「当日」

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「当日」

   祖父が死んだ。  曽我部 萬十郎(まんじゅうろう)、八十二歳だった。  昔から性格に難がある人だったという。  物を大事にしないくせにやたらと収集癖の強かった祖父は、幾度もの補修を重ねて先祖代々が暮らしてきた大切な家を、重みで軋ませる程多くのガラクタを溜めこんでいた。いい加減処分せよと家人が不満を口にしようものなら、お前らには物の価値が分からんのだと唾を吐きかける勢いで怒り狂ったという。若い時はそうでもなかったらしいが、ある時から人が変わったようにガラクタばかりを家に持ち帰るようになったそうだ。  私たち家族は祖父の家には住んでいなかったため、盆暮れ正月に訪れる時以外祖父と顔を会わせる機会はなかった。家の者からはかなり疎ましがられていたというが、晩年はほとんど話をすることもなかったせいか、私も、私の弟も、祖父に対して特に悪い印象を抱いてはいなかった。むろん、祖父がせっせと溜め込んだ蒐集物が家の至る所に転がっていた為、変った人だという思いは子供の頃からあった。だが祖父の蒐集欲が爆発した理由を知らない部外者の私たちにしてみれば、 「これ、最終的には全部どうするつもりなの?」 「大変だね、お爺ちゃん家」  という、まさしく他人事でしかない僅かな同情を抱くのみだった。  集められた品々は、いわゆる骨董品と呼ばれるものが多かった。壺や花瓶が大半を占め、大小も様々あって、それらを眺めるだけでは祖父の趣味嗜好はまったく読み取れない。名のある陶器の焼き物に興味があるのかと思えば、川べりから拾ってきたのかと見まがう様なガラクタも混じっていたそうだ。割れて、汚れて、変色し、中には側に寄ると匂いを放っているものもあったという。しかしそんな異物でさえも、祖父は廃棄も撤去も許さなかった。  生きてるうちになんとかしろ、と口酸っぱく咎められても頭から無視を決め込むか、火が付いたように喚き散らして有耶無耶にするか、祖父の対応は決まってそのどちらかだった。が、やはりというべきか、それらの蒐集物を家中に放置したまま、祖父は昨日この世を去った。 「涼白(すずしろ)さーん。涼白カルさーん」  呼ばれて診察室へ入ると、丸眼鏡をかけた男性医師が、パソコンの画面を見つめたまま「はーい」と言う。私はまだ何も言っていないし、何に対する「はい」なのかは分からない。しかしそれがこの男性医師の口癖だった。 「こんにちわ」  声をかけると医師はようやく私に向き直り、「はい、涼白さん」と言って微笑んだ。色白で、丸顔の、優しい表情をした人だった。 「……検査の結果は、特に変化はありませんね。横這いですが、良い横這いです」 「はあ」  私は二年前、二十四歳の時に血液の癌を発症し、数か月の入院治療の末無事復帰した。二か月に一度、血液検査のためにこの病院を訪れる以外は、特に問題なく日常生活を送れている。目の前の男性医師は、私の担当医だ。名を九里(くり)という。クリリンと呼ばれています、と最初に自己紹介されたが、残念ながら今もってあだ名で呼び合うような関係ではない。 「少しだけ貧血の症状が出ていますので、それだけお薬追加しておきます。あとは、いつも通りです」 「ありがとうございました」 「はーい。……あ、今日は、珍しく朝一でのご予約でしたね」 「え?」  突然、検査結果以外の話題を振られて驚いた。二年間この病院に通っているが、九里先生と病気に関すること以外の話をした記憶はなかった。 「時間を変更されてますよね。顔色があまり優れないようなので、急ぎの心当たりでもあったのかなって」 「あー……え、私顔色悪いんですか?」 