序、

1/6
前へ
/6ページ
次へ

序、

 北米において、イングランドによる初めての植民地が建設されたのは 1607年のことであった。  世に言うバージニア植民地がこれであり、その植民地が源流となって 形成されていくのが所謂「十三植民地」である。  メイフラワー号の航海などは、その一連の植民活動の一種の象徴であり、 詳しい経緯はともかくとして名前くらいは聞いたことがある、という人が 多いに違いない。  しかし、バージニア植民地建設のおよそ30年程前から、フランスも 北米に進出しつつあったのである。そうして建設された植民地は ヌーベルフランス、つまり「新フランス」と呼ばれ、フランス宮廷がこの 植民地の拡大に力を注いでいた。  時は17世紀。ヨーロッパを波源とする近代化の波が、世界中に伝播する、 その端緒となった時代である。ヨーロッパを中心とした所謂近代社会が その周辺の国々を植民地化し、自分達の市場に取り込むことで急速にその 領域を広げていく、そういう時代だった。  そのエネルギーは一種爆発的といってよく、自勢力の拡大こそが、 この時代におけるヨーロッパ諸国全体の至上命題であり、宿命であったと 言っても過言では無い。    口火を切ったのはスペインとオランダである。スペインは主に南米へと 進出し、オランダは主に東南アジアへと進出していった。どちらも金銀財宝の類や、香辛料の獲得を目的としている。イギリスやフランスも、その二国に 少し遅れて進出を開始し、その他の国々も各々がなしうる範囲で、この 流れに追従していった。  世界広しとはいえ、地球が一個の球体である限り、植民地化しうる領域も 有限ではありえない。多くの国々が限りある世界へと次々に進出していく中、各勢力間での植民地獲得競争が勃発するのは、むしろ必然ともいえた。  英仏両国にとって幸運だったのは、先発のスペインやオランダが早々に その競争から脱落したことだろう。  スペインは時代の変換の中で覇権国家としての地位を失い、代わりに覇権を握るかと思われたオランダは、イギリスとの戦争に敗れて衰退を余儀なくされた。さらにヨーロッパにおける経済構造の変化もこれに拍車をかけた。  それ以降植民地獲得競争は、紛れもなくイギリスとフランスの独壇場と 化した。世界の各地で両者の対立が激化し、衝突も日増しに増えていった。  こうして百年にも及ぶ、英仏の抗争が幕をあげたのである。  スペインもオランダも衰退したいま、この世に覇権国家は存在しない。  それ故この抗争は、紛れもなく、次世代の覇権を巡る熾烈な闘いに なった。この闘いの中で、ある者はその勢力を伸ばし、ある者は衰亡して いった。そして、勝者はおよそ250年もの間、覇権国家としての地位を守り 続けることとなったのである。  こうして為された英仏抗争百年の歴史は、その後の世界の命運を 決するものとして、今なおその光芒を失っていない。    ◯  近代の黎明期以来、イングランドは着実に力をつけ、1588年にはアルマダの海戦と呼ばれる一連の戦闘において、当時の覇権国家スペインの大艦隊を 破る程に成長していたが、それでも17世紀前半の時点では、ヨーロッパの 辺境の小国の地位から、未だに脱却できていなかった。  一方フランスは、中世よりヨーロッパにおいて強大な勢力を持ち、 古い伝統と、それに裏打ちされた権威を誇る、大国である。  イングランドには勝ち目など到底無いように、見えたかもしれない。  実際フランスには、自分達がヨーロッパでも最高の国家のひとつであると いう自負があった。  しかしピューリタン革命、名誉革命、ファルツ継承戦争というふうに、 重なり来る困難をその都度その都度切り抜けて、イングランドは急速に 発展を遂げていった。  しがないヨーロッパの小国ーイングランド王国ーから近代的な改革を経て、先進的な政治形態、強固な経済、強力な軍隊、高度な世界戦略を持つ大国 ーグレートブリテン王国ーへと成長していったのである。18世紀前半に イギリスにおいて勃興した産業革命も、その流れの一部に位置付けられる だろう。  そうして出来上がっていった国家は、18世紀以降の世界の覇権を握るに ふさわしいものであった。  
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加