九 気比

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 気比(けひ)が蝿を追うように手を振った。村人たちは弓弦(ゆづる)を緩めて胡簶(やなぐい)に矢を納め、剣を鞘に納めた。 「布都斯殿(ふつしどの)は、王になる気であろう・・・」  気比は下卑た笑いを浮かべ、布都斯(ふつし)を見おろしている。 「大倭(おおやまと)には王も奴婢(ぬひ)もいない。村々を指導する上たちが、上議(かむはか)りして(まつりごと)を行っている」 「ほほう、そんなことを言って、流れ着いた衛族えいぞくを丸めこんだか・・・。  この世に、支配者も奴婢もいない国など、ありはせぬ!  私はこの地の王だ!私が大倭の王になれば、諸国がまとまるぞ。いっそ私に大倭を謙譲せぬか?」  気比は蔑んだ目で布都斯を見ている。 「気比殿が大倭を支配するとでも・・・」 「いかにも。我が祖先は秦の皇帝の臣下・徐福(じょふく)なれば、我が言葉は皇帝の思いと心得よ!」  気比の態度が尊大になった。今も己は秦の皇帝の臣下だとの見栄があるらしい。 「大倭に加わる気はないと言うのだな?」  気比が勝ち誇った顔になった。薄ら笑いを浮かべている。 「儂が蛮族・匈奴(きょうど)の末裔に従うことはなかろう?私に大倭を献上すれば、戦はせぬぞ」  布都斯は歯を噛みしめて怒りをこらえている。 『これが言い伝えに聞いた徐福の末裔か?目的を果たせず、すでに国も滅んだのに、何を偉ぶっている・・・。  その昔、秦に青銅の技を伝えたのは、我らの先祖(うじがみ)・匈奴ではないか』  下春(したはる)はそう思いながら、村人たちを見るふりして浜辺を見た。  軍船が浜辺に着いている。  下春は静かに布都斯のそばへ馬を寄せ、小声で、着いたと言った。 「・・・私はあの軍船をひきいて来た。気比殿がこの地の王ならどうする?」  布都斯が浜辺を指さした。 「まっ、まさか、こっ、高句麗の軍ではあるまいな?」  真一たち衛族は高句麗から逃れた漢の奴婢である。大倭の布都斯は勇猛果敢な騎馬軍団をひきいているとの噂もあり、高句麗の侵略を極度に恐れる気比は、浜辺に着いた軍船を高句麗軍と思いこんでいた。 「遠目がきく者はおらぬかっ?十五隻であろうっ!帆に、身をくねらせた龍の印が見えぬかっ?。兵の数は千二百だっ!」  下春は大声で言った。 「船の数は十五っ!帆にくねった龍っ!」  気比の家の物見櫓(ものみやぐら)から声が響いた。
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