さあん、ここに危なそうな顔した不届き者がいるわよお!」  僕たちのちょうど真横、入り口のドアから粟田の無遠慮な声が待合室に響いた。  その声に北園は慌てて火をつけようとした手を止め、大きな目で粟田を睨む。  「んだよ粟田! いるならいるって言えよ! そんなでっけえ図体して、足音を殺して入ってくるんじゃねえよ!」  北園は煙草を箱へ戻すと、なおも目をひん剥いて粟田に食って掛かる。  「それにお前、誰が犯罪者だ! 俺の売りは優しくて人畜無害な男なんだよ!」  粟田は北園の言葉に目を丸くしてから、うふふ、と口に手を当てて笑う。  「あら、よく言うわよ。 ついさっき刑務所から出てきたみたいな顔して。 こないだだってアーケードですれ違った3歳ぐらいの女の子、ゾノさんの顔見ただけでこの世の終わりみたいに泣き出したじゃないの。 それにアタシは犯罪者なんてひとことも行ってないわ。 不届き者、って言ったのよ。」  そう言うと粟田はずかずかと待合室に入ってきて、僕の隣にどっかりと腰を下ろした。  「マメさん、ゆうべお店を出るときずいぶん思いつめたような顔してたけど、ちゃんと寝られた? まあ、やっぱり期間限定とはいえ、蒲原ちゃんの代わりは荷が重いわよねえ。」  粟田はため息まじりにそう言うと、バッグの中からペットボトルのお茶を取り出して口をつけた。  「いや、確かに荷は重いけど、僕は覚悟を決めたよ。 それに、ホテル・カリフォルニアは恩田が僕に教えてくれたことがある。 他の3曲も、エイトビートぐらいならなんとか思い出しながら叩けそうだ。」  そう言った瞬間、粟田の顔が、ぱあっ、と輝いた。  「すごいじゃない! さすがマメさんだわ! 隣の犯罪者顔とは大違いよ! アタシたちも一生懸命サポートするから、なんとかあと一か月、よろしく頼むわね!」  粟田は北園の、誰が犯罪者顔だ、という言葉を完全にスルーしたまま話し終えると、お茶をひと息に飲み干してから立ち上がった。  「おい、それで蒲原と野木はどうしたんだよ。 なんでお前だけここに来てくっちゃべってんだ?」  「そりゃエイタの車で来たからに決まってるでしょ? 蒲原ちゃんはエイタの荷物を持つの手伝ってくれるんだって。 ほんと紳士よね、ガサツな顔の誰かさんと違って。」  粟田が自販機にお金を入れながらそう答えたとき、入り口のドアが開いた。  「ごめん、遅くなって! なんだ、ふたりともスタジオに入らないで待っててくれたんだ。」  野木が申し訳なさそうに顔の前で手を合わせながら近づいてくる後ろを、左ひじを包帯でぐるぐる巻きにされ、冴えない様子でエフェクターボードを持った蒲原が舌を向きながらおずおずと着いてきていた。  「蒲原! お前、手の調子は大丈夫なのか? 俺あ心配で……。」  北園が立ち上がりながら言おうとしたことを粟田が手で制して、壁の時計を手で指した。  「ねえ、その話はとりあえずスタジオに入ってからにしない? もう10分も過ぎちゃってるもの。」  そこにいる全員が視線を一点に集中させてから、誰ともなしに、ああ、と声を漏らし、そのままぞろぞろと二重扉が開いたままのA-3号室へと向かって歩き出した。  最後に蒲原が入室して扉の太いノブを回した瞬間、きいん、と耳鳴りのするような静寂が耳を刺した。  「さて、とりあえず……、エイタ、冷房つけてもらっていいかしら? 最強でね。」  野木はそう言われるのを予想していたかのように冷房のリモコンの近くに立っており、粟田の言葉が終わる前に短い電子音が聞こえた。  「あのね、みんな、そんな暗い顔しないで。 これから話すのは希望の話。 別に大会に出られなくなったとかそんな話じゃないんだから、もうちょっと楽に聞いて。 っていうか、まず座りましょう?」  そう言って蒲原は近くにあったスチールの丸椅子を引き寄せると、その上に腰を下ろす。  それにつられるようにして僕も近くのパイプ椅子を持ってドラムセットの前に移動した。  「それじゃあ、まずは今日どこに行ってきたかからね。 