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第三章 変わった挙動
「無事で……本当に良かったです」
「うん、特に何ともないよ」
何ともないはずはない。
でも、そう言うしかなかった。
無抵抗のまま、ひたすらやられまくったことを克明に描写したところで、何になるのだろう。
「心配したんですよー、もう」
学校の教室の中に入り、席に着いた僕のところへ、川野さんはめずらしく駆け寄ってきた。
心配で、周囲の目どころじゃなかったのだろう。
僕は、駅前のロータリーの噴水前で倒れていたそうだ。
110番通報されて、それで助かった。
親は「道端で寝るだなんて、どこまでグウタラなの?」と面倒くさそうに迎えに来てくれて、それでその日は家に帰った。
胃液とかは綺麗にふき取られていて、また、吐いた後の匂いも何かのスプレーでもかけられていたのか、臭くない状態になっていた。
夜だったこともあり、僕が余計な何も言わなければ、傷つけられたことも誰も気づかない様子だった。
事実、僕が「疲れて寝ちゃいました。心配おかけしてすいません……」と神妙な面持ちで答えると、警察もなぜか疑わず、親が迎えに来てくれたこともあり、それほど長居せずに帰してくれた。
中学生を、あまり夜遅くまで拘束するのは、良くないと判断したのかもしれなかった。
拷問を受けたことは、このまま親にも川野さんにも黙っていることにした。
特に川野さんは、とても心配しそうだ。
まともに伝えたら、泣きだすか、怯えてしまうか、「私のせいで……別れないで下さい……」と始まってしまいそうだった。
……僕をハメたのでなければ、だけど。
「川野さん」
「はい?」
「エリスって、何?」
川野さんは、はて? という感じで、答えない。
首を傾げて、しばらくフリーズ。
「何ですか、それは?」
「知らないならいいよ」
川野さんは不思議そうに言った。
「そうですか?」
信じたい。
信じたい気持ちはやまやまなのだが……。
以前のように、楽しく話が出来るか、心配だった。
拷問の苦しさが、僕の心を変えたのかどうかは分からない。
……エリス。
エリス。
エリス。
この謎の女性の名前のせいで、僕は散々な目にあわされた。
エリスが何者なのか。
川野さんがエリスそのものなのか。
そんなことは、どうでもいい。
それよりも、僕が気になっていること。
……川野さんは、打算で僕と付き合っているのだろうか。
僕をハメたのだろうか。
いや、百歩譲ってハメられても構わない。
僕のこと、本当に好きなのかどうか……。
それが一番、不安だった。
「川野さん」
「なんでしょう」
「ちょっと来て」
「あ、はい」
僕は川野さんをつれて、教室を出た。
周囲の視線を気にせず、僕らは小走りに屋上まで駆け上がった。
屋上に出ると、風はないが、朝ということで日差しが弱く、肌寒い。
体温の低い川野さんは、ぶるぶる震えだした。
「さ……寒いですね」
屋上の入口を閉めて、僕は誰もいないのを確認する。
「川野さん」
「は、はい……あ」
僕は、川野さんの腕を手に取り、足を掛けて、地面にゆっくりと倒した。
倒されながら怯えた表情で、僕の目をじっと見ている。
でも、一切抗うことなく、身体を僕に預けていた。
無防備に、従順に、不安そうに……。
「何を……」
「目を閉じて」
「あ……」
何をされるか、悟ったのだろうか。
仰向けに寝転がった川野さんは、胸元で、祈るように両手を組んで、静かに目を閉じた。
聞き取れないぐらいの声で「……大丈夫です」とつぶやいた。
目を瞑りながら、ショートカットの少女はとても不安な表情。
僕は何をするのも自由だった。
不安な少女の運命を握り締めていた。
頬と頬を合わせた。
その瞬間、川野さんの呼吸が早くなるのを感じる。
冷たい肌は、少しカサカサしていた。
乳液とか塗った方がいいかもしれない。
逆側の頬も合わせてみた。
無抵抗だ。
おでことおでこを合わせてみた。
一瞬、川野さんの唇がキスをする形を作ったが、すぐにもとに戻る。
感情の揺らぎが、少しだけ眉の動きに表れた。
僕は顔を離した。
「ありがとう」
川野さんはゆっくりと目を開ける。
「もう終わりですか?」
「うん」
「もうすこ……」
川野さんは首を横に振った。
「……何でもありません」
僕は先に立ち上がった。
寝転がったままの川野さんに手を差し出す。
「ありがとうございます」
手を引いて、立たせるのを手伝った。
立ち上がった川野さんは、とても寒そうにしていた。
手を合わせて、息をハアハアやっていた。
「もうすぐ、始業のベルが鳴るから戻ろう」
川野さんはうなずいた。
僕は屋上の入口に向かって歩きだす。
「あのう……」
僕は振り返らない。
「……いえ、特に大丈夫です」
そのまま屋上を後にした。
* * * *
その日から、川野さんと距離を感じるようになった。
ラインがきても、なかなか既読しないようにした。
無言のメッセージが、少なからず伝わったのではないかと勝手に思っていた。
