「四日目〜五日目」

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「四日目〜五日目」

 私の担当医である九里先生は、いわゆる『見える人』だそうだ。平たく言えば、霊感があるのだという。あの日、私がいつもの定期検診を受けに病院を訪れた時、診察室に入ってきた私を見た瞬間九里先生は凍り付いた。目の前に座ったのは涼白カルではない。看護師が呼び込む相手を間違えたのだ、そう思ったそうだ。  、というのである。  その男はじっと私を見下ろしていた。その目付きがあまりにも恐ろしく、九里先生はその場では何をどうすることも出来なかった。だが、その後もずっと気になっていた。その為先生は、かつて自分がお世話になったという霊能者の方に相談を持ち掛けてみると仰ったのだ。  しかし、私はそれを断った。 「本当に有り難いお話だと思います。嬉しくて嬉しくて、もう本当に、嬉しいです。でも、駄目なんです」 「何故ですか?」 「巻き込むわけにはいきませんから」 「ですが」 「この家は恐ろしい家です。先生も、先生のお知り合いの方も、きっとどうにもできないと思います」 「いや、でも」 「あと三日。あと三日、私たちは姉弟力を合わせて耐えきってみせます。ですからどうか、先生も私が三日後に連絡を入れるのを、待っていてください。祈っていてください。次の予約は、その時に」 「涼白さん、聞いてください。私がお世話になった方々はです。よくある映画や創作物に出て来るインチキ霊媒師とは全然違うんです!」 「分かってます。私は先生を信じます。お忙しい先生が、わざわざこうして電話を下さったんです。私を揶揄うつもりだなんて、そんな風には思いません」 「涼白さん」 「嬉しかったです」 「警察ですッ!」 「……え?」 「聞いて下さい涼白さん。いいですか。私の言っている霊能者とは本物の警察官です。国家公務員の中にも本物の霊能者たちがいるんです。だから、気兼ねせずに頼っていいんです!」 「……ありがとうございます」 「涼白さんッ!」  私は電話を切った。  私の後ろで、弟が鼻水をすすり上げた。  分かってる。私だって本当は九里先生に泣いて縋りたい。助けてほしいと懇願したい。しかし、やはりそれは出来ないのだ。九里先生が噓をついているだとか、霊能者の存在を信じていないとか、そういう問題ではない。少なくとも私は九里先生の気持ちが心から嬉しかったし、先生の人柄を信じている。だからこそ、お願いすることが出来ないのだ。  私も弟も、この家に踏み入った人間がどのような末路を辿るのかをもう知っている。この目で見てしまっている。本者であれ偽物であれ、そこに大した意味はない。曽我部家に無関係な人間を巻き込んで良い理由など、どこにもないからだ。 「ごめんね、ベン」 「……姉さんらしいよなあ、ったくー」  涙を止められない私の後ろで、弟は必死に我慢していた。  祖父の残した日記が見つかったのは、いつの間にか日付の変わった、真夜中になってからのことだった。  私たちはこの家に来てからずっと、放心状態で何も手に付けられない時以外は、お互いを見守りながら代わる代わるお風呂場を使っていた。弟の入浴中は私が脱衣所にいて、私が入っている間は廊下で弟が待機する。まるで子供の頃に戻ったようだった。だがそうでもしなければ、明かりのない真っ暗な中での入浴など到底無理な話だった。昼間に入れば良いとは思う。だが習慣というものは、そう簡単には変えられないのだ。  この日の晩も、書斎での日記探しに疲れ果てた私たちは交代でお風呂に入った。本当は浴槽にお湯を張って、何時間でも湯舟に体を沈めていたい。しかしこの家のどこにいても感じる人の気配と、次から次へと襲い来る恐怖に、一つの場所にじっとしていることなど出来そうもなかった。   