第八章 紺色のトリガー・ポイント

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第八章 紺色のトリガー・ポイント

 四週間前と同じく、時計は午後2時5分前を指していた。  そしてやはり四週間前と同じく、スタジオ176の待合室には僕と北園のふたりだけが座っている。  異なるのは、北園の表情があのときとは違って希望に満ちたものになっていることだ。  「しかしスポーツ整体とか針治療ってのはすげえな。 3か月かかるって言われた蒲原の肘をたった一か月で普通に動かせるようにしちまうんだからよお。」  今から15分ほど前、僕と北園は粟田から同じメッセージを受け取っていた。  「蒲原ちゃんの肘、お墨付きが出ました!」  たくさんのハートマークで彩られたその短い文章は、オネエという突き抜けたキャラクターの陰に隠れて普段はあまり表に出ない粟田の素直な感情を如実に物語っていた。  そもそも蒲原の肘に異常が発生したのを最初に見抜いたのは粟田だということを考えれば、その理由にも納得がいく。  もし粟田があの時点で蒲原の症状に気づいていなければ、きっと今ごろリタイアーズは大会への出場を辞退するという最悪の決断をしていた頃だっただろう。  そのシナリオを未然に阻止しただけでなく、バンドの音作りの要である蒲原のプライドを損ねないまま、周りを頼るということの大切さを教え込んだ粟田のリタイアーズへの功績は絶大なものがある、と僕はここ数週間でそう強く思うようになっていた。  同様にバンマスである北園は、軽口を叩きながらも誰よりも粟田への強い尊敬の念を募らせてきたことは僕たちの目にも手に取るように分かっていた。  「でもよ、あれから蒲原はいちどもドラムを叩いてないわけだろ? それで今日は最後の練習ときた。 たった三時間で何もしなかった一か月の勘が取り戻せるもんかね?」  北園が珍しく考え込むような顔をしながらつぶやいた。  「その点については大丈夫だと思う。」  僕が自信をもってそう答えると、すぐに北園の眉間にしわが寄った。  「なんでそう言い切れるんだよ。 だって蒲原はこの一か月ずーっとエアドラム叩いて、お前が教えたとおりに右手でタオル振ってただけだろ? それで本当に大丈夫なのかね?」  今日顔を合わせてから初めて見る北園の不安げな表情は、それでも、蒲原ならきっと大丈夫だという根拠のない自信がそちらこちらから見え隠れしているようだった。  「僕は恩田から教わったけどできなかったことをそのまま蒲原に伝えただけだ。 タオルもまともに振れない奴はドラムでまともな音なんか出せない、ってよく部室でタオルを振らされていたからね。」  僕の脳裏に、恩田とふたりで延々とタオルを振りながらくだらない話に興じていた光景がふいに蘇った。  思えば僕と恩田のタオルから発せられる音の質はまるで違っていて、しかも恩田は鼻歌でも歌うかのように腕の力を抜いてその鋭い音を出していた。  「それでもやっぱり蒲原はすごいよ。 僕がタオルの話をしてすぐにその意味を理解して、30分後には右手で恩田に近い鋭い音を出せていたからね。」  それは蒲原が治療に専念するためにスタジオへ姿を現さなくなってすぐのことだった。  僕は何か蒲原の練習の手助けができないかと頭を悩ませていたとき、恩田が教えてくれたタオルトレーニングの話を思い出し、その足で蒲原の家へ赴いた。  そこで恩田の言葉をそのまま伝えたところ、驚くことに蒲原はあっという間にタオルを鋭く振るコツを身に付けてしまい、いくら練習してもその音が出せなかった僕はあまりのことに素直に度肝を抜かれてしまった。  「そうか、あとはこれを左手でもできるように、右手にこの感覚をきっちり植え付ければいいんだね。 ありがとうマメさん!」  僕がどれだけ練習してもできなかったことをさらりと言ってのけた蒲原に羨望とわずかな嫉妬を感じはしたが、それよりもそのときは天井なしの頼もしさが本当に有難かった。  