それは、アタシの知り合いの鍼灸師とスポーツ整体師のところよ。」  誰も口を挟まず、ただ黙って粟田の言葉に耳を傾けていた。  「昨日も言ったとおり、アタシは元・柔道整復師なの。 だからマッサージや固定で蒲原ちゃんの肘をある程度は治療することはできる。 でもそれだと、靭帯を伸ばしかけてるこの状態から1か月じゃあとてもじゃないけど完治なんてムリ。 だから、針治療とスポーツ整体を一緒に行うことで身体を柔らかくしつつ、肘に負担をかけないように治療していくのよ。」  粟田がそこまで話し終えたとき、珍しく黙って聞いていた北園がたまらずといった感じで口を挟んだ。  「なあ、柔道整復師ってのは要は整骨院だろ? そんで針治療もまあ分かる。 でもよ、なんで肘の治療に整体が必要になってくるんだ?」  粟田は何度か頷いてから、あのね、と切り出した。  「整体じゃないのよ、スポーツ整体。 ふつうの整体は骨盤矯正とか全身の歪みとかを治すのに特化してるんだけど、スポーツ整体っていうのはアスリートの筋肉をほぐしたり、アスリートだからこそ陥ってしまう骨格や筋肉の不具合を矯正することに特化した整体なの。」  「じゃあ、蒲原はアスリートだってのか?」  北園が短い言葉で僕の聞きたいことを代弁してくれた。  「ええ、身体はアスリートと言っても問題ないわね。 だって知ってる? 蒲原ちゃん、毎日1時間のランニングと筋トレ、10年以上欠かしたことがないんだって。 今日、初めて蒲原ちゃんの裸見ちゃったけど、そりゃあもう抱きつきたくなるほどの胸板……。」  野木の咳払いが聞こえたのと同時に、僕はどうして粟田が柔道整復師をやめることになったのか、ある程度の予測ができた。  「だけど、蒲原ちゃんの最大の弱点はそこにあってね。 力強くドラムを叩きたい一心で闇雲に筋肉をつけすぎたせいで、身体、特に上半身の柔軟性が失われちゃったのよ。 それはもう、ガッチガチのギンギン。 特に広背筋から僧帽筋、上腕四頭筋と三頭筋ね。 ここら辺の筋肉が凝り固まって、スネアを叩くときに肘で振り回さざるを得なくなっちゃってたのよ。 だから必然的にコージー・パウエルみたいなパワー型のドラムになってたのね。」  粟田が筋肉の名前を言うときに分かりやすく自分の身体のその箇所を指で示しながら説明してくれたおかげで、僕はどの部分が凝り固まっていたのかをイメージではなく視覚で理解することができた。  そしてよくよく見ると、確かにTシャツから覗く蒲原の腕は筋肉とともに血管が盛り上がり、よくテレビで見るスポーツ選手の鍛え上げられたそれと酷似していた。  「で、その筋肉をスポーツ整体でほぐしてもらうと、一か月後にはおそらく腕全体を使って柔らかく叩くことができるようになって、今と同じぐらいの音を腕に負担をかけることなく出せるようになるってわけよ。」  僕たちの、おお、という野太い声が防音壁に吸収されていく。  「ねえ、粟田さん。 その話は治療を受けながら聞いたけど、本当に僕の肘は良くなるの? 正直なところ、一か月も筋トレを休んだ上にドラムを叩かないっていうことは、これ以上ないストレスなんだ。」  蒲原がすがるような目で粟田を見ていた。  その様子を見ながら粟田は少し考えたあとで、ゆっくりと口を開く。  「蒲原ちゃん、ほんとにストイックねえ。 でもね、アンタそんなこと言ってるけど、もしかして……、本当はマメさんがドラムを叩くってことが信頼できていないんじゃない?」  蒲原は、はっとした表情を浮かべてから慌てて弁解する。  「違う! 僕はそんなこと……言ってない……。」  だんだんと小さくなっていく声に、僕は蒲原の葛藤を透かし見ることができたような気がした。  僕は確かにみんなの前でただの一度もドラムを叩いたことはない。  しかし僕はここ10年ほど、ドラムを教わったあの楽しかった時間を反芻するためだけに、恩田から譲られたドラムスティックでエアドラムを叩いてきた。  確かにそれはドラムセットを使わず、実際に音を出していないただの遊びではあったが、リズム感を培うにはもってこいの練習だった。  