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「ななせ、…っ」
すれ違った空気が痛くて、どうしようもなく痛くて、ななせを振り仰いだ私に、
「…ただいま」
ふわりと。
私にだけ聞こえるような、静かなななせの声が降りてきて、つま先から震えた。そのまま振り返らずにななせは行ってしまったけれど、ななせのただいまが愛しすぎて震えが止まらなかった。
膝から崩れ落ちて床にへたり込む。微かで儚い宝物みたいなななせの声を抱きしめた。
取り返しのつかないことをした。
でも。どうしようもなかった。
相反する二つの感情が混ざり合って、収拾がつかない。
失くしたものの大きさだけが確かで、息が出来ない。
ななせが好き。ななせが。ななせだけが。
その気持ちだけで生きていけたらいいのに。
廊下で膝を抱えたまま息を殺して、感情も殺した。
絶対に泣いてはいけない。
そうするしかなかった。間違ってなかった。だから泣いてはいけない。
自分に命じて、心に蓋をして、いくつもいくつも鍵をかけて、立ち上がる。噛みしめ過ぎた奥歯が痛い。
キッチンに戻って、そばを茹でた。
ななせの部屋には、もう入れない。最後に一緒にいたのは私だったのに。
ななせの匂いのするベッドで、
『…時間足りねぇ』 1秒を惜しんでななせに満たされていたのは私だったのに。
もう。今は。
茹で上がったそばを湯切りをしたら、蒸気が上がって視界が曇った。
曇ったのは蒸気のせいで、涙のせいじゃない。
水分と一緒に湿った気持ちを振り払う。振り絞る。振り切る。
気持ちを整えて呼吸を整えて、ななせとオリビアちゃんを呼びに行った。
「おそばが出来ましたよ~~~」
必要以上に声を張り上げたら裏返った。
おそばを食べてもらったら、外に出ようと思った。
オリビアちゃんが来ているなら、私はいない方がいい。ただ、穂積さんのことだけは聞いてみなければ。ともかくもそのためにななせに会いに来たわけだから。
「わ、…っ」
思いがけず、すぐに部屋のドアが開いて、危うく出てきたななせとぶつかりそうになった。
「…ありがと」
無駄に動揺している私と違って、ななせは至って普通に戻っている。
普通の。家族に。弟に。
ななせの甘くかすれた声が耳に痛い。脇を通り過ぎたななせの後姿が痛い。
かすりもしない。ななせに触って欲しいと思っている自分が痛い。
「もぉ、ナナ。待ってよ~~~」
続いて出てきたオリビアちゃんに先を譲る。開いたままのななせの部