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その1
最近、朝が寒い。毎年この時期になると、学校に行くために超えないといけない壁が一つ増えた気分になる。布団は暖かい方がもちろんいいけれど、その暖かさが翌朝の布団からの脱出を難しくしているからややこしい。暖かさを増幅させているのが自分の体温であることに苛立ちさえ覚える。苛立ちと、「え、もうそんな季節なのちょっと待ってよ」という無意味な焦り。顔を洗っているときもムクムク湧き上がってくるその焦りが、余計な不安も一緒に連れてくる。宿題やったっけ?英語の小テストって、今日?明日?
多分不機嫌がうっすら顔に出ているであろう私に、弟と父親が遠慮がちに声を掛ける。
「姉ちゃん、おはよ」
「おはよう、香奈」
ん、と唇をほとんど動かさずに返事をしながら、いつもの席に着く。既に用意されているバターロールパンと角切りされた果物を確認して、気持ちだけキッチンに向けていただきますを言う。母親は気付いていない、多分。でもいいや。言ったし。ロールパンをかじる。中からバターがにじむ。これうまく食べないと指につくんだよな。
「香奈、いただきます言った?」
ほら聞こえてない。でも、言ったわ、と言い返す気力はこの時間にはまだない。仕方なく、いただき済みのパンを含んだ口でもう一度同じセリフを発する。
特に盛り上がるわけでもないけど、我が家は結構朝食から一堂に会することが多い。弟の朝練があったり、私が寝坊する時もあるので、もちろん毎日欠かさずという訳にはいかないけど、印象としては今みたいにだんまりしつつもみんながいることが多い気がする。で、食べ終えた人から各々準備をしてそれぞれの持ち場へ向かう。
準備と言っても、私と弟は制服だし、父親もスーツなので、食後から出発まではそこまで時間がかからない。強いて言えば私は化粧するけど、あとの二人はほとんど洗面台を使うことなく準備を終えるので、基本私が独占出来る。結果、私もそこまで時間かかることは無い。まあ慣れてきたっていうのと、あんまりガッツリやっても先生にばれて面倒だから簡単にしかやらないってのもあるけど。
と思ってたら、この前まで速攻で終わっていた着替えの段階で少しロスをした。いつも通りブレザーを羽織っただけだと肌寒くて、でも日中はそこそこ気温が上がるからどうせコート着ていっても荷物になるかな、それは面倒くさいぞという地味な葛藤をしている間に、案外時間が迫っていた。朝と昼の気温差は、意外や意外こういう見えにくいところにも影響を与えてくる。それにしても、急に寒さレベル上がったぞ。確かに最近朝寒かったけど、昨日こんなに寒かったっけ。
結局、いつものクオリティで仕上げる時間が無くなったので化粧は諦めた。最近つけてなかったお気に入りのマスクを、念のためカバンに入れる。バタバタと階段を降り、時間を確認するためにリビングを覗く。7:40。いつもBGM代わりに流しているTVから、アナウンサーの声が流れてくる。体を翻しつつ、行ってきまーすの声を響かせる。
「はーい、いってらっしゃーい」
母親の返事を、ローファーを履きながら耳でキャッチする。リビングから、全国の感染者数を読み上げるアナウンサーの声が流れてくる。玄関のドアを開けると同時に、外の空気が私の体と我が家に流れ込んでくる。やっぱり今日は寒い。
教室に着いて早々、「ねね、宿題の提出今日だったっけ?」と森本ちゃんに聞かれた。
「え、なんかあったっけ?」
聞き返す私に、森本ちゃん。
「無かったっけ?」
ダメだ、埒あかないやつだこれ。
仕方なく隣の富田に聞く。
「ねえ、今日って何かの宿題提出日?」
「いや、今日は何もなかったと思うけど」
よかった。
「あ、でも」
なによ。
「謝罪のやつ中間提出日だな」
「え、それ今日?」
「そう、中間提出日」
「それやばいよ、どうしよ」
私より先に森本ちゃんが反応する。
「取りあえず先に先生に謝って来れば?」
「うっさい、富田」
「ごめんって。でも多分平気だぞ。聞いた感じやってきてないヤツの方が多い」
「え、そうなの」
「うん、だから提出日延期されるんじゃないかな」