いま、そのプロセスを踏んできた僕ができることは、僕のドラムに少しでも蒲原の信頼を得ることだ。  そのためには、まずはいちどドラムを叩いてみないことには始まらない。  「蒲原、とりあえず一回叩かせてみてくれないか? それでおかしなところがあったら遠慮なく指摘してくれ。 僕はお前が安心して治療に専念できるなら、なんだってやるよ。 お前は僕のトリガー・ポイントを取り去ってくれたじゃないか。 今度は僕に、そのお礼をさせてくれよ。」  そう言いながら僕はギグバッグからスティックを取り出し、ドラムセットに座った。  「おい、なんだそのスティック。 色が変色しちまってるじゃねえかよ。」  北園が僕のスティックを指さしながら不思議そうな目でじっと見ている。  確かにスティックはこの10年ほどで僕の手垢にまみれ、持ち手の部分が黒く変色してしまっていた。  「マメさん、それ……。 何年も使わないとそんな色にならないはずだよ? しかも先端が殆どささくれてないってことは……、ずっとエアドラムしてたってこと?」  僕は自分が誰にも言っていなかったことをぴしゃりと言い当てられたのが、なんだかとても恥ずかしくなった。  「さすが本職のドラマーは見るところが違うな。 まあ、その通りだ。 どうしても恩田にドラムを教わったときの楽しさが忘れられなくてな。 せっかく恩田から譲られたものだし、捨てるわけにもいかないからたまに振ってたんだ。」  恥ずかしさを紛らわすために答えながらスティックをぶんぶんと振ってはみたものの、やはりどうしても頬の熱が引かない。  「恩田さんから譲られた? もしかして、ジェフ・ポーカロのモデル?」  「おお、そうだよ! こんなに変色してるのによく気が付いたな!」  僕はその観察眼に舌を巻いたが、蒲原はすこし悔しそうな顔をしていた。  それから蒲原は自分のスティックケースから殆ど新品のスティックを2本取り出すと、僕の目の前にそれを近づけてきた。  「僕も恩田さんと知り合ってからすぐ、それと同じものを貰って……。 俺の仲間はせっかく素質があったのにドラムに引き込めなかったけど、お前はなんとかしてこのジェフ・ポーカロのようなドラマーを目指せ、って。 そうか、マメさんのことだったんだ……。」  目の前の真新しいスティックを見ながら僕の脳裏には、学園祭の少し前に、お前をドラムの道に引きずり込めなかったお詫びだ、と言って恩田が僕にスティックを渡してきたときの光景がフラッシュバックした。  恩田はずっとジェフ・ポーカロのようなドラマーになりたいと言っていた。  そして僕は全否定したけれど、僕には頑張ればそうなれる素質があるかもしれないとも言っていた。  恩田は、自分が目指した先にあるものに自分はきっと届かないということをいつからか悟ってしまっていたのかもしれない。  だから僕や蒲原にその先へ進んでほしくて、このスティックを託してくれたのかもしれない。  これはあくまで予測の域を出ないが、恩田がドラムを叩きながらときおり見せていた苦しそうな表情の理由が、ほんの少しだけ垣間見えたような気がした。  「あの恩田さんが素質があるって言うくらいだから、きっと大丈夫だね。 怪我のせいでセンシティブになってたみたいだ……。 ごめんなさい。」  そう言うと蒲原はスティックを椅子の上に置いて腕を組み、小さく息を吸った。  「じゃあマメさん、一発スネアの音を下さい!」  僕は小さく頷いてから、大きく息を吸う。  25年ぶりのドラム。  僕はゆっくりと左手を上げ、恩田に教わった動きを忠実にトレースする。  はじめに肘を少し後ろに下げて、その力を利用して肘を素早くわずかに下へ振る。  続いて手首を鋭く動かし、上腕から波が伝わるような動きをイメージしてそのすべての力をスティックの先端に集中させる。  タァン!    自分の腹のあたりからはじけ飛ぶ、25年ぶりの鋭い音圧が鼓膜を打つ。  そう、この音だ。  ここ10年、恩田が教えてくれたとおりに腕を動かし続けたおかげで当時と同じような気持ちのいい音が出た。 