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プロローグ
目が覚めても、目が覚めていない……。
ベッドから起き上がると、夢見心地と妄想が、眠気とともに入り混じり、本物の感情となる。
窓を介して薄く聞こえる、小鳥たちのさえずりが、ゆらぐ想いの恋歌だった。
朝空を不安げに覆い隠す雲も、恋の憂鬱そのものに思えてしまう。
日差しを隠し、心の奥も見せないようにして……。
僕は不自然に大きなあくびをした。
それをそのまま、やりどころのないため息に変えて、学ランに着替えた。
ワイシャツのボタンを閉じながら思う。
まだコートは必要なさそうだ。
気合と不安と葛藤で、僕の身体は充分に温まっていたせいかもしれない。
* * * *
朝食は、食パンとハムエッグ、きゅうりのおしんこと味噌汁を食べた。
洋食と和食が混ざっているのはいつものことで、味わうこともなくさらりと食べ終える。
今日、母は用事があるそうで、朝から電車で隣りの県に行っていた。
父も仕事の研修関係の出張で昨日からいないので、今朝は僕一人だった。
リビングの壁掛け時計を見たところ、まだ十五分ほど時間があった。
戸棚に入った、可愛らしいキノコの絵とともにHAPPYと赤い丸文字でつづった小瓶を手に取り、宝物のティーバックを出した。
川野涼さん……。
前からずっと、気になっていた。
ずっとずっと、遠くから眺めていた。
そして……。
昨日の部活後、疲労困憊で校庭前のベンチで少し休んでいたら、さりげなくこのサルノコシカケ茶をくれた。
不安そうな表情に、『お疲れさまです……』と言葉を添えて。
優しくされたのは、これがはじめてじゃない。
ひょっとしたら、僕だけかもしれない。
僕にだけ、優しくしたのかもしれない。
都合のいい妄想と思われても、そんなことは知らないよ。
川野さんは交友関係もそれほど広くないので、僕だけに優しくしていたとしても、不思議ではなかった。
そしてたった今、このサルノコシカケ茶を飲みながら僕は、ついに一大決心がついた。
……そう。
告白することにした。
喉を通る熱い液体が、恋心をさらに熱くする。
フラれる可能性への恐れや恐怖が、ないわけではない。
だから、逃げたい気持ちを、癒しの香りで誤魔化した。
* * * *
放課後のチャイムが鳴る。
一音一音が、とても長く感じた。
余韻がしばらく耳に残った感じがする。
それぐらい、しっかりと聞いていた。
授業の終わりが、すべての始まりだった。
教室からはバラバラと、生徒達が出て行く。
部活に向かう人が大半だが、今日の練習自体が休みの僕は、特にすることがない。
普通なら部活の友達の家にでも遊びに行くのだが、もちろん行かない。
本日のミッション。
教室から出た不安な少女を、バレないように追い続ける……。
僕は、実行力や度胸があるタイプの人間じゃない。
それよりも、胸の高鳴りが、ワイシャツから漏れてしまうのを恐れていた。
それほどまでに、僕の心は追いつめられていた。
思いつめていた。
恋愛感情とは嫌なもので、一度意識し始めてみると、病気みたいに、いつまでもまとわりつく。
そして、現代医学をもってしても、克服する薬すらない。
毎日、つらかった。
授業中、後ろ姿をチラチラと眺めているだけの自分が情けないし、かといって何か出来るわけでもないし。
気が付くと、目で追っているのが本当に恥ずかしい。
休み時間は、他のことをしているフリをして、盗むように視線をやっているんだ。
まるで、悪いことをしているみたいに、コソコソしている。
川野涼さんは、僕と同じ中学二年生。
ショートカットに眼鏡をかけていて、とても大人しい。
以前に、考えに考えた挙句、告白しようかどうかを部活友達の田中亮介に相談したことがある。
けれど、手を叩いて大爆笑された。
「どうして笑うんだよ?」と怒ってにらみつけたら、「だって、川野のしゃべる姿、一度も見たことねえし」との返事。
口数少ないだけで、全く話さないわけじゃないのだが……。
しゃべらない人と付き合いたくなる気持ちが理解出来ない。
そんな女性しか選べないほど、劣等感を抱えているのか。
……等々、散々に暴言を吐かれたので、それ以上は相談する気にはとてもなれなかった。
誰も、助けてくれない。
当たり前だ。
相談したら、亮介が代わりに告白してくれるわけではない。
恋の悩みだけは、自分で解決するしかないんだ……。
僕は部活の友達が「一緒に帰ろうぜ」と誘ってくる前に、さっさと教室を飛び出した。
そして、人気のない校舎わきの木陰から、川野さんが通るのを待っていた。
校舎を出た川野さんは、案の定、一緒に帰る友達はいないようで、トボトボと歩いていた。
猫背で姿勢が悪く、不健康な容姿に魅力を感じない人も多いかもしれないけど。