学校では、挨拶以外、こちらからは積極的に話しかけないようにした。
僕が誘わなければ、もうどこへも行かないのかもしれない。
前回二回のデートも、最初に声を掛けたのは僕だ。
川野さんは、どこまでも大人しい。
普通にしていたら、しゃべっている声すら聞くことが出来ない。
何もこちらからアクションしなければ、向こうは無反応だろう。
ある日の放課後。
部活が休みだった。
僕はそれを忘れていて、一度部室に行ったが誰もいない。
おかしいなと思い、カレンダーを見たら、RESTと赤字で書いてあった。
「忘れてた。そっか、休みだったか……」
タイミングをはずしたため、一緒に帰る友達もいない。
仕方がないので、一人で帰ることにした。
そして、校門を出たところで、肩を叩かれた。
「品田くん」
申し訳なさそうに、うつむき加減に話しかける川野さんだった。
相変わらず、不安な表情。
「あ、あの……」
「なあに?」
「い……」
声を震わせながら、思いつめたように川野さんは言った。
「一緒に、……か、帰りませ……んか?」
言葉の流れが、たどたどしい。
不安と迷いが、呼吸の一つ一つに出ている。
まるで、愛の告白をするときの躊躇いのようなものを感じた。
怯えてしまわないように、僕はそっと答える。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「で、でも」
「付き合ってんだから」
「わ、私もそう思いまして……でも、なかなか」
「帰ろうか」
「はい!」
こちらが恥ずかしくなるぐらい、大きな返事が返ってきた。
思わず、周囲をキョロキョロする。
誰も見ていない。
下校時間が、人通りの多い時間でなくて良かった。
僕が周囲を見渡したことで、川野さんは自分のしたことをようやく理解する、
「すいません……」
またやっちゃったと言わんばかりに、川野さんは深々とお辞儀をした。
「別に大丈夫だよ」
「ありがとうございます……でも、これからは気を付けます」
僕らは、並んで歩きだした。
川野さんは手をもむ仕草を何度かしていた。
僕はそのサインを見なかったことにした。
「最近、なかなかお会いできないですね」
不安そうに、川野さんは言った。
この心配そうな顔は、……本当に心配なのだろうか。
一度疑い出してしまうと、何に対してもそういう思いが湧いてくる。
趣味で機能性キノコとか、なんでもいいけどさ。
性格も変わってて、それが大好きだし。
見た目が男の子みたいな髪型でもいいよ。
でも……。
僕に対する恋愛感情だけは、本物であって欲しい。
すべて作っていたのかも、……だなんて、考えたくもない。
騙すなら、最後までバレないように騙し続けて欲しいよ……。
その時、黒電話の着信音が鳴った。
「あ、すいません。電話みたいです」
川野さんはそう言って、鞄から携帯電話を出した。
ディスプレイを見るなり、「ちょっと待ってて下さいね」と一言。
走りだした。
誰との電話だろう。
話の内容を聞くことはできないか。
川野さんは、少し行ったところにある、つぶれそうなクリーニング屋の角を曲がった。
僕はバレないように、足音を立てず、小走りで追う。
角を曲がらずに、耳を澄ませると話し声が聞こえてきた。
「そうなのよ……こないだはちょっと、やり過ぎだよ。さっき見たら、口の横の当たりが、少し切れてたよ。腕にもあざがあったし」
今のは……僕のことを、話している?
流行らないクリーニング屋だったおかげで、店の前で棒立ちでも何も言われなかった。
外界のことは何も気にならず、僕はただ聞き続けた。
そして……夢から覚める時が、とうとう来てしまった。
「……ありがとう。大丈夫、品田くんは簡単に騙されるよ。……バカがつくぐらい、素直だから」
五体が砕かれるような思いだった。
誰としゃべっているのか。
会話の内容もよくわからないけれど……。
今の言葉だけで、終わりを迎えるにはふさわしかった。
まだ話し声が聞こえる。
でも、これ以上盗聴する気にすらならない。
クリーニング屋を離れて、僕はまたもと来た道を戻った。
数分後、何も知らない川野さんが戻ってきた。
僕は、電信柱に隠れていて、すぐには見つからなかった。
不思議そうに、川野さんは僕を探している。
僕は、恐る恐る背後から近づいた。
「わあ!」
「きゃあ!」
意味もなく、脅かしてみた。
最初はキョトンとしていた。
やがて、笑みがこぼれる。
少し、泣いているようにも見えた。
いや、確かに涙のしずくが、頬を一筋に流れている。
「どうして泣いているの?」
川野さんはビクッとしながら顔を背けると、すぐにハンカチで拭った。
「いえ……大丈夫です」
何を考えているのか、よくわからなかった。
川野さんも、僕が何を思っているのか不明だろう。
お互いに何も分からない。
分からない者同士、仲良く帰った。
ダッフルコートを着た今日の川野さんは、見た目以上にとても寒そうだった……。
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