それはとても懐かしく、まだまだだな、と言いながらも恩田が褒めてくれた音だった。  僕は思わず目を閉じ、掌に残るぴりぴりとした余韻を味わった。  それからゆっくりと目を開けると、目の前の4人が同じような顔をして僕をまじまじと眺めているのと目が合った。  僕は何が起きたのか分からず、ただ黙って僕を見る4人に恐る恐る口を開く。  「あの、何かおかしかったか? 今のスネアの音。」  それでも誰も何も言おうとしないので、もう一度同じことを聞こうとしたとき、野木が口を開いた。  「マメさん、今のスネア、偶然? なんだかすごく耳が痛くなるほどの音だったから。」  野木は自分の耳を人差し指で押さえながら、不思議そうな顔を浮かべている。  次に口を開いたのは粟田だった。  「なによ今のスネアの音! こないだまでの蒲原ちゃんの音と遜色ないじゃないの! そんなに力入れて叩いてるようには見えなかったけど、どうやったのよ!」  ドラムの音というのは叩いている本人とドラムセットの前にいる人間とでは聞こえる音の大きさが違うというが、どうやら僕自身が耳に軽く痛みを感じたということは、それを間近で聞いた場合はさらに鋭く大きな音に聞こえるらしい。  すると蒲原が、やや沈痛な面持ちで呟いた。  「……恩田さんの音だ。 まだ何か足りないけど、恩田さんのスネアの鋭さに……近い。」  僕はその言葉にどう答えていいか分からなかったが、蒲原は何かの感情を宿した目で僕を食い入るように見つめていた。  「僕はあいつに教わったとおりに腕を動かしただけだ。 なにも特別なことはしてないよ。」  「じゃあ、次はエイトビート叩いて下さいよ。」  蒲原は挑戦的な目を向けていたが、その奥にはどこか希望が宿っているようにも見えた。  僕は軽く頷いてから、ゆっくりとしたエイトビートを叩く。  クラッシュシンバルとバスドラムを同時にヒットさせ、そのまま右手をハイ・ハットへ。  ハイ・ハットで16分を刻みながら、スネアとバスドラムをリズムに乗せて叩いてゆく。    ズッ、タンッ! ズッズッ、タンッ!    あまりに久しぶりのドラムセットのためにはじめはうまく感覚が掴めなかったが、やがて僕の身体は徐々に記憶を取り戻し、頭の内側に巡るエイトビートを自動的に刻み始めた。  「おいおい! やるじゃねえか、マメ!」  北園が手を叩きながら喜んでいる。  粟田と野木が手を取り合っている。  そして蒲原は……  白い歯を見せながら笑っていた。  「すごいよマメさん! これだけ叩けるなら、安心して1か月間治療に専念できるよ!」  僕はエイトビートを刻み続けながら、蒲原に大きく頷いた。  「じゃあ、これで決まりだな! 俺がお前の代役をきっちりと勤め上げてみせる。 だからお前は絶対に1か月後の土曜日、完ぺきな状態でここに戻って来いよな。 それと粟田、蒲原の治療、よろしく頼むな!」  ドラムを中断し、僕は粟田にできる限り深く頭を下げた。  「あったりまえじゃない! 正直、こんだけしっかりしたドラムだなんてアタシだって驚いてるんだから! こんないい仲間持って幸せよね、蒲原ちゃんは。 私も全力で治療してあげるから、ちゃんと筋トレもドラムも我慢しなさいよ!」  蒲原は右手の親指を立ててそれに答えてから、僕の方に向き直った。  「マメさん、僕は今まで恩田さんからちゃんと教わらなかったのをいいことに、すっかり力任せのドラムになってた。 でもマメさんみたいにしなやかなドラムが叩きたい。 恩田さんは何て言ってその叩き方をマメさんに教えたのか、僕にも教えて欲しい。 いや、教えて欲しいです、お願いします。」  蒲原はいちど頭を下げてから、僕に一歩近づいた。  「なんて教わったか……、そうだな、とにかく腕全体で波のような動きができればスティックにスピードが伝わるって言われたよ。 それと、打面とスティックが触れている時間が短いほどインパクトのある音になるとか……。」  僕は記憶をたどりながら、背中越しの恩田の声を思い出した。  