「悪いというか、大分とお疲れのご様子です」 「まあ、疲れはありますね。でも予約時間を変更したのは体のことではないんです。この後、ちょっと用事があって」 「そうでしたか。いや、出過ぎた事を言いました」 「いえ」 「ですが、なるべくゆっくりされた方が良いですね。病状は寛解と言っていいですし、二年経ちましたが、でもまだ二年という見方も出来ます」 「私もそうしたいのですが、外せない頼まれごとで。本当は行きたくないんですけどね」 「お仕事ではないんですか?」 「ええ。こんな話先生にして言いか分かりませんけど、昨日祖父が亡くなりまして。今から、その祖父の家に向かわなくてはならないんです」 「そうでしたか。ご葬儀に参列されるわけですね、お悔やみ申し上げす」 「いえいえ、……まあ、あはは、すみません」  葬式ではなかった。しかし、人の良いこの先生に説明した所で理解を得られるとも思えず、私は愛想笑いでその場をごまかした。  病院を出て、弟の車を探した。駐車場の一番奥に、黄色い車が停まっているのが目に入った。年代物の黄色のパサート。平成二十八年にもなって、今時こんなバブル時代の車で公道を走っている光景を他には見たことがない。しかし弟は全く意に介さず、「惚れて買ったんだよ、悪口はよせ」なんてキザなことを言う。二つ年下の弟はこういう部分で祖父の血を受け継いでいるのではないか、と思ったりもする。  助手席に乗り込むと、 「検査どうだった」  とお決まりの台詞を口にする弟の声を上書きするように、 「買っといてくれた?」  と私から先に尋ねた。 「け、ん、おう、おん、買って来た。けどさあ、この金ってどっから出るの? 自腹は勘弁してほしいんだけどな」  そう言って弟は親指を後ろへ向ける。後部席には、私がリストに纏めておいた一週間分の食料が積まれていた。今が二月で良かった。本当は私の検査が終わった後、二人で買い出しに出る予定だったが、暖房の壊れているこの車であれば食べ物が腐る心配もない。面倒なことは人にやってもらうに限る。優しい弟は、死にかけた姉の頼みを断ったりしないのだ。 「後でお母さんにラインしといて」 「良かったー」 「一週間分だもんね。ありがと、重たかったでしょ」 「それは別にいいよ、一緒に行ってもどうせ俺が持つんだし。問題は金だよ、レジで冷や汗でたもん俺」 「先に渡しておいたら良かったね」 「俺自分の食いたいもんも結構買っちゃってさあ、大丈夫かな」 「大丈夫でしょ、あれだけ嫌だ嫌だって抵抗してた私らがこうやってきちんと出張ってきてんだもん。少々の我が儘は聞いてもらわないとねえ」 「だよね、だよね」 「寒。取り合えず出して、早く行かない日が暮れる」 「おっけ」 「……この車目立つし」 「それはいいだろ別に」  弟の名は、涼白勉。普通は勉と書いてツトムと読ませる事が多いと思うが、うちの弟はそのままベンと読む。姉、カル。弟、ベン。なんとなく気恥ずかしいと思うのは私たち姉弟が既に良い年した大人だからだろうか。私の名前は曾祖母から取られた。私も老後は「おカルさん」なんて呼ばれるのだろう。  普段別々に暮らしている事も関係してか、姉弟の仲は良好だと思う。目立つ黄色い車に乗っている以外、弟にはこれといった欠点もない。大学卒業後に就職したパソコン関係の会社に今も務めているらしいが、仕事の内容は聞いても分からなかった。収入は割といいようで、会ったことはないが二十二歳の可愛い彼女がいるそうだ。顔はハンサムではないが清潔感があって、姉としては大変よろしいと思っている。  かく言う私は、二年前に発症した血液の癌の治療に専念するため、務めていた会社を辞めた。