それはひろいもの

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 小春日和の中、母がベビーカーを押し、私は長男と手を繋いで歩く。日中のほとんどを一人でやりくりする日々の、ほんのわずかな長男との時間だ。 「お父さん、仕事きついの?」 「それもあるけど……こないだ病院行ってきてな」  今日はその話で来てん、と母は言った。ゆるい坂道で長男が転びそうになる。年に一回風邪をひく程度の父は、一度も入院したことがない。心臓がずくずくと痛む。 「……どっか悪いん?」 「肺癌らしいわ」 「は? さっき煙草吸ってたやん!」 「入院するまでは吸うらしいわ」 「いやいや……ほんまは、ていうかお酒もあかんやろ」  こないだめっちゃ飲んでたやん、と続けると母はため息をついた。 「癌くらいで煙草を辞める人とちゃうやろ」 「死ぬまで吸うとは思てたけど……そんなん……」 「かなこには迷惑かけてばっかりやな。ごめんな」 「なんで謝るん。帰ったらとりあえず灰皿捨てるわ」  ありがとな、と母は長男に微笑みかけた。繊細な彼は大人の会話のトーンだけで不安げな顔を見せる。 「おじいちゃん、どうしたん?」 「ちょっとしんどいんやて。優しくしてあげよな」 「なでなでするー」  長男は寝ていた次男の頭をなでた。火がついたようにまぶたが熱くなる。吹きつける冷たい秋風も火照る顔にあたってぬるくなる。  若い頃は一日に二箱は吸っていたし、酒も浴びるように飲んでいた。麻雀にパチンコ、日付が変わってもスナックから戻らず、私が受験生のときは「父親やのにみっともない!」と母に怒られていた。死ぬなら肺癌やなと冗談で言ったこともあるけれど、本当にそんな日が来るとは―― 「私にできることがあったらなんでも……」 「かなこは子供らと家のことがあるやろ。なんも心配せんでええ」 「孝介は」 「多分……帰ってこんやろなあ」  弟は母とは連絡を取っているらしいが、父とは全く接触しようとしない。死ぬまで帰ってこないつもりだろうか。 「かなこにはこの子らがおるんやから、しっかり生きなさい」  母の言葉に、私はうなずくしかなかった。小さな手を握りしめてスーパーに入る。  今日は父の好きな日本酒を買うつもりだった。夫は飲まないので残ったら料理酒にするつもりだった。父が喜びそうな食べ物って何だろう、お酒とおつまみとお刺身と――  今更ながら父のことを何も知らないなと思った。いつものスーパーが未知の食べ物で埋め尽くされた迷宮みたいに見えた。  ***  来週から精密検査で入院するという話をして、父と母は帰っていった。父の体のことなのに母が全部説明して、父はうなずくだけだった。癌ならそれなりに痛みもあるはずなのに、そんなそぶりはひとつも見せなかった。  余命一年――医者に宣告された余命通りに亡くなるその日まで、父の口から「痛い」という言葉を聞くことはなかった。
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