僕にとっては、最高のお姫様だった。
怯える少女は、不安という名の影の魅力が妖しくも可愛くて、僕の心を夜に染めてくれる……。
月明かりほどの笑顔もない。
でも、闇もまた素敵だと思う。
暗がりの中、何も見えないほどの盲目。
恋愛感情が昼を夜に変えて、何も見えなくさせて、不安な少女だけがただ目に映り続ける……。
一途な濁った思いが、心に現れては消えてを繰り返しながら、五分ほど歩き続けた。
才郷橋を渡っている途中、人の気配がなくなってきたところで、僕は行動に移すことにした。
「川野さん」
制服姿の女の子は、ビクッとして僕の方を振り向く。
「は、はい!」
身体をよろっとさせて、川に落ちてしまわないか一瞬心配になったが、なんとか体勢を立て直したようだ。
いきなり名前を呼ばれて、怖がっているようだった。
制服を着ていなければ、後ろ姿は男性と間違えるぐらいに短い、ショートカットの髪。
前髪は、真ん中から右の方に偏り、左は眼鏡のレンズを隙間にして耳の方で分けていた。
華奢で、運動能力はまるでなさそうな身体は、病的な印象すらも受けるかもしれない。
恐怖や怯え以外のカラーがあまりない表情は、いつも心の弱さを訴えかけているようだ。
この寂しくて哀愁漂う感じが、僕の心に夜のやすらぎを与えてくれるような気がしたのだった。
川野さんは眼鏡の奥で、不安げに目を泳がせながら、決して可愛いとは言えないピンク色のキノコキーホルダーを持ち手につけたカバンを、重たそうに両手で握り締めていた。
僕は安心させるために、優しく微笑みかけた。
「ごめんね、いきなり呼び止めて」
二、三歩後ずさりしながら、川野さんは答える。
「ううん、大丈夫です……」
震えた声で、それでも無理やり僕を安心させる言葉を選んでいた。
まるで、不安の塊が女の子の姿となって、生きているようだ。
川野さんは、僕とは目を合わせず、泣きそうな視線をじっと地面に向けている。
「な、何か、私。……し、しでかしちゃったでしょうか?」
かわいそうに、僕に叱られるのではないかと心配しているようだ。
警戒心を解いてあげたいけど、だいぶ苦労しそうだった。
僕は首を横に振った。
「そういうんじゃないよ」
「そうですか? 学校を出てから、わざわざこんなところで呼び止めて。よほど、怒らせるようなことしちゃったんじゃないかって」
被害妄想の強い子だ。
周囲の人が、みんな敵に見えてしまうのかもしれない。
そう考えると同時に、確かにあまりないシチュエーションだとも思った。
同じ状況だと、僕もこれから一体何が始まるのかと、多少不安がよぎるかもしれなかった。
僕は深呼吸した。
本当に大好きなら、たとえたどたどしい愛の言葉でもOKなはず。
だから、多少のミスも大丈夫なはずで……。
心の中で言い訳を終えると、僕はキーワードだけを告げることにした。
「川野さん」
「は、はい」
「僕と」
「……はい」
「僕と付き合って下さい」
深々とお辞儀をしながら、意外と、噛まないで言えた。
それだけでも奇跡だ。
何の装飾もないセリフだったけど、こちらの要望はちゃんと伝えたつもりだった。
途端に川野さんは、眉間にしわを寄せた。
不安意外の感情の色を見たのははじめてかもしれない。
顔を上げた僕に、川野さんは訝し気に返答する。
「私と?」
僕は静かにうなずく。
「どういうつもり……ですか?」
「……へ?」
川野さんは、語気を強めて言う。
「からかっているんですか?」
「そんなんじゃないよ」
「ほ、本当?」
「もちろん」
「……ありがとうございます」
少しほころんだ顔で、お礼を言われた。
僕は、ドキドキしながら次の言葉を待つ。
しかし、思案に暮れると思いきや、川野さんは即答だった。
「でも、……やめておいた方がいいと思いますよ?」
ガアーン。
ある程度予想はしていたけど、想像以上にダメージがでかい。
現実は厳しくて。
妄想スケジュールと大きな隔たりがあった。
川野さんは、申し訳なさそうに続けた。
「品田くんと私じゃあ、不釣り合いですよ」
断りの常套文句が、容赦なく僕の心を斬り刻む。
この恋はもう、終わりに近づいていた。
もはやここにいられなかった。
川野さんと目を合わせることすらできない。
気が付くと僕は……走り出していた。
脚が勝手に動いている。
流行らない三流恋愛ドラマを終えた大根役者は、舞台から即刻去らなければならないのだ。
「あ、ちょっと」
驚いた感じの川野さんの声が、背中に聞こえた。
けど、無視して走り続ける。
橋を渡り切り。
信号を渡って。
さらに一気に走って。
……高楼坂のバス停にまで来ていた。
こんなところまで来るだなんて、よほど逃げたかったに違いない。
意味もなく時刻表に目をやる。
僕は、呼吸が落ち着くのを待った。
そして、待合のベンチに腰掛けた。