辞めなくても良い制度があるのは知っていたが、後々の事を考えるのが面倒になって辞めた。当時私は部署の違う管理職の男と不倫関係にあって、妻と離婚するから一緒になってくれと迫られていた。心底煩わしかった。セックスは上手いくせに要領の悪い男だな、と感じた。職場への復帰を勧めてくれたのもその男で、それは本来なら有難い話の筈である。しかし病気を告げられ気落ちしていた私は、「この男、まだヤリ足んないのか」と思ってしまったのだ。その瞬間、完全に職場へ戻る気が失せた。  私が会社を辞めたと知った時、弟は「ふーん」と言っただけだった。ズケズケと踏み込んでこない、この距離感。我が弟ながら優しい奴である。  午後二時、懐かしい家に到着した。瓦屋根の木造二階建て。御屋敷という程大きくはないが、建物の周囲を広い庭が取り囲む様は、都会では当たり前に見る狭小住宅とは一軒家としての趣が違う。弟のパサートを停めても駐車場にはまだ余裕があった。例えば、サザエさんの家を二階建てにすると、祖父の家にかなり近くなるのでないかと思う。私の記憶では昔から曽我部家と仲の良い隣人に両隣を挟まれていたはずだが、驚いた事に二軒ともが空き家になっていた。門扉を開けて敷地に踏み入り、荒れ放題の庭を横目に玄関へと向かう途中、 「……」  どこかで猫の鳴く声が聞こえた。預かっていた鍵を使って中に入ろうとすると、空回り。施錠されていないらしい。 「……開いてる」  と私が呟くと、大量の買い物袋を下げた弟が「早く入ってー」と音を上げた。昔ながらの引違い戸を開けると、生温い空気がむわっと私の顔を撫でた。極寒の二月を暖房の壊れた車で走って来たのだ。家の中が温かいのは素晴らしい。だが、既に誰かが来ているとは思わなかった。 「こんにちわー」  上がり框に買い物袋を下ろす弟の隣で、私は奥に向かってそう声をかけた。昼間でも暗い廊下が真っすぐ奥に伸びている。廊下の右脇には二階へ上がる階段があるのだが、五段目辺りから上は同じく暗がりに沈んでいる。しかも、見えている部分はどこも祖父の置き土産で溢れていた。壺、大きな壺、瓶、変った形の瓶、大小様々な謎の木箱……。階段だけではない。私たちのいる玄関も、目の前の廊下も、祖父の集めたガラクタが足の踏み場だけを残して床を占領していた。 「……相変わらず、凄いなこりゃ」  と弟も驚いてそう呟く。ここ数年は、私も弟も忙しくしていた所為で、母の実家てあるこの家を訪れていなかった。どうやら祖父は、本当に亡くなる寸前までガラクタ集めを止めなかったようだ。 「おう」  と声が聞こえて、廊下の奥から男が歩いて来た。  あ、と弟が素直な感想を漏らす。 「あー、来られてたんですね、叔父さん」  見たままを呟いた私の声に、 「おお」  叔父は愛想のない短い返事を口にした。叔父はこれといって特徴のない平坦な顔をしている。そして仏頂面で目を細める様子は、常に相手を睨んでいるようなきつい印象を受ける。幼い頃から今日までの間で、私は多分叔父が笑った所を見たことがない。 「悪いかよ、俺が自分の生まれた家にいて」  しかも、すこぶる気性が荒いと来た。 「いえ、そういうわけでは」 「お、飯か」  叔父は私たちが買って来た食料を目敏く見つけると、袋を手に持ち元来た奥へと踵を返した。弟はまた「あ」と声を漏らしたが、ガラクタを避けながら器用に歩き去る身勝手な叔父の背中に何も言えなかった。私たち姉弟は、というか親戚中皆そうだと思が、この叔父が嫌いで、そして怖れていた。 「あーあ、あっちの袋。俺の食いたいお菓子が入ってた」 「諦めよう。揉めたっていいことない」 「あー、最悪。俺達だけじゃなかったのかよ」 「ね、早く帰ってくれるといいけど」  叔父は名前を曽我部利夫(そがべとしお)という。