浴室に差し込む僅かな月明かりだけではなんとも頼りない。脱衣所に置いたロウソクの火はあまりにも淡すぎて、余計と心細さを助長した。 「ベン、いる?」 「……ああ、いるよ」  私は何度もそう確認しながら急いで髪の毛を洗い、シャワーの温度を42度にすることでひとまず体を温めようとした。 「まだいる?」 「いるに決まってるだろ」 「今髪の毛洗ってる、体洗ったらすぐ上がるから」 「焦らずごゆっくり」 「ごめんね、せっかく温まったのに、廊下は寒いよね」 「そうでもないよ」 「次は私が先に入るから」 「別にいいよ、これくらい」  九里先生から聞いた話がずっと頭から離れなかった。診察室で私の後ろに立っていたという男が一体誰なのか、考えまいとすればするほど深みに落ちていく。考え続けてしまう。心当たりはない。まさか、私と不倫関係にあった会社の上司が生霊でも飛ばしたのだろうか。もしそうなら、あんな奴大したことないのに。だがもちろん、そんなわけはない。  誰だろう……誰なんだ……誰が……今も……私の後ろに……? 「ベン!」 「な、何!どうした!」  顔を上げた瞬間、擦りガラスの嵌った扉の向こうに人影が見えた。叫び声を上げた私に驚き、弟が脱衣所まで入って来たのだ。私は咄嗟に背を向け、 「なんでもない。もう上がるから、廊下に出て」  と答えた。 「な、なんだよ。体ちゃんと洗えよ。……ったく」  ぶつぶつと文句を口にする弟の気配が遠のいた。 「ごめんな、さ」  振り返ると、擦りガラスの向こうにまだ人影が立っていた。先程見たシルエットと全く同じである。顔は分からないが、すぐそこにいる。まるでガラスにへばり付いているかのような近さだ。 「……ベン?」 「なんだよ、いい加減にしろよ」  答える弟の声は遠い。明らかに廊下から聞こえる。 「……誰」  聞くつもりはなかったのに、私は無意識にそう尋ねていた。  そこにいるのは誰?  心の中で問う。  ひょっとしてお爺ちゃんなの?  しかし人影は動かない。  私は思い切って扉に手をかけた。  ……開けるよ、いいのね? 「おーうい!」  突如響いた男の声に、私はおそよ女らしかぬ悲鳴を上げて腰を抜かした。叫んだ声は風呂場で反響し、自分で自分の鼓膜を破壊するところだった。慌てて弟が戻って来るも、私はしばらく立ち上がることが出来なかった。その内、脱衣所の中に利夫叔父が入って来た。先程の「おうい」という声は叔父のものだったのだ。この時には既に、擦りガラスに映った人影は消え、ぼんやりとしたロウソクの光が透けて見えていた。  やがて無遠慮に脱衣所へ入って来た叔父を弟が押し返そうとしたが、叔父は別段言い争うような様子も見せず、私にも聞こえる声でこう言った。 「……日記を見つけた」  利夫叔父はその日記を、居間の炬燵の上で見つけたそうだ。  この家に来てから四日間、叔父はずっと居間を占領していた。基本的には二階の書斎で日記を探していたようだが、お酒を飲んで眠る時はいつも居間だった。  私たちが風呂場を使っている間、炊事場の冷蔵庫を漁って勝手に食べ物を拝借し、戻ると、炬燵の上に黒革の大きなノートが置かれていた、という。もちろん、その瞬間まで日記はそこになかった。居間を離れて炊事場へ向かい、また戻るまでにおよそ五分。 「はじめは誰かが入って来たと思った」  叔父はそう言って弟を見た。「だが考えてみりゃ、玄関に近い廊下にはお前がずっと座ってた。部屋の窓には鍵を掛けてあったし、炊事場にゃあ勝手口があるが、そもそも俺は炊事場に行ってたんだ、入れ違いで先に居間へ行くことなんて誰にも出来っこねえ」  では、黒革の日記はどこから現れたのか。 