それから蒲原とは何度か顔を合わせてはいるが、今日はきっと素晴らしく成長した姿を僕たちの前に見せてくれるのだろう。  「でもあいつら遅いよな。 どこで油売ってやがんだよ、全く。」  北園がそう言って喫煙スペースへ立ちかけたとき、入り口のドアが滑るように開いた。  「ただいま戻りましたー!」  そこには、固定具が外れた左手でスティックケースを高々と掲げた蒲原が満面の笑顔で立っていた。  「んだよ、バカ野郎! 遅せえよ蒲原!」  北園がその荒い言葉とは裏腹に、口角の上がり切った表情を貼り付けながら煙草を胸ポケットにしまい込む。  「あら、これでも急いだのよねー、蒲原ちゃん。 ちょっとお昼ごはんで時間を取られて遅くなっちゃっただけよ。 それをアンタはほんとにもう! 何様のつもりなの?」  蒲原のあとに続いて大きな身体を揺らしながら入ってきた粟田が北園を一瞥する。  「んだと? おおかたお前がバカみてえに食って遅くなったんだろうが、白だるま!」  もはや恒例の挨拶となった北園と粟田のやり取りが繰り広げられるなか、最後に野木がすらりとした長身をふたりの間に割り込ませた。  「さすがゾノさん、大正解。 ユウったらね、セルフでおかわり自由なのをいいことに、5杯もおかわりしてくれちゃって。 味の濃いチキン南蛮定食なんか頼ませなきゃよかった。」  野木がメガネのズレを直しながらそう言ってため息をつくと、粟田が慌てたように弁明を始める。  「だって大会前の最後の練習ってときに4杯って縁起悪いじゃない! だからアタシは無理して5杯目を……。」  そこまで口にしたとき、野木が粟田の腹肉をぎりり、とつねった。  「痛い! なにすんのよエイタ!」  「ユウ、嘘つかないでよ。 あなた、5杯目のご飯がいちばん大盛りだったじゃない!」  呆れたようにそう口にした野木の前で、粟田は、しまった、という顔をしたあとで黙った。  「さて、白だるまの食い意地がばれたところでスタジオ入ろうや。 こっちは早くみんなで音合わせしたくてうずうずしてたんだからよ!」  そう早口でまくし立てると、北園は鼻歌まじりにベースの入ったギグバッグをかついで小躍りするようにA-1スタジオへと姿を消した。  「なんだかんだでゾノさん、本当に蒲原くんが戻ってくるのを楽しみにしてたんだね……。」  感慨深げに野木がつぶやくと、続けて蒲原が口を開いた。  「マメさん、一か月間、僕の代わりにドラムを叩いてくれて本当にありがとうございました。 おかげで本気で治療に専念できましたし、タオルの件も感謝してます。」  僕が遠慮がちに手を振ると、蒲原の視線が野木に向いた。 「野木さん、鍼灸院や整体院に送り迎えしてくれて本当にありがとうございました。 車も運転できなかったので、本当に助かりました。」  そう言って頭を下げる蒲原に、野木は整った笑顔を返す。 「あと、粟田さんは固定具を作ってくれたり包帯をくれたり、とにかくみんながいなかったら僕は今、ここにいないです。 改めて、本当にありがとうございました。」  もういちど深く頭を下げる蒲原の肩を、野木が優しく二度叩いた。  「僕たちは当たり前のことをしただけさ。 それに不便な生活を強いられながら肘を動かさないようにして、そのうえスポーツ整体の痛みに耐えた君の方が大変だったはずだよ。 だから今日は、治療してくれた先生たちのお墨付きも出たことだし、思い切り叩いて練習を締めくくろう。」  その言葉に、顔を上げた蒲原の顔がぱあっと輝く。  「そうよ、アタシたちは蒲原ちゃんだから一生懸命に頑張ったの。 怪我したのが先にスタジオに入っちゃったモジャ河童だったら、最初から諦めてたわ。」  「おい、誰がモジャ河童だ?」  いつの間にか北園が粟田の背後に立ち、その太い首根っこを掴み上げていた。  「あんまりスタジオに入ってこねえから何事だと思って来てみたら、俺のことをそんな風に呼んでたんだな? この白だるまは。」  「ちょっと、離してよ! 