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八神は、動じることもなく首筋の血をぬぐった。
もう半分乾いた血が、ぱらぱらと石畳に落ちていく。魔除けの白檀の香が、血臭とともに風に漂った。
「まあね。あとは父親から依頼金をうけとるだけだ」
「あの父親もクズだけどねぇ。息子が殺人鬼だってわかったらアッサリ殺して被害者に仕立ててさ。可哀そうだねって世論をあつめて、次男三男にスパルタ教育。これじゃあ、二人目の「首切り魔」が出てきてもおかしくないけど」
「それもまた一興。依頼がうちにきて徳を積めば、不死の体から解放される日も近づくでしょうから」
八神は血を拭うのをあきらめると、哲也の落としていったマフラーを首に巻いた。幽霊だとて、強い思いを残した遺物ならば、この世に残せる。このマフラーは、哲也が唯一、父親からプレゼントされたものだった。父親にとっては、いらないものを捨てるように、気まぐれで長男坊に与えただけだった。だが哲也にとっては父と自分をつなぐ唯一の絆だったのだ。
「神様もひどいよねえ。たった三十人殺しただけで、八神に三百年も呪いをかけるんだから」
肩に飛び乗ってきた黒猫に、八神はいとおしそうに微笑む。
「あなたにも苦労を掛けますね。私の人生に巻き込んでしまって」
「別に。あんたといれば、アタシも昔のこと思い出すかもしれないしさ……あ」
「うん?」
黒猫がみえげたほうを向けば、大きな鴉が飛んでいく。
カァと一声泣くと、夜のとばりのなかにまた消えていった。
「次は……東か」
「この隣町らしいね。まったく、人間はすぐ幽霊になるんだから。祓うあたしたちの身にもなってよね」
「ふふ……。さて、行きますか。早く地獄に、落ちる日のために」
一人と一匹が、夜の公園を歩き去ってゆく。あたりには人の賑わいが戻ってきた。公園に張っていた結界がゆるみ、また誰でも入れるようになったのだ。
人間は、生まれたときから、忘れ去られた落とし物のようなものだ。不完全なものだからこそ、間違いをおかし、不条理な事件を起こし、時には誰かを殺したくなるほどに憎む。いつか、自分の悲しみや苦しみを助け起こして拾ってくれる鬼が来るまで、ひとも猫も鴉も幽霊も、ただ、彷徨い続けるのだ。
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