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序、
北米において、イングランドによる初めての植民地が建設されたのは
1607年のことであった。
世に言うバージニア植民地がこれであり、その植民地が源流となって
形成されていくのが所謂「十三植民地」である。
メイフラワー号の航海などは、その一連の植民活動の一種の象徴であり、
詳しい経緯はともかくとして名前くらいは聞いたことがある、という人が
多いに違いない。
しかし、バージニア植民地建設のおよそ30年程前から、フランスも
北米に進出しつつあったのである。そうして建設された植民地は
ヌーベルフランス、つまり「新フランス」と呼ばれ、フランス宮廷がこの
植民地の拡大に力を注いでいた。
時は17世紀。ヨーロッパを波源とする近代化の波が、世界中に伝播する、
その端緒となった時代である。ヨーロッパを中心とした所謂近代社会が
その周辺の国々を植民地化し、自分達の市場に取り込むことで急速にその
領域を広げていく、そういう時代だった。
そのエネルギーは一種爆発的といってよく、自勢力の拡大こそが、
この時代におけるヨーロッパ諸国全体の至上命題であり、宿命であったと
言っても過言では無い。
口火を切ったのはスペインとオランダである。スペインは主に南米へと
進出し、オランダは主に東南アジアへと進出していった。どちらも金銀財宝の類や、香辛料の獲得を目的としている。イギリスやフランスも、その二国に
少し遅れて進出を開始し、その他の国々も各々がなしうる範囲で、この
流れに追従していった。
世界広しとはいえ、地球が一個の球体である限り、植民地化しうる領域も
有限ではありえない。多くの国々が限りある世界へと次々に進出していく中、各勢力間での植民地獲得競争が勃発するのは、むしろ必然ともいえた。
英仏両国にとって幸運だったのは、先発のスペインやオランダが早々に
その競争から脱落したことだろう。
スペインは時代の変換の中で覇権国家としての地位を失い、代わりに覇権を握るかと思われたオランダは、イギリスとの戦争に敗れて衰退を余儀なくされた。さらにヨーロッパにおける経済構造の変化もこれに拍車をかけた。
それ以降植民地獲得競争は、紛れもなくイギリスとフランスの独壇場と
化した。世界の各地で両者の対立が激化し、衝突も日増しに増えていった。
こうして百年にも及ぶ、英仏の抗争が幕をあげたのである。
スペインもオランダも衰退したいま、この世に覇権国家は存在しない。
それ故この抗争は、紛れもなく、次世代の覇権を巡る熾烈な闘いに
なった。この闘いの中で、ある者はその勢力を伸ばし、ある者は衰亡して
いった。そして、勝者はおよそ250年もの間、覇権国家としての地位を守り
続けることとなったのである。
こうして為された英仏抗争百年の歴史は、その後の世界の命運を
決するものとして、今なおその光芒を失っていない。
◯
近代の黎明期以来、イングランドは着実に力をつけ、1588年にはアルマダの海戦と呼ばれる一連の戦闘において、当時の覇権国家スペインの大艦隊を
破る程に成長していたが、それでも17世紀前半の時点では、ヨーロッパの
辺境の小国の地位から、未だに脱却できていなかった。
一方フランスは、中世よりヨーロッパにおいて強大な勢力を持ち、
古い伝統と、それに裏打ちされた権威を誇る、大国である。
イングランドには勝ち目など到底無いように、見えたかもしれない。
実際フランスには、自分達がヨーロッパでも最高の国家のひとつであると
いう自負があった。
しかしピューリタン革命、名誉革命、ファルツ継承戦争というふうに、
重なり来る困難をその都度その都度切り抜けて、イングランドは急速に
発展を遂げていった。
しがないヨーロッパの小国ーイングランド王国ーから近代的な改革を経て、先進的な政治形態、強固な経済、強力な軍隊、高度な世界戦略を持つ大国
ーグレートブリテン王国ーへと成長していったのである。18世紀前半に
イギリスにおいて勃興した産業革命も、その流れの一部に位置付けられる
だろう。
そうして出来上がっていった国家は、18世紀以降の世界の覇権を握るに
ふさわしいものであった。
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