首が太くなっちゃうじゃない! それにこの一か月、アンタが蒲原ちゃんのことをたいして気にかけてなかったから薄情者だって言おうとしたとこよ!」  粟田がそう言い終わると、北園は、けっ、と毒づいてから手を放した。  「てめえの首はもともとタイヤみてえに太いじゃねえか! ほれ、いつまでもくっちゃべってねえで早くスタジオ入ろうぜ!」  いつもならここでもうひと悶着ありそうなものだが、今日の北園はそう言ってから優しい笑顔を浮かべ、もういちどスタジオへ姿を消した。  その背中を見送りながら、蒲原が感慨深げに口を開く。  「あんな感じだけどね、実は北園さんがいちばん僕に電話してくれたし、トラックで遠くまで行ったときにそこのお土産を買ったついでだ、って僕のことを見舞いに来てくれてたんだよ。」  それを聞いた粟田は、はじめ驚いた表情を浮かべてから下を向いた。  「そうなの……、そんなこととは知らずにアタシ、失礼なこと言っちゃったわね。 後で謝っておかなきゃダメね。」  「その気持ちだけで十分なんじゃない? ユウがそんなにしおらしくなっちゃったら、ゾノさんかえって気持ち悪がるよ。」  そう言いながら野木が粟田の背中を、ばちん、と叩いてスタジオへ促した。    ここ2週間は土日のほかに水曜日の夜も通っていたスタジオの風景はとっくに見慣れていたが、今日の僕はVOXのアンプの前に立ち、蒲原はこないだまで僕が座っていたドラムセットの後ろでスティックをひゅんひゅんと軽く振っている。  周りを見回すと、音量やエフェクターの調整に勤しむ仲間たちの顔は、いつもにも増して笑顔だった。  決してこないだまでみんな仏頂面をぶら下げて演奏していたわけではないが、やはり収まるべき場所に収まるべき人がいるというのは明らかに場の雰囲気に安心感と喜びを植え付けるのだということがよく分かった。  やがてディストーションの調整を終えた北園が蒲原の方に向き直る。  「蒲原、最初は無理しないでいいからよ。 軽くエイトビート刻んでくれよ。」  それに蒲原は片方のスティックを上げて応え、ミドルテンポのエイトビートを叩きはじめた。  一か月間のブランクなどまるで感じさせない重みのあるバスドラムの響きと、張りのあるスネアの音がスタジオの壁を駆け巡って消えてゆく。  その音を聞いた仲間から、誰ともなしに笑顔が漏れだす。  自然と口角が上がるのを意識しつつリバーブを調整する手を止めて蒲原に目をやったとき、僕は思わず感嘆の声を漏らしてしまった。  一か月前の蒲原からは考えられないほどに、ドラムを叩く動きが見違えていた。  肩からは力が抜け、腕全体をしなやかな波のように使ったその動作は、まるでスティックが腕と一体化したかのようにドラムの上ではじけ飛んでいる。  聞こえてくる音のみならずその踊り跳ねるようなスティックの動きから、インパクトのスピードが以前とは比べ物にならないほど速くなっていることが窺えた。  そのドラムを叩く姿が、耳に響く音が、まるで恩田がそこにいるような錯覚を僕に与える。  僕は自分でも不思議なほどにギターをかき鳴らしたい衝動に駆られ、ファズを力強く踏みつけた。  北園は、僕の気持ちをすべて理解したかのような笑みを浮かべながら足でリズムを取り、ゆったりとしたベースを弾きはじめる。  A/D/A/E/D/A/E。  北園の指が奏でる音で、ルートAブルースの土台が形成される。  僕は12小節を聴き終える直前に、5フレットまで人差し指を滑らせてAコードをかき鳴らした。  野木も同じタイミングでローフレットのAを弾く。  ワンテンポ遅れて、粟田がピアノを被せた。  蒲原がドラムを叩きはじめてからわずか20秒足らずで、スタジオはジャム・セッションのステージへと早変わりしてしまった。  みんな、互いを見回しながら笑っている。  ただただ、音楽という趣味を超えた空間に身を浸している。  たとえ誰かが少し指の位置を間違って不協和音が顔を覗かせたとしても、すぐにそれは融和した音の中へ溶けてゆく。  