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キョウダイ
妻は近ごろ、不思議な言葉を口にするようになった。
「幼稚園に入る前の長女が戻ってきたみたい」
長女は大学卒業後、美術系の専門学校へ通っている。
休日はアルバイトに勤しみ、忙しくも楽しそうな毎日を送っているようだ。
彼女は元より自由気ままだが、妻の言うとおり、子供のころの無邪気さを取り戻したかに見える。
3つ年下の長男が大学から帰ってきた。
長女がわざわざ、玄関先で出迎える。
「なんだ、キョウダイ。なんか用か」
「うむ、キョウダイ。あとでキョウダイとゲームしよう」
姉と弟はお互いを名前ではなく「キョウダイ」と呼び、自分のことも「私」や「僕」の代わりに「キョウダイ」と称している。
ややこしいかぎりだが、もう10年以上も続いているので、こちらもすっかり慣れてしまった。
お互いを区別しないことで、年齢差とか性差をなくそうという試みだろうか。
それにしては長女は弟に対して、ときに横暴だ。
同じキョウダイでも、立場の違いは明白だった。
私自身は一人っ子なので、兄弟姉妹間の機微はよく分からない。
「キョウダイ君は帰ったばかりで、手洗いもしていない。少し休ませてあげなさい」
長男が、「そうだよ」と私の話に乗っかる。
姉は、「そうか」と鷹揚に返事をしながらリビングへ引き揚げたが、その手にはすでに携帯ゲーム機が握られていた。
ひと息ついた長男が自室に戻ると、後に続いて、長女が彼の部屋に入っていった。
私がもし長男の立場だったら、プライバシーの侵害を訴えて姉の入室を拒んでいたかもしれない。
「キョウダイのしていることはパワハラかつセクハラだ」と、文句を言うだろう。
だが長男は姉に向かって、「来るな」とか、「出ていけ」とは言わない。
キョウダイ達の間で交わされた、約束があるからだろうか。
長女が生まれる前のことだった。
年上の知人から、こんなことを言われた。
「幼稚園に入る前くらいまでの子供は、生まれる前のことを覚えているらしいよ。会話が出来るようになったら、聞いてみるといい」
なんとなく心に残っていて、長女が3歳の時に尋ねてみた。
妻は長男の授乳を終え、ソファに寄りかかりながら聞き耳を立てている。
長女は、覚えているよ、とすぐに答えた。
「あのね、ママのおなかにいたころね、まだふたりとも泡だったんだけど、その時にね、『お外に出たら、いっしょに遊ぼうね』って約束したんだ」
長女の話は創作ではなく、ほんとうにあった出来事を語っているようだった。
私の心に、自分が泡で透明な液体の中を漂っている映像が浮かんだ。
淡い光で満たされた空間には、いくつもの泡が上下していて、近づくと互いに会話をするのだ。
20年が経った今になっても、キョウダイ達は泡だった頃の約束をちゃんと守っている、と言うことか。
長男の部屋から、姉の叫び声が上がった。
「キョウダイ、あとは頼んだ」
ゲームの仮想世界で、キョウダイ達は力を合わせて敵と戦っていたようだ。
長女の操作する分身は敵に倒されてしまったらしい。
つづけて長男の叫び声が上がった。
「キョウダイ、わるい。ひとりじゃ無理だ」
仲良く、ゲームオーバーとなったらしい。
私は子供のころからずっと、兄弟がいれば良いなと思ってきた。
妻に言わせれば、「親とも友達とも違う、自分に近い他人」とはどのようなものか、ずっと知りたかったのだ。
私の憧れた関係性を、生まれる前から持っているキョウダイ達がうらやましい。
だが最近になって、ふたりを見ているだけで私も、兄弟姉妹を持つ気分を味わっているのではないかと思えるようになってきた。
私にとって、キョウダイ達がいてくれることは、何にも増して有り難いことだ。
(キョウダイ・了)
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