「それ先に言ってよ。私と森本ちゃんに謝れ」
「はいはい、すいませんでした」
「あー、富田くんそれじゃ炎上必至だよ」
森本ちゃんがすかさず突っ込む。が、富田はよくわかっていないとでもいった様子で聞き返す。
「ん?何で?」
私も追撃。
「こないだ授業でやったじゃん、謝る時の注意点」
富田、反論。
「あんなもんいちいちお前らとの会話でもやってたらキリないわ」
再び、森本ちゃん。
「ダメだよー、普段から意識することが大切って先生言ってたでしょ」
「今の中だけでもいくつかあったね炎上ポイント」
「ほう、じゃあぜひ修正してもらおうか」
「まずあれだね、私たちをあしらおうとする態度を見せたのが論外でしょ。それから最後の開き直り。これは引っかかるよー」
「香奈ちゃん、めちゃくちゃ復習してるでしょ」
森本ちゃんに言われて、ちょっと恥ずかしくなったので、その森本ちゃんにも振ってみた。
「森本氏、何か他にご意見ないですか?」
「そうですねえ、先ほどの富田氏の謝罪を見るにつけ、もっと世間を意識した方がいい謝罪になると感じましたね」
「と言いますと?」
「日本という国で謝罪行為を行うにあたって一番気を使うべきは、世間一般という相手なわけですね。この世間一般と呼ばれるものに目をつけられない謝罪をするために必要なことは、まず自分の意見は極力入れないこと。それから、おおよそどのような形で償っていくのか表明すること。ここでは一生とか誠心誠意といった、大ざっぱかつ勢いのある言葉が使いやすいです。あと...」
「まてまて、ほとんど教科書見て言ってんじゃん!」
富田が笑いながら突っ込む。それをみた森本ちゃんが、
「謝罪の時に笑って許される人は限られてるって言ってたけど、もしかしたら富田くんその部類かもね」
「なんで?」聞き返す富田の顔は、心なしか嬉しそうだ。
「だって、今のタイミングで笑っても嫌な感じしなかったもん」
森本ちゃんのこの一言で、富田の相好が崩れたのが分かった。本人隠してるつもりだろうけど。
「はーい、席つけー」
先生が教室に入ってきたので、みんな急いで自分の席に着く。
朝のHRがいつも通り進む。犯人不明の、学校備え付けアルコール消毒パクられ事件がまた起きたらしい。最近多いな、と思っていると、富田が隣で「またかよ」と呟いたのが聞こえて、思わず吹き出しそうになった。
HRの終わりに、先生が例の宿題やったかー?とみんなに聞いた。ほとんどやってきていないか、家に原稿を忘れてきていたので、富田の言った通り、提出は持ち越しになった。一件落着と思った次の瞬間、先生が恐ろしいことをのたまった。
「中間提出延期してそこから本番だともう時間的に間に合わないから、いっそのことぶっつけ本番にしようか」
どよめく教室。私の心もざわつく。
みんなの抗議の声も先生は意に介さず、こう続けた。
「そっちの方が緊張感が増して、いい練習になるでしょ」
えー、という声を振り払って、先生はこう付け加えた。
「いいかーみんな。覚えてるとは思うけど、この課題の条件は本当にみんなの身に起きた出来事で謝罪原稿作ることだからなー。そこ抜けてるとせっかく作ってきて発表しても成績つかないぞー」
その日家に帰ってから、一気に憂鬱になった。面倒くさいことになった。
原稿のデータを入れていたUSBが、少し前から見当たらないのだ。昨日だけで2,3回学校の落とし物ボックスを見に行ったが、一向に見つからない。先生に聞こうかとも思ったが、リアルを原稿にするんだから、先生に出すまで絶対に原稿無くしたりするなよと注意喚起があったばかりだったのでそれも出来ずじまいだった。そこへさらにぶっつけ本番で発表という急展開を迎えた今日、完全にやる気を失った。今から書き直しちゃ間に合うか分からない。
「どうしようかな...」
誰も正解なんて言ってくれないのを承知で、部屋の屋根に向かって呟く。
筆箱に入れておいたし、道端に落としてることは無いと思うんだけどな...
ダメ元で、LINEを開く。森本ちゃんに聞いてみる。
「ねーねー、USB落ちてたみたいな話知らないよね?もし知ってたら教えてー」
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