僕の脳内にアドレナリンがあふれだす。  すべての動きがゆっくりに見え、いつも以上に指が滑りはじめる。  ペンタトニックからドリアン・スケールへ切り替え、曲は続く。  ふと時計を見上げたタイミングですでに5分近く演奏していることに気づくが、僕は、いや、僕たちはまだまだこの時間を終わらせるつもりはなかった。  やがて気持ちの乗ってきた蒲原の音が、ダイナミクスの垣根を越えて次第に大きくなってくる。  ここでいつもなら得意のドラムソロへと移行するのだが、蒲原は12小節ごとのフィルインを正確に打つだけで、ただ楽しそうに、しなやかに周りとの調和を楽しみながらドラムを叩いているように見えた。  目立とうとする気持ちを消せるまで成長したんだな、と感慨深く蒲原のしなやかな腕の動きを眺めながら、僕はもういちどペンタトニック・スケールへ運指を変える。  そのまましばらく演奏は続いたが、10分が過ぎたあたりで蒲原は肘の様子を伺うようにいちど大きく息を吸い、きっ、と目つきを変えた。  その所作で蒲原が肘にゴーサインを出し、本気を出すつもりだというのが分かった。  数秒後、もう何度目か分からないフィルインが終わった次の瞬間だった。  蒲原のスティックが、残像すら残さないほどのスピードでスネアのど真ん中を射抜いた。  タァンッ!  ……そこにいたのは、恩田だった。  間違いなく、恩田のスネアの音だった。  僕が20数年前に聴いていた、まるで身体に突き刺さるようなスネアの音が、耳の外と内から同時に僕の鼓膜を打った。  きいん、という残響が縦横無尽に駆け巡る。  僕の手は止まり、あまりの懐かしさに思わず、ああ、と小さく声を漏らしていた。  慌てて演奏に戻るべく指板をなぞろうとしたが、込み上げる想いに勝てずそのまま手を止めてしまう。  焦りから周りを見渡すと、驚くことに演奏を止めていたのは僕だけではなかった。  「え、ちょっと、蒲原ちゃん! なんなのよ、今のスネアの音!」  粟田が目を丸くしながら蒲原を驚いた様子で見つめている。  野木と北園に至っては、指を耳に入れて眉間に皺を寄せていた。  僕たちの視線の先でゆっくりと手を止めた蒲原が、まじまじと自分の両手を眺めている。  自分でも何が起こったのか分からないといった様子だ。 「えっと……なんか今、初めての感覚だった。 インパクトの瞬間、肘から先、ううん、腕全体を衝撃が駆け抜けていくみたいな……、おかしいな、なんて言ったらいいんだろう?」  不思議そうに左手を振る蒲原の問いに、眉間に皺が残ったままの北園が答える。 「今のがあれじゃねえのか? 音が抜けるってやつ。 なんだかすげえ尖った音してたぞ?」  音が抜ける。  言うのは簡単だが、抜けた音を出すのはほんとうに難しいのだと恩田がよく言っていた。  あの頃の恩田はいつもそれを意識しながらドラムと向き合っていると言っていたし、実際に恩田の繰り出す音は他の楽器の音をあっさりと貫通して真っすぐ僕の耳に届いていた。  その音を、蒲原が、出してくれた。  嬉しかった。  理由は分からないが、とにかく蒲原への感謝が胸に込み上げていた。  僕は演奏が止まったこのタイミングでどうしてもそれを伝えたくて口を開こうとしたが、頭と口がうまくリンクしない。 「恩田っ、言って、たっ。 抜ける音、いつも、目指してっ……。 同じっ、同じ……」  言葉が上手く喉の壁を越えない。  不測の出来事に焦り、なおも何かを口にしようとしたそのとき、驚いた表情をした北園と目が合った。 「嘘だろマメ! なにを泣いてやがんだあ?」  泣いている?  僕が?  北園の言葉の意味を飲み込めないまま頬へ指を走らせると、やんわりと温かいものが触れた。  全く気付かぬうちに、僕は、泣いていた。  理由はすぐに思い当たらなかったが、溢れんばかりに感じている思いを辿ってゆくことで蒲原のスネアの音に行き着いた。  