「そこいら中に散らばってる気持ちの悪い白いゴミと同じ、天井から降ってきやがったか、あるいは」  叔父はそこで言葉を切り、ッチ、と舌打ちした。 「あるいは、なんですか?」 「……」 「なんですか?」 「俺はあのガキどもが怪しいと踏んでる」 「ガキども?」  叔父の目が私を見た。祖父の棺の上に置かれたロウソクの灯りだけでは、逆光を背にして座る叔父の表情が分からない。だが見えていないからこそ怖かった。 「実夫兄さんとこのガキだよ。与一と、青南」 「えッ!?」  意外な答えに、私の声も自然と大きく出た。 「今時の八十は昔に比べりゃ元気なのかもしれねえが、爺はあれで昔から足が悪かった。家中に転がってる花瓶や壺ならまだしも、例え十五年前だろうがあの爺に木箱なんざ運べねえ。だからお袋はこの日記に意味があると考えたんだろう。もしこれが帳簿で仕入れ先が書かれてるなら、配達の記録も辿れるんじゃないかってな」 「お爺ちゃんが自分で買って来て運び入れたわけじゃない、ということですね」 「ああ。そもそもあのゴミみたいなガラクタを、本当に金を払って買い付けてたかどうかも疑わしいがな」 「じゃあ、叔父さんはどうしてよっちゃんとせいちゃんが怪しいと思うんですか?」  聞いた私に、 「一緒に住んでて何も知らねえわけねえだろう」  と叔父はドスの効いた声で言った。「もし爺が自分で運び入れたんじゃないなら、働きもせずに家でゴロゴロしてるあのごく潰しどもを利用しない手はねえさ。……おい、お前何勝手に見てやがんだ」  叔父はそう言って弟の手から日記を引っ手繰った。叔父と私が話をする間、弟が黒革の日記を開いて勝手に読んでいたのだ。だが弟は両手を開き、 「こりゃ無理だー」  と言った。「全然無理。俺には読めない」 「ああ?」  と叔父が日記を開く。 「昔の人って皆こうなのかな。お婆ちゃんなら読めるのかなぁ。もう俺なんかこれを字とすら認識出来ないもん」  私も叔父の手元を覗き込んでみた。つい癖で携帯電話の灯りをつけそうになり、おい、と窘められた。ロウソク持って来い。言われて小振りなロウソクを手にして戻り、日記の真上でかざし持った。 「チッ」  と叔父が舌打ちする。見れば確かに、祖父の字は手癖が酷かった。弟の言う通り、書かれた文字が平仮名なのか漢字なのかも識別できない。各ページには、英語の筆記体を更に乱雑に書き殴ったような文字列がぎっしりと埋め尽くされている。しかし、ただの一文字も私には理解出来なかった。 「これって」  思わず私は呟いた。「……本当に、言葉なの?」  叔父が顔を上げて私を見た。  日付、天気、本文、どの場所にもかなりの文字数が書きこまれている。しかし見ようによっては、ただボールペンで落書きしているようにも見えるのだ。祖父なりの理由があったのかもしれないが、少なくとも私にはこの日記に意味のある言葉が書かれているようには思えなかった。 「叔父さん、お爺ちゃんは亡くなる前、何か病気をされていましたか?」 「病気?」 「例えば認知症とか、ジストニアとか。日記を書こうとしても書けなかったんじゃないでしょうか」 「手が震えてか? いや、聞いたことねえ。この家のガラクタについて文句タレようもんならお袋相手にも容赦なく怒り狂った爺だ。死ぬ直前までぴんぴんしてたさ。足が悪い以外はな」 「じゃあ」  と弟が言いかけて、口を噤んだ。 「じゃあ、なんだ」  と叔父が聞いた。ロウソクの灯りを吸収し、ただ暗く光っているだけだと思いたかった。だが叔父の目には、ややもすれば怒りにも思えるギラつきが見て取れた。弟は答えず、胡坐をかいたまま下を向いた。 「……じゃあなぜ、爺は死んだのか……そう言いたいわけか」  叔父の言葉に、弟は尚も黙り込んだ。  祖父の死の原因は心臓発作だと聞いている。