亡くなった祖父・曽我部 萬十郎(まんじゅうろう)の三番目の息子で、四人兄弟の末っ子である私の母・十美子(とみこ)の兄だ。とにかく優秀だったという長男・実夫(さねお)は若くして死に、次男の睦夫(むつお)は現在ドイツで教鞭をとっているそうだ。三男である利夫叔父も若い頃はそれなりに将来を期待されていたらしいが、本人に出世や金儲けの意欲が全くなかった。職業差別をするわけではないが、曽我部家の出身で八百屋という職についた叔父のことを私の母は不思議がり、またある親戚は落伍者とまで言い切った。私は八百屋と言う職業についての偏見など何もないが、そんなことよりもまず単純に人として叔父が嫌いだった。分かりやすく粗野で、暴力的だからだ。曽我部家として何不自由なく幼少時代を送ったためか、ひどく我が儘で自己中心的である。母はそれでも自分の兄を悪くは言わない。しかし私や弟が悪し様に罵るのを横で聞いていても、別段怒ることもない。叔父の性格が捻くれている事自体は、母も理解はしているのだろう。  記憶を頼りに廊下を奥へと進んだ。家の内部は特別複雑ではないものの、とにかく薄暗い。どこもかしこも祖父の集めたガラクタが転がっており、腹が立つほど歩き辛かった。つま先で何度も硬い物を蹴っ飛ばし、ストレスに息切れしながらようやく祖父の棺が安置されている部屋へと辿り着いた。  襖を開けて中を覗いた瞬間、 「う、あ」  弟が呻いた。ただ寝るためだけに使われていたような、殆ど物の置かれていない簡素な六畳間だ。だがその部屋は、ひと言では表現できない程の異様さに満ちていた。一番最初に目に飛び込んでくるのは、腰程の高さもある棺台の上に安置されている祖父の棺桶。そしてその棺を取り囲むように並んでいる、火のついていない無数のロウソクたちである。ざっと見た限り、優に百本以上はあるんじゃないだろうか。サイズもまちまちで、親指くらいの細さの物から、手首周り程もありそうな太い物まである。今現在火の点いているロウソクは二本のみで、太く長い物と細く小振りな物が棺の上に並んで立っていた。蛍光灯の灯りはなく、大きさの違うロウソクが描く輪の中に浮かび上がるその光景は、弟でなくとも上擦った声を発して当然だった。しかも、そんな異様な光景の中で、叔父が買い物袋から勝手に林檎を出して食べていた。胡坐をかいて、貪るように。 「何を突っ立ってる」  と叔父。 「早く襖を締めろ、風でロウソクが消えたらどうすんだ」  言われて、私の背後にいた弟が慌てて襖を締めた。見たところ暖房器具があるわけでもないのに、部屋の中はほんのりと温かかった。 「俺はちょっくら用事で外す。後はお前らに任せていいんだな?」 「は、あ……はい」  答える私の頼りなさに、ああ?と叔父が凄んだ。口から噛み掛けの林檎が飛び出た。 「はい、後は私たちで、番をしますから」 「お前ら、仕事どうした」 「……お休みを頂きました」  そう噓をついた私の背後から、「俺も」と弟が言った。 「楽しやがって」  叔父ははっきりと悪態を付き、片膝を立てて立ち上がった。「夜には戻る。今日から一週間だ。……分かってんな?」  私たちは上から目線で威圧される理由も分からぬまま、ただただ委縮して頷いた。叔父は立ち去る直前私の耳元で、「まあ、仲良くやろうや」と言ってニヤリと嗤った。笑った顔を見た事のない叔父の笑みは、心底気持ちが悪かった。今しがた食べたばかりの林檎の香りと煙草臭い口腔の匂いが混じり合い、私は吐きそうになるのを堪えつつ黙って俯いた。  叔父は、意味もなく弟の頭を叩いて部屋から出ていった。
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