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第64話 求婚
そろそろ帰ろうかな、とラストオーダーの少し前に陽が立ち上がったので、芽生はお会計を済ませてから見送りに向かった。
外に出ると、暖かくなってきた夜風が気持ちいい。しかしまだ寒いので、油断は禁物だった。
「御剣社長、今日は来てくれてありがとうございました」
「ううん。芽生ちゃんの作ってくれたもの美味しかったよ」
「またいつでもどうぞ。あ、あと……私がここでバイトしているの、内緒にしてもらえませんか?」
陽はにっこりと笑った。
「会社に迷惑かけたくないですし。いろいろと問題が」
「いいよ。もちろん黙っている。でも、それじゃ俺だけがフェアじゃないから……」
陽の手がすっと伸びてきて、芽生の頬に触れた。芽生が弾かれたように見上げると、陽の妖艶な顔が近づいてくる。とっさに目をつぶると、頬に唇が触れた。
「え……っと」
「俺の恋人になってくれたらいいよ?」
「はいいい!?」
芽生が素っ頓狂な声を上げた時、すっと暗闇から大きな人影が現れた。
「あ、涼音さん……」
今にも噴火しそうな勢いの不機嫌オーラを身にまとった涼音は、美しい眉を吊り上げる。
「これはこれは、すずじゃないか」
「おい。そいつから手を離せ」
陽が不敵な笑みを見せ、涼音はそれに噛みつくように鋭い視線を投げた。
「え、あの、あれ? 二人は、取引相手じゃなくて知り合い……?」
「芽生ちゃん。俺と涼音は高校の時からの知り合いだよ。歳はすずの方が二つ下だけど、俺の通っていた高校に留学していたの。先輩、後輩ってやつ」
「陽、ごたくはいいから、そいつから手を離せ」
「なんで?」
それに涼音が声を詰まらせた。
「そいつはうちの社員だ」
「今はこのお店のアルバイトでしょ?」
ちっと涼音があからさまに舌打ちをする。それに余裕の表情のまま、陽は芽生の頭を撫でた。まるで涼音を挑発するかのようなその仕草に、案の定、涼音の限界がぶちぎれた。
「陽、放せって言ってんのが聞こえねーのかよ」
「あー怖い怖い。芽生ちゃん、会社で禁止されているバイトをしているの、会社の社長にはばれてるんだ?」
「え、あ……はい。この間ばれちゃいました」
それに陽はふふっと笑う。
「放せよ、陽」
「社員だから? 違うよね。恋人だからでしょ。でもさ、恋人なのに、バイトさせて働かせているの? 客にこんなことされるかもしれないのに……」
陽が芽生をぎゅっと抱き寄せた。嫌がろうとしたのだが、意外にも力が強くて芽生は動けない。色っぽくて線が細く見えていたのは錯覚で、陽はしっかりと大人の男性だった。
「陽お前、俺に血祭りにされたいのかよ」
「されたくないよ。でも、芽生ちゃんの事気に入ったから、渡したくないの。開業資金を肩代わりして、結婚したいっていう人が現れたら、芽生ちゃんは喜んで受けるそうだよ。だから芽生ちゃん、俺と結婚しよう——」
陽が芽生を解放し、そして唇を奪った。
「陽!」
涼音が止めに入ったときには、陽はひらりとかわして、道路に立っていた。芽生は驚きで開いた口が塞がらなくなった。
「……御剣社長、冗談は止めましょう?」
「芽生ちゃん、冗談じゃないよ。ご飯だって美味しかったし、何よりも俺のことを普通に扱ってくれる女性なんていなかったからね。芽生ちゃんがいいんだ。すずなんかやめて、俺を選びなよ。もっと安心させてあげるよ」
また電話するからねと言い残して、陽はにこにこと微笑むと、歩いて消えて行ってしまった。
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