だが、私も祖父が亡くなってから母にひと言聞いただけであり、晩年の祖父がどのような生活を送っていたのかは一切知らなかった。私たち姉弟は祖父に対し、無関心という名の罪を犯していたのだ。 「哀れな爺だな」  と言って叔父は棺を振り返った。「爺の死に様なんか誰も興味ねえってよ」 「そんな事言ってないだろ」  力なく弟が言い返すも、 「言ってはねえな。だが顔に書いてある」  と叔父は答えた。 「……そう言えば、私ここへ来てからお爺ちゃんの顔見てなかった」  私は割って入り、弟を誘うように立ち上がった。だが「お、俺も」と付き従う弟と私を交互に見やり、 「やめとけ」  と叔父が止めた。私と弟は同時に振り返り、無言のまま叔父を見つめ返した。 「……やめとけ。フウがしてある」  フウ? 封印の、封のことだろうか。 「棺に、ですか」 「ああ。一週間家ん中に放置するんだ。防腐処理だって簡単じゃない。空気が入らんようぎっちりと蓋を閉じて『鍵』のようなものを取り付けてある」 「でも」  と弟が言う。「何度も見てるけど、棺桶に鍵なんかついてないっすよ?」 「あ?」  慌てた様子で叔父が立ち上がるも、やはり腰の痛みが酷いらしく、膝を曲げたままゆっくりと祖父の棺へと辿り着いた。 「ほら」  と弟は言う。確かに、鍵らしきものは付いていなかった。  叔父が言うには、故人の顔を見るための覗き窓には本来紐状の取っ手が付いている。祖父の棺はこの取っ手を外し、開いている穴に針金を通して「開かず」の意志が見て分かるように封印してあったそうだ。が、私たちの見つめる小窓には、針金はおろか紐状の取っ手さえなかった。  叔父が勘違いをしており今回は封印が施されていないのなら、確かに紐状の取っ手が付いていなければおかしい。しかし、どこにもそれらしき物は見当たらなかった。 「……なんでだ」  と叔父が独り言ちた。  弟が覗き窓にそろりと指をかけた。 「おい!」  と叔父が声を荒げる。「やめろと言ってるだろうが」 「封がされてないなら別にいいじゃないっすか。もうここまで来たら少しくらい臭ったって平気っすよ。一度くらい、ちゃんとお爺ちゃんの顔見ておきたいし。なあ、姉さん」 「う、うん」  確かに、それは思う。この家に来てから不可思議な事ばかり連続して起きる為、当たり前にやるべきことが疎かになっていた。私たちはまだ、死んだ祖父に手を合わせてもいなかったのだ。 「叔父さんは、もうお爺ちゃんの顔見たんすか?」 「……いや、見てない」 「なんだ、じゃあ一緒に」 「おい!」  弟が覗き窓を開いた。観音開きの扉を外側に持ち上げると、ドライアイスの冷気がふわふわと立ち昇って来た。どうやら防腐処理は完璧だったらしく、嫌な臭いなど全く漂ってこなかった。弟が片手で冷気を払い、つま先立ちになって棺の中を覗き込んだ。 「……え?」  と弟が目を細めた。棺はストレッチャーに似た棺台の上に置かれている為、高い位置にある。室内灯からの明かりもないため、角度的に中を見るのは難しいのかもしれなかった。 「ええ?」  と弟は言った。なんだ、と叔父が尋ねた。覗き込もうにも腰が痛くて出来ないのだ。弟は答えずにそろそろと指先を棺の中に差し入れていく。 「ベン?」  どうやら祖父の顔を触るつもりらしかった。 「……なんだよ、これ」 「どうしたの?」  私が聞いても弟は答えない。弟は引っ込めた自分の指先を見つめ、そしてもう一度祖父の棺に手を突っ込んだ。 「……な」  するとその途端、「う、おおッ」、弟は吐き気を催し左手で口を押え、体をくの字に折り曲げた。 「べ、ベン!? 何、どうしたの」  背中をさすりながら私が問うと、弟は涙を浮かべた目で棺を見上げ、こう答えた。 「体の中身がない」 「……え?」 「見てみろよ。