地面にはほどよく枯れ葉が落ちている。
意味もなく、秋が深まっているなと思ってみた。
ああ、もう……ショックが大き過ぎて、このまま立ち上がれないかもしれなかった。
思った以上に、精神的ダメージが大きいぞ。
ここまで気分が、真っ青になるだなんて……。
……告白前は、どこまでも都合の良い妄想ばかりだった。
フラれるって、あらかじめ予測できたのに、どうして告白してしまったのだろう。
分かっていても、行動してしまうあたりが、恋の恐ろしさだ。
人を狂わし、おかしな行動を駆り立てる……そして、最後は絶望のどん底へと落ちていく。
しばらくは苦しい。
苦しくて仕方がない。
でも、……苦しいけど、仕方がないことだ。
時間が癒してくれることを信じて、今日のところは家で布団かぶって、泣きまくるとするか……枯れ葉を踏みしめながら思ったのだった。
「なんで、いきなり逃げたんですか?」
いつの間にか隣りに、僕をフッた女の子が座っていた。
いや、別に突然でもなかったのかもしれない。
それだけ僕は、ショックで周囲が目に入っていなかったということだ。
川野さんは怒った様子で、僕をにらむ。
か弱い女の子の精一杯な視線が、精神的に弱った僕にさらなる追い打ちをかける。
「私、何かダメなこと言いましたか?」
悪気はないんだろうけど、もう少し空気を読んで欲しい。
たった今、フったばかりじゃないか。
これ以上、傷口をえぐるような発言は控えて欲しかった。
仕方なく、僕は応じる。
「今、断りの常套文句を言ったでしょ」
「ジョウトウモンク?」
「そんなこと言われた時点で、もう話す気が起きないよ」
「そ、そんなつもりなくて。本当に」
「これ以上、僕に恥欠かさなくてもいいよね」
「違いますよ。品田くんみたいな人が彼氏なら、うれしいですよ。……でもですね、お付き合いはちょっと」
なんだか泣けてきた。
ここまで、教科書通りに断られるのは、かなり傷つく。
「泣いているんですか?」
気が付くと、確かに涙がほおに落ちていた。
情けない。
同級生の女の子に、特に好きな人には絶対に絶対に見せたくない、無様過ぎる姿だった。
穴があったら入りたい。
遠いどこかに逃げ出したかった。
涙を拭わず、僕は立ち上がる。
「もういいだろ? 話すことは、何もないよ」
「あ、その……ちょっと待って下さい」
川野さんもまた、立ち上がる。
心の中をのぞきこむようにして、潤む僕の瞳をじっと見つめている。
お願いだから、今の僕を見ないでくれ……。
無様だ。
どこまで僕を、恥かかせれば済むのか。
本当に空気の読めない子だ。
だから、友達が少ないのかもしれない。
僕としては、とりあえずさっさと会話を終わらせたい。
「行けよ」
ボソッと心無い言葉が、口からこぼれた。
ひどい暴言のようにも思えたが、もはや相手を思いやる余裕もない。
しかし、川野さんは動かなかった。
すぐそばに立つ、バス停の看板のように直立不動のまま、黙って、僕の目を見つめている。
僕は目をそらした。
相手のことが好きであればあるほど、憎くて仕方ない。
もう見るなよ……そんなに楽しいか、弱りきった僕を眺めるのが。
「早く行けよ!」
今度は大声で怒鳴った。
臆病な川野さんが、怖がらないのが不思議だった。
「うれしい……」
川野さんが、感心したように言う。
「僕がボロボロになるのが、そんなにうれしいの?」
「そうじゃなくて」
川野さんは、首を横に振った。
「冗談かと思ったんですけど。本気だったんですね」
「当たり前だよ。冗談で言えるわけないでしょ」
「わかりました、私。品田くんの彼女になります」
「え?」
思わず声が、裏返ってしまった。
そんな僕の表情が、衝撃的だったのか、川野さんは急に自信なさげにボソボソと言う。
「そんな変な声出して。やっぱり……いやなんですか?」
「そ、そうじゃないよ。むしろその逆で……」
僕の右手を、指先にあまり血液が通っていない冷たい両手で、川野さんは握り締めた。
とてもつめたい。
誰かが守ってあげないと、凍ってしまいそうな冷たさだった。
「後悔しないで下さいね」
僕は、左手で川野さんの両手の甲を上から包んであげた。
温もりはないけど、ひんやりとした感じが僕好みなのかもしれない。
助けてあげないと、生きていけないような危うさに、惹かれてしまうというか。
「それと」
川野さんは僕の顔に顔を近づけた。
唇をさらに接近させて……耳元に口を近づける。
「絶対に、見捨てないで下さいね」
川野さんの言葉の重みが、その時の僕にはまだ、全くと言っていいほど分かっていなかった。
ただ、病的なまでの指の冷たさに、触れてはいけない魔性の魅力をどこか感じてしまうのだった……。
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