蒲原はそれを真剣な目で聞いている。  そのとき僕の脳裏に恩田が、これがいちばん大事な部分だ、と念を押してから言った言葉が不意に蘇った。  「ああ、そういえば、スティックをいちばん最後に動かすのは指だ、っていうのを意識しろ、って言ってたな。 まあ、僕にはよく分からなかったけど。」  その言葉を聞いた蒲原は不可解な顔で自分の指をまじまじと見つめている。  「でもよお、ドラムってのは手首が大事だって言うよな? ぎっちりスティックを握って、腕と手首を使って強い音を出すのがいいんだろう? なあ、蒲原。」  北園が眉間に皺を寄せながら蒲原に尋ねる。  蒲原は、うん……、と気のない返事をしてから、スティックを握ったり指を動かしたりを繰り返していたが、やがてその動きがぴたりと止まった。  「そうか……、そういうことか。 最後は指。 波の動きを伝え切るのは、指……。」  ぶつぶつとつぶやきながら、蒲原は左手の中指から小指までを何度も握っている。  「蒲原ちゃん、肘は動かしちゃダメよ! いくら固定してるとはいえ……。」  粟田がそうたしなめると、蒲原は強くかぶりを振った。  「違うんだよ粟田さん。 肘はごく一部なんだ。 腕全体を使うなかで、肘はそのジョイントのひとつに過ぎないんだよ。 大事なのは指だったんだ。」  訝しげな表情の粟田たちに向けて、蒲原は自分の左掌を筒状にして見せながら続けた。  「僕は今までゾノさんの言うとおり、スティックを強く握って肘と手首で力を伝えてた。 でもね、大事なのはスティックを握るんじゃなく、指で支えるようにすること。 手の中に空洞を作って、叩く瞬間に一瞬だけ握ることでスティックのスピードを上げてインパクトの時間を限りなく短くする。 これが大事だったんだ……。」  蒲原は何度も頷きながら、スティックを指の動きだけでひゅんひゅんと素早く振っている。  「そうか、これなら肘にかかっていた負担を分散できる。 マメさん、ありがとうございます! おかげでこれから先の一か月間の練習方法が分かりました! その間に手首と指をうまく使えるようになれれば、肘の固定が取れたときに今までよりもいい音で叩けるような気がします!」  蒲原の目はらんらんと輝き、そのままの勢いで僕に握手を求めてきた。  僕はそれに応えながら、よろしく頼むぞ、と短く伝えて手を離す。  「ところでよ。」  スタジオが心地よい空気に包まれはじめたところで、北園がここぞとばかりに口を挟む。  「俺らのなかで敬語はやめようって話じゃなかったか?」  粟田は驚くほど大きなため息をついてから、やれやれ、といった表情で北園を見やった。  「あのねえアンタ、こんなときは仕方ないじゃないのよ、そんなこと。 そんなんだから、どこぞの飲み屋のかんなちゃんにも愛想尽かされるのよ!」  北園の顔が見る間に赤くなる。  「かんなってのは飲み屋の姉ちゃんじゃねえよ! 勝手なこと言ってんじゃねえぞ、この白だるま!」  白だるまという言葉のあまりの違和感のなさに、僕と野木が同時に吹き出した。  粟田が血相を変えてこちらを振り向く。  「ちょっと! なに笑ってんのよマメさん! エイタも! って、なに? 今までみんなアタシのこと、白だるまだって思ってたの?」  粟田の必死の問いかけにも、下を向いたまま誰も何も答えない。  「はああ? ふざけんのもいい加減にして! アタシは昔、患者さんから張り子みたいな先生だって言われてたのよ? 張り子って壊れやすくて繊細ってことでしょ? 違うの?」  真っ赤になって唾を飛ばす粟田の姿はすでに通常のだるまに近いものがあったが、そこに野木が爽やかにとどめを刺した。  「張り子って、要はだるまのことだよ。 あと、中身が空洞ですっからかんって意味。」  目の前の頼りになるだるまは、白から赤、最後は青にその色を目まぐるしく変えてから黙り込んだ。   続く
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