触ってみろ。ぺしゃんこだ。これが防腐処理だってのかよ! 爺ちゃんの内臓どこ行ったんだよ!」 「え、ぺしゃ……?」 「爺ちゃんの身体がぺしゃんこなんだよ!顔も!首も!押さえたらべこって凹んだんだ!何なんだよこれ!骨も肉もなんもない!人の形したただの皮だッ!」  私は実際には見ていない。しかし弟の話を聞いた瞬間、再び瞼にあの光景が甦って来た。玄関からたった一歩外へ出るなり、ぺしゃんこに潰れた作業員風の男。私は何も考えられなくなり、その場で意識を失った。  弟が私の肩を激しく揺すりながら、耳元で何事かを叫んでいた。私は言葉の意味を理解する前に弟の声の大きさで意識を取り戻した。私が目を覚ましたのは、この家を訪れてから五日目の昼頃になってからだった。 「今、家の外まで来てるらしいよ。……姉さん、姉さん、聞いてるのか!」 「……え?」  はっとなって飛び起きるも、弟の言葉の意味が理解出来ない。私は咄嗟に視線を巡らせ、ロウソクの火を確認した。 「……」  祖父の棺の上で、ロウソクは赤々と燃えていた。 「ベン。ごめん。私、どのくらい眠ってた?」 「もうお昼だよ。そんなことはいいって姉さん、だから、家の前に今到着したんだって!」 「誰が」  何度も同じ言葉を繰り返す、興奮した弟の目を見つ返す。弟は私の両肩を掴んだまま、こう答えた。 「やっぱり九里先生が手配してくれてたんだよ。……霊能力者だってさ」  慌てて外へ出ると、既に玄関の上り框では仁王立ちした利夫叔父が外に向かって高圧的な態度を見せていた。 「覚悟はあるのか、本当に?」  言われて、敷地の外側でこの家の屋根付近を見上げていた男性が、「はあ」と言って叔父を見返した。  髪の毛を綺麗に後ろへ撫でつけた男性で、年の頃は五十代後半くらいだろうが。門扉に遮られて服装等は分からないが、あまり背の高い人物ではなさそうだった。叔父を見つめる目にはこれと言った表情は浮かんでいなかったが、落ち着き払った彼の目からはなんとなく只者ではないような雰囲気も感じられた。  しかし、叔父の態度である。叔父は自分よりも年上かもしれない男性に向かって「覚悟はあるのか」とのたまっているのだ。しかもわざわざ九里先生がお願いして下さった、我々の力になってくれるという方に対してである。 「ちょっと叔父さん、失礼はやめてください」  背後から声をかけると、 「ああ?」  叔父は面食らったような顔で振り返り、何だお前、と私に言った。 「何だじゃなくて、せっかく来ていただいたのに」 「だからこうして家ん中に入れる前に、ちゃんと覚悟があるのかと聞いてやってるんだ。いきなり来て何だ。俺はあの男に聞いてるんだ。この家に入ったが最後、問題を解決するまでは家から出られんぞ、それでもいいのか、ってなあ」 「だけど、もう少し言い方というのものが……」  あのー。  外から呼ばれて振り向くと、その男はいつの前にか玄関の一歩手前まで入って来ていた。 「おい!」  と叔父が声を荒げる。 「あ、あの、それ以上入らない方がいいっすよ」  と弟が両手を前に突き出して牽制する。「別に家の中に入ってもらう必要はないんですよ。この家に何が起こってんのか、外からだって分かる方法があるのかもしれませんし」 「弟の言う通りです。言い方はあれですけど、叔父の言ったことは間違いではありません。一度でもこの家の敷居を跨いでしまうと、出られませんよ。出たら最後」 「出たら……最後?」  私の言い方の方がまずかった。玄関前に立っている男性は不思議そうな顔で私を見返し、 「最後……なんです?」  と言って、やはり屋根の辺りを見る様に真上を向いた。 「さっきから何を見てやがんだ?」  叔父がそう尋ねると、男性は上を向いたまま、「いやね」と応じた。 「なーんか、変なんですわ。