僕はさっきの音がひどく懐かしく、その音にまた触れられたことがこの上なく嬉しかったのだ。  僕はこぼれる涙を無視して、できる限り丁寧に言葉を繋ごうと試みる。 「蒲原の音が、恩田が叩いたスネアの音に……、聞こえたんだ。 同じ、音だった。 あの頃、ギターを持った僕の後ろでずっと響いていたあの音と、同じ音だったんだ」  どうしても感情が先に出てしまい、言葉がうまくつながらない。  しかし僕のつたない言葉を聞いた蒲原の顔は、これまでに見たこともないほどの笑顔を湛えていた。 「マメさん! 俺の音が本当に、本当に恩田さんの音に聞こえた? 本当に?」  ドラムセットから身を乗り出さんばかりの勢いで喰いつく蒲原に、僕は何度も首を縦に振ってみせる。  蒲原は、ぎゅっ、ときつく目を閉じて椅子に腰を落としてから、小さく、やった、とつぶやいた。 「絶対にマメさんのお陰だよ。 マメさんがタオルを使った練習方法を教えてくれたから!」  北園の視線が僕に突き刺さる。 「おいマメ、どういうこった? タオルでどうやってドラムが上手くなるんだよ?」  言い終わってから、納得のいかなそうな顔で北園が僕と蒲原を交互に見ている。  蒲原は僕にいちど目くばせをして、北園に優しく微笑んだ。 「タオルを振るときは、手首と腕の動きが素早くリンクしないといい音が出ないんだ。しかも、力んで腕に負担がかかる動きをしても軸がぶれてしまっていい音が出ないっていう完ぺきな練習方法なんだよ」  北園の顔から怪訝さが消えてゆく。 「だから僕は動かせる右手で何度も何度もタオルを振ってみて、ようやくコツを掴んでいい音が出せるようになった。その感覚でスネアを叩いたら、いきなりみんなの動きが止まっちゃったからさ、焦ったよもうー」  最後は笑いながら口にする蒲原の口調は、滲み出る嬉しさを隠しきれていない。 「へえ! そんな願ったり叶ったりの練習をどうしてマメが?」  少しだけ間が空いて、北園が声のトーンを上げた。 「ああ! 恩田ってやつの影響かあ! なんだよ、ここに来て敵さんが役に立ったなあ!」 「ゾノさん、それは違うよ」  豪快に笑う北園を見ていた野木が、いつもより大きな声でたしなめる。 「恩田さんって人は敵なんかじゃない。蒲原くんもマメさんも、世話になった恩田さんの前でいい演奏ができるように練習してきたんだ。そのお陰でリタイアーズはレベルアップしたわけでしょ。むしろ恩田さんはリタイアーズにとっての救世主だと思うな。」 「そうよ! 今回の蒲原ちゃんのことだってそう! バラバラになりそうなときにアタシたちを繋ぎとめてくれたのは、結局のところその恩田さんじゃない! それを親の仇だなんてよく言えたものよね、このモジャ河童は!」  野木に続いて粟田が援護射撃を浴びせる。  まったく予想していなかった集中砲火に北園の表情が二転三転し、最後は元気なくうなだれた。 「んだよ……、悪かったよ。別に俺ぁそういうつもりで言ったんじゃねえよ。ただ、その、なんだ。そう、物の例えとして言っただけじゃねえかよ。それに親の仇なんて言ってねえし、俺のパーマに対してモジャ河童はやめろ、白だるま」  珍しく北園がすぐに折れたのを見届けると、粟田は、ふん、と鼻をひとつ鳴らした。 「さ、こんなことしてないで早く練習しましょ! 泣いても笑っても2時間半しか練習できないのよ!」  みんなが壁の時計へ目をやる。 「そうだね、ようやくベストな状態のリタイアーズになったんだから、ここからはこの時間を楽しんで、明日は最高の演奏を恩田さんに聞かせようよ」  野木はそう言ってAsus4の音をひとつ鳴らした。  その瞬間、脊髄が反応したように僕の頭と身体はヴァン・ヘイレンのキャント・ストップ・ラヴィン・ユーを弾く態勢に入る。  見ている間にみんなも素早く演奏の態勢に入り、蒲原のカウントへ神経を集中させている。  視線の先で、蒲原が両手を上げる。  振り下ろされる手から、ヒッコリー材の乾いたカウントが刻まれる。  僕は前奏のコードをかき鳴らしながらこの二か月で起きたたくさんの出来事を思い出していた。  