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どうか神様、あなたの側へ。
「おはようございます」
そう言うと、こう返してくる。
「おはよう。さあ、まずはあんたを褒めることからだ。あんたみたいな背が高くてすらっとした人、なかなかいないよ。今日も美人さんだ」
と、毎回。
ニヤニヤしながら言うし、毎回違うことを言うしで、これはもうからかわれているってことは、わかってはいるんだけど。他の職員でもそうなんだから、お世辞だということも、わかってはいるんだけど。
くどいような褒め言葉になかば呆れながらも、褒められて嬉しくない人はいないと思って、口元だけを緩める。
特になにも用事はないはずなのに、ただあなたはよく本を読むから、こっちは読んだ本を返却として受け取らなくちゃならないし、「はい、これね」と持ってきた本は、貸し出ししなくちゃいけない。
「はい、どうぞ。返却は二週間後です」
「早っ」
手早く、そして素っ気なく本を突っ返す。いや、本を貸すのだから、突っ返すってのはおかしいか。
そんなあなたが、ここ一ヶ月。
とんと姿を見せなくなった。
いまだ返却されてこない、ヘミングウェイの『老人と海』。パソコンの画面から、なかなか消えないのは『貸出中』の文字。
「じいさんが、じいさんの本を読むってどうよ?」
「なにを言ってるんですか、名作ですよ」
「そうなんか? じゃあ読んでみっか。美人さんの言うことならきいておかなきゃバチが当たるからな」
笑ってから。手を振って帰る、その後ろ姿。
なんだろう。思い出すのはいつも、笑った時のあなたの目尻に深く刻まれる皺だ。その皺のいい感じの入り具合に、きっと幸せな人生を歩んできたのだろうなと、神様にだって愛されたのだろうなと、思っていたのに。
勝手に、そう思っていた。
二ヶ月ほど経ったある日、つり目で和服の女性が現れて、見覚えのあるヘミングウェイを投げ捨てるように、カウンターへと置いた。
「ずいぶんと長い間、お借りしていましたが、本人が来られないから私が返しにきました。図書カードとかって必要?」
私が、そろっと手を伸ばす。
「い、いえ……」
すると、女性はつり上がった目をさらにつり上げて、声高々に言い放った。
「なんべんもなんべんも電話してきては、本を返してくれって言って。うちが盗んだみたいな言い方するから、そりゃもうこっちはいい気分じゃないってことですよ」
「……も、申し訳ありません」
「入院していた主人が急に亡くなりましてね、そんでバタバタしてるって時にねえ。この図書館はなんなんですか。あなたたちは、鬼ですか!」
本のバーコードをスキャンする手が止まる。
「え、……な、亡くなられたのですか?」
「あなたっ‼︎」
突然、怒鳴られて、手にしていた本がストンと落ちた。
「まずは、お悔やみのひとつでも言うべきでしょう? 礼儀もなにもありゃしないっ」
カウンターの奥から館長が出てきて、私と女性のやり取りを聞いていたのか、申し訳ございません、お悔やみを申し上げますと、慌てた様子で言った。
私も立ち上がり、そして深く深く、頭を下げた。
「こんな遠くまで来させるだなんて、まったく迷惑なこと。だから、こんな図書館の本なんか、借りるもんじゃないって何度も何度も言ったんです。本なんかそんな高いもんじゃなし、買って読んで捨てりゃ、それでいいんですよ」
町の外れにあるこの図書館への不満なのか、それとも借りっぱなしで逝ってしまったあの人への不満なのか。
だったら、私たちに怒りを向けてくれた方が、よほどマシだ。
つり目にして憤懣やるかたない様子で帰っていく女性を、呆然と見送る。
その後ろ姿に、あの人への愛は見えない。
あの人の後ろ姿とは、思いやりという点において決定的に「違う」ということに気がついて、私はとうとう両手を上げて降参したい気持ちになった。
館長が優しく、私の頭にそっと手を置いてくれる。
私はそれを機に落ち着きを取り戻した。ゆっくりとイスに腰掛けて、力の入らない視線を這わせていく。
カウンターから落っこちそうになっている、バーコードリーダー。パソコンのキーボードに引っかかっていて、そこに留まっている。
目の前に。
ぽつんと、ヘミングウェイ。
そっと触ると、あなたの目尻の皺が蘇ってきて。
ああ。
嘘だった。
こんなにも、こんなにも。家ではご苦労をされていたなんて。
目尻の皺のひとつなんかが、その人が幸せかどうかの指標になんて、決してならないはずなのに。
ぼやりとする目で、表紙にあるバーコードをスキャンする。
『貸出中』の文字が、あっという間に消え去ってゆき、そして『返』と『却』との文字が。
ひとつ、ひとつと浮き上がって、ゆらゆらと見えてくるのは、イリュージョン。
はは。バカだな私。
その人が幸せかどうかなんて、他人にわかるわけがない。
わかるわけがないのだ。
私は堪らなくなって、視線を逸らした。
『老人と海』
表紙を手で覆う。
そして、そっと。
親指をかけ、丁寧に表紙を開けてみた。
「図書館の美人さんへ」
飛び込んできた手紙と文章。それは、薄もえぎ色の一筆箋。縦の罫線に沿って、几帳面に書かれているのは、達筆すぎる文字。
「美しいのは心。心のこもった笑顔。丁寧な挨拶」
指で辿る。
標語のような手紙に、あなたらしいと薄く笑う。
そして。
「あんたのことだよ。あんたはそのままでいいんだ」
私の中の目尻の皺は、そう言って笑った。
「こんなところに挟んじゃって……私が見つけられなかったらどうするつもりだったんですか」
涙がひと粒。
ほろりとこぼれて、バーコードリーダーの上に落ちた。
「おじいさんだって、名作を読んだっていいんですよ」
「えええ、それは今さら変じゃないかな?」
「なにを言ってるんですか。好きだなあと思う本を好きなだけ読んだらいいんです」
「そう? じゃあ、僕も恋愛小説とか読んじゃっていいのかなあ」
「もちろんです。オススメは、谷崎潤一郎の『春琴抄』ですよ」
「うわ、渋い」
「純愛です」
「じゃあ、このじいさんと海の本を読んだら、次に借りるよ」
「はいはい。ちゃんと覚えておきますね」
覚えておきます。
空の彼方へ逝ってしまった、あなた。
どうか、どうかあの人を。
今度こそは、神様。あなたの側へと願っています。
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