この家」  何がだ、と叔父は不機嫌さを滲ませた声で尋ねた。  現れた男性はスーツを着ていた。左手には折りたたんだコートを掛けて持ち、右手を上着の内ポケットに滑り込ませて眼鏡を取り出した。 「うーーーんむ」  男性は眼鏡をかけた目でまたもや上を向く。玄関のすぐ外側からでは、屋根の上を見ようにも角度が急過ぎて無理なんじゃないだろうか。それとも彼が見ているのは、屋根ではないのだろうか。 「あのー。今、この家にはあなた方以外にどなたかおられますか?」  とその男性は聞いた。 「……いねえ」  と叔父が答える。 「そうですかあ。なら、やっぱり変なんだなあ」 「誰かがいるってのか」 「いますねえ。というか、屋根の上から二階部分にかけてですが、四五人はいるようです。だけどなーんだってあんな所に、引っ掛かるようにして留まってるのかなあと思いまして」 「し、四五人……」  と弟が呻いた。 「引っ掛かるってなんだ。屋根の上から二階部分ってどこの話だ。屋根裏なんてものはうちにはねえぞ」  叔父が喰ってかかると、男性はようやく私たちに視線を下ろし、言った。 「人ではないようです。私の見立てでは、その四五人は外からこの家に入って来ようとしているらしいが、何かの力に遮られて入れない……そんな風に見えます」 「はあ?」  胡散臭いと言いたげな、あからさまな声色で叔父が言った。「何かの力ってなんだよ」 「おそらくその力は、この家の中にあるんでしょうな。ちょっと、見させていただきますよ」  言うや否や男性は家の中に踏み込んで来た。私も弟も、叔父までもが悲鳴に近い声を上げた。しかし男性はニコニコと笑顔を浮かべたまま入って来ると、上り框にコートを置き、スーツの内ポケットから名刺を取り出して私たちに差し出した。 「申し遅れました。私、こういう者です」  叔父が名刺を引っ手繰る。後ろから覗き込むと、そこにはこう書かれていた。 「六文銭 術師 寺川(てらかわ)歩庸(ぶよう)」  聞いたことのない団体名だった。術師というのも今一つ具体性に欠ける肩書である。とにかくこの男性が寺川という名前であることは分かったが、差し出された名刺から読み取れたのはただそれだけだった。だが何とも云い知れぬ違和感のようなものも、この時の私は感じ取っていた。 「寺川さんなぁ。……俺はどうなっても知らんぜ」  と、冷え切った目で名刺を見つめたまま叔父が言った。しかし寺川氏は顔色一つ変えず、「はあ」と答えただけだった。  爺のロウソクを見張ってろ、と叔父に言われて私は部屋に返された。だが腰の悪い自分に代って手足にでもするつもりなのか、叔父は弟の首根っこを掴んで側に置いた。弟はむろん納得しかねる表情だったが、抵抗する気力も残ってはいない様子だった。  部屋に戻ってすぐ、携帯電話に着信が入る。凛叔母さんかと思いきや、相手は知らない番号だった。 「もしもし」  私から切り出すと、 「もしもし」  返って来たのはやはり聞き覚えの無い声だった。女性の声だった。しかし初めて聞いた声にも関わらず、私は少しもその声に警戒心を抱かなかった。理由は、分からない。そして相手の女性は、自分のことをこう名乗った。 「私、K病院の九里医師から依頼を受けました……柊木夜行(ひいらぎやこう)と申します」 「く……」  ぞっとした。柊木夜行という名に聞き覚えはない。しかし、彼女ははっきりと九里先生からの依頼と言ったのだ。では、先程現れた寺川という男性は何者なのだ。 「せ、先生から?」 「そうです。あなたが、涼白カルさんで間違いないですか?」 「はい、涼白です」 「九里医師はあなたがこの件に関して第三者の関与を望んでいないと仰っていました。