本当にいろいろなことがあった。  それでも明日、僕たちが紡いだ物語が恩田の目の前で完結する。  大丈夫だ。  僕たちは、大丈夫だ。  みんな、互いの存在を確認するように笑っている。  音楽という素晴らしい繋がりが生んだこの瞬間を精一杯に楽しむために、僕たちは今ここにいるのだ。  僕がコードを弾き終わると、無言のアイコンタクトが行き交う。  タイミングを合わせ、声を合わせて叫んだ。  気持ちはもう、ひとつなんだ。  「Ha!!」      8月第1週の日曜日、午前10時前、県民文化センターはまだ開いていなかった。  天気は雲ひとつない快晴の下、駐車場を囲うように植えられた楓の木からは間断なく蝉しぐれが降り注いでいる。  気温は容赦なく温度計を急き立て、入り口脇に据えられた巨大なデジタル温度計はすでに33度を示していた。 「ねえ、なんなのこの暑さ。いくらなんでもひどすぎない? なんとかしてよゾノさん。」  だくだくと額を伝う汗を懸命にぬぐいながら、半分溶けかかった棒アイスをねぶる粟田が隣に座る北園に話しかける。  北園はその姿を見ていちど眉間に皺を寄せ、それからふいと目を逸らす。 「なによ、無視するの?」  粟田が不機嫌そうな声で喰ってかかると、北園は長いため息のあとで面倒くさそうに口を開いた。 「あのな、じゃあはっきり言ってやる。まずその汗、暑いとはいえいくらなんでもかきすぎだろ。 お前は華厳の滝か?」  その言葉に、粟田は棒アイスを口からちゅぽん、と出して反論する。 「誰が中禅寺湖よ! だって体質なんだから仕方ないでしょ! だからこうして汗を止めようとしてアイス食べてるんじゃないの、ねえエイタ?」  じっとひとした目を向けられた野木は、軽い侮蔑の表情を浮かべたまま口を開く。 「だからって10本入りのボックスアイスひとりで食べるなんておかしいでしょ? そんなだからいま食べてる最後の一本、ほとんど溶けてるんじゃない」  粟田は大きな尻の横に置かれた空箱を慌てたようにTシャツの中に隠すと、また溶けかけたアイスをゆっくりとねぶり始めた。  それを見て、北園がまた大きなため息をつく。 「あのなあ、その食べ方は何なんだ白だるま。さっきから何度も何度も咥えて出してしやがって。挙げ句の果てにぺろぺろ先っちょ舐めてんじゃねえよ! 男だったら、ガッ! と食っちまえってんだ!」  粟田は目を丸くしていたが、やがて口から先端の細くなったアイスを取り出して、にやあ、といやらしい笑みを浮かべた。 「あらゾノさん。なんかいやらしいこと考えてたんじゃないの? あと2時間後には本番だってのにずいぶんと余裕ね、このエロ河童!」  向かいのベンチで僕と蒲原はこのやり取りに笑いが止まらなくなっていたが、どうやらそれが気に入らないらしい北園が目を剥いてこちらを睨みつける。 「笑ってんじゃねえってんだよ、おい! いくらベンチが5人分しかないからって、なんで俺が白だるまの横に座んなきゃいけねえんだよ! おかげでこっちは緊張感も本番前の集中もめちゃくちゃじゃねえか! 蒲原、席代われ!」  必死の訴えは僕たちの笑い声に一蹴され、なおも納得のいかない北園はそのままふんぞり返るようにして腕を組んだまま黙ってしまった。 「じゃあ、僕たちが何か飲み物買ってくるから、ゾノさんここに座ればいいじゃない」  蒲原が腰を上げ、僕の目を見た。 「そう、僕らが飲み物を買ってくる間だけここに座ってていいぞ。その代わり、僕らが戻ってきたらまた粟田の横がお前の指定席だからな」  できるだけ意地悪なニュアンスを含めて言ってやると、当たり前のように北園が噛みついてきた。 「そう言ってすぐに戻ってくるつもりだろ! ここは大人なんだから忖度して、裏口のところにあった自販機で買ってくるのが優しさってもんだ。最低でも5分以上はうろついてこい!」  北園の言葉を要約すると、できるだけ長いこと席を空けろ、ということらしい。  