話の内容は深く聞けていませんが、なにやら大変な事態に巻き込まれていることは私にも分かります」 「……そう、なんですか?」  私は九里先生にこの家での出来事を何ひとつ話していない。先生がこの柊木という女性にどのような相談を持ち掛けたのかは分からないが、もしも想像だけで大変な事態に巻き込まれていると言ったのなら、私はこの彼女を信用することが出来ない。ところが、柊木さんは続けてこう言った。 「今、その部屋にはお一人ですか?」 「はい、今は」 「……」 「何故ですか?」 「一軒家ですか?」 「……そうです」 「今いる部屋にずっといらっしゃる?」 「そう、ですね。一日の大半をここで過ごします」 「天井」 「え?」 「天井。もしく二階部分から声が聞こる、なんてことはありませんか?」  思わず奥歯を噛んだ。もちろん怖かったからだ。私は携帯電話を握る手に力を込め、ゆっくりと振り返り、天井を見上げた。 「見ないでください」  言われて咄嗟に下を向いた。 「怖がらせてごめんなさい。……涼白さん、私が今こうしてお話をするまで、何も見えず、何も聞こえていないのなら、あなたはまだ大丈夫です」 「……はい。何も見てません。何も聞いていません」 「分かりました。それでは」 「何か聞こえるんですか」  思わず聞いた私の質問に、柊木さんは黙った。 「今こうして私と電話してる間も、声が聞こえてるんですか。答えてください。分からないことが嫌なんです。知らないままでいるほうが……ずっと怖い」 「そうですか」 「お願いします」 「……ええ」  と柊木さんは答えた。「今もずっと聞こえていますよ」 「な、ど、……どんな風に、聞こえているんですか?」  もうすぐだ もうすぐだよ 「ケラケラと乾いた声で笑いながらそう繰り返しています」  くふう、と私の口から涙混じりの声が出た。抑え込もうとした恐怖が外へ漏れ出てしまった。 「大丈夫ですよ涼白さん。今からそちらへ向かいます」  柊木さんはそう言う。 「でも!」 「平気です。これが私の仕事ですから」 「仕事。……もしかして、警察の、方」 「はい」  そうだ。寺川歩庸を名乗る男性に抱いた違和感の正体は、これだったのだ。頼るベき霊能者は警察の人間だと、九里先生は確かにそう仰っていた。 「だ、だけどこの家は……!」 「確かに怪異が起きています。それも、強力な。しかし、霊感のないあなたが認識出来るほどの現象が起きていないなら、まだ何とかなると思います」 「じ、じゃあ、もし見えたらどうなるんですか? もしも、見えていたら」 「……見え、てるん、ですか?」  ここへ来て柊木さんの声に僅かな動揺が混じった。口調は変わらず優しく温かだったが、言葉の隙に亀裂を生んだその間こそ、明らかな狼狽だった。 「分かりません。だけどこの家に来た初日から、おかしなことはずっと起きています」 「初日から? 今、何日目ですか?」 「……五日目です」 「五日。……何が起きているんですか? 何も見えず、何も聞こえてないんですよね?」 「……骨が」 「え?」 「人の骨のようなものが、天井付近から落ちて来るんです」 「……」 「最初は小さな欠片でした。だけどその内大きくなっていって、落ちて来る回数も、どんどん増えて」 「……ッ」 「え!?」  その時確かに柊木さんは口走った。だがあまりにも唐突に聞こえたその言葉に今度は私が狼狽えてしまい、正確に受け止めることが出来なかった。 「とにかく、今すぐそちらへ向かいます」  柊木さんはそう言って電話を切った。  柊木さんは、恐らくこう口走ったのだと思う。  最悪だ、と。  部屋の前の廊下に怒号が響いた。柊木さんとの電話を終えた直後のことで、私は畳の上に座り込んだまま動けなかった。どうやら叔父が怒り狂っている。どたばたと激しい物音もする。それらの声や音は全て、炊事場の方から聞こえて来るようだった。私は震える膝を抑えながら立ち上がると、ソロリと襖を開いて恐る恐る首から上だけを廊下に出した。祖父の部屋から見て炊事場は左側である。突き出した頭部をくるりと左に向けたその時だった。  私の目の前に女が立っていた。 「いいいぃぃ……ッ」  絶叫する直前、その女が自分の唇に人さし指をあてがった。形の良い、ぷっくりとした愛らしい唇だった。 「……あなた」  よく見れば女の顔に見覚えがあった。それは女というよりもまだ少女と呼びたくなるような、清らかさを感じる美しい顔立ちだった。色白で、つるりと滑らかな頬、色づいたばかりの蕾を思わせる赤い唇、そして蠱惑的な輝きに潤むアーモンド形の大きな目。こんな状況で出会っていなければ、思わず頬が赤くなってしまう程の絶世の美少女である。 「ま、茉里奈?」  私がそう問うと、朧気に光る青白い輝きを身に纏った彼女はこくりと頷いた。弟・ベンが付き合っているという私たちの従妹、曽我部茉里奈である。 「どうして、こんな所に?」  茉里奈は悲し気な目をして頭を振り、ゆっくりと口を開いた。 「……、……、……」 「え?」  確かに茉里奈は口を動かし何かを伝えようとした。しかし、全く彼女の声は聞こえてこなかった。 「何て言ったの? 何? 茉里奈、もう一度」  私が部屋から半身を出したその瞬間、廊下の奥から更なる怒号が響き渡った。 「一体何のつもりだ!何をしやがんだお前はーッ!」  利夫叔父の叫び声と共に、奥の炊事場からどたどたと数人の足音がこちらへ向かって来るのが分かった。すると、私のすぐ目の前に立っていた茉里奈の姿が半透明化し、 「え」  驚く私を見つめたまま、茉里奈の身体は完全に消滅してしまった。驚く暇も与えず、先程の寺川氏を先頭に、叔父と弟がその両側を挟んで戻って来た。 「姉さん、危ない!」  弟が言うも、何が起きているのか全く分からない私はその場から動けず、どかどかと歩いて来た寺川氏にぶつかられれて部屋の中へと倒れ込んだ。 「ロウソクッ!」  と叔父が叫んだ。私はすぐさま立ち上がってロウソクの火を両手で囲った。  ……大丈夫だ。消えてない。  しかし、一体何だと言うんだ。出会った時は柔らかな物腰だった寺川氏だが、一瞬垣間見た彼の目は完全に正気を失っていた。その証拠に彼は私にぶつかりながらも動じることなく、自分の両手に祖父の集めた壺をしっかりと掲げ持っていたのだ。はっきりと確認したわけではなかったが、コルクの栓がされた口の小さな壺だったように思う。    パアアアン!  激しい音が玄関から聞こえた。察するに、寺川氏が祖父の壺を叩き割ったのだ。 「な、何だっていうのよ?」  そこへ弟が戻って来た。 「姉さん平気!?」 「何なのよ、あの人!」 「分からない。炊事場で話をしてたんだけど、急に立ち上がってそこら辺の壺とか瓶とか割り始めたんだ。俺もわけ分かんねえよ」 「何それ……あ、あんた、さっきそこの廊下に茉里奈がいたの、見た?」 「……え? 茉里奈?」  思えばこの時既に、私たち姉弟はいつの間にか、異常な怪現象の中に身を置く内にすべての感覚が麻痺してしまっていたのだ。一週間の死体の番、消せないロウソク、そんな意味の分からない古い仕来たりに縛られたまま、まともな思考や常識が意識の外へ追い出されようとてしていた。  だがしかし、もはや何が起こってもおかしくはない、そんな緊張感と恐怖に苛まれながらも、私たちは目の前の現実から逃げることが出来なかったのだ。  自分たちの命が危険に晒されていると分かっていながら、それでも尚、どうして私たちは……。  いや、私は……。  
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