僕が目を合わせると、蒲原は優しい顔で頷いた。 「分かったよ。じゃあ裏口で買ってきてやる。何が飲みたい?」  コーヒー! とぶっきらぼうに言い放つ北園の脇から、コーラ2本! という粟田の声が聞こえ、それをたしなめながら野木が申し訳なさそうにミルクティーをリクエストした。 「了解。それじゃあとっとと走って行こう、蒲原!」 「走るなあ!」  背中から聞こえる北園の悲鳴に似た声を無視して、僕たちは文化センターの外周を走った。  やがて3人の姿が見えなくなったところで僕たちは足を止めて、声を上げて笑った。 「いやあ、やっぱりいいなあのふたり。あれだけ遠慮なしに言い合えるってことは、本当に仲がいいってことだもんなあ」  蒲原が目尻に手を当てながら僕を見る。 「僕は野木の存在がそれに拍車をかけてるような気がするな。あいつの粟田に対するツッコミは本当に僕のツボなんだ。ありゃあもうトリオ漫才だな」  分かる分かる、と蒲原が頷く。  笑いが鳴りを潜めるまで壁にもたれかかってから、僕たちはゆっくりと裏口に向かって歩きはじめた。  歩いてみて初めて分かったが、建物は予想よりもはるかに大きく、裏口まではかなりの距離を歩くことになりそうだった。 「なんだ、けっこうあるなあ。こりゃあ5分じゃ戻れそうにないな」  資材搬入口を横目に、蒲原が意地悪いことを言う。  それからひとつ、ぽん、と手を叩いた蒲原は、いいことを思い付いたといった顔で僕へ向き直った。 「僕、走って先に行く。そんで飲み物を買ったらまた戻ってくるから、マメさんはゆっくり休んでて」  言うが早いか蒲原はそのまま走り出し、身体をこちらに向けながら軽く手を振った。 「ありがとうな! でもせっかくだから途中まで歩いていくわー!」  遠ざかってゆく蒲原の背中に声をかけてすぐ、その背中は資材置き場の向こうへと消えていった。  話す相手がいなくなったことでなんとなく寂しさを覚えたが、1か月前はあれほど落ち込んでいた蒲原がこれだけ元気になったことが素直に嬉しかった。  それもこれもリタイアーズを繋ぐ見えない絆と恩田という存在のおかげなのだと思うと、目の前に迫った決戦の時を迎えることができた喜びに、なにかこみ上げてくるものがあった。  僕はすっかり脆くなった涙腺を押さえながら歩いたが、いっこうに蒲原が戻ってくる気配がない。  裏口までの距離を考えても、蒲原の脚力ならばそろそろ戻ってきてもいい頃合いのはずだ。  そこで僕は大きな見落としに気づいた。  5本もの飲み物を、袋もなしにどうやって抱えるというのだ。  根本的な問題に気付かなかった僕の頭の中に、同じく自分の浅はかさに気づいた蒲原が自販機の前で困っている光景が目に浮かんだ。  これは早く行って手伝ってやらないといけない。  僕は歩を速め、裏口の見える角を曲がった。  視線の先では案の定、自販機に隠れるようにして蒲原がうつむいたまま立ち尽くしている。 「ごめん、さすがにひとりで5本は無理だよなあ!」  僕が笑いながら近づくと、蒲原は顔だけを力なくこちらへ向けた。  その表情を見て、僕の全身にぞわぞわとしたものが走る。  自販機の陰に、男が立っていた。  紺色のジャケットにすらりと伸びた手足、180センチを超える身長、見覚えのあるウェーブがかった長髪は、相変わらず無造作に束ねられている。  見えている現実と湧き出る記憶が、区別がつかないほど濃密に絡み合う。  蒲原を見下ろすように立っているのは、僕がトリガー・ポイントに仕立て上げてしまった人物。  僕がどうしても会わなければいけなくて、どうしても乗り越えなければいけない存在。 「江田? お前、江田……なのか?」  目の前では蒲原から視線をこちらへ移した恩田昇也が、いくつもの感情が入り混じった目で、押し黙ったまま僕を見つめていた。  どうしようもないほど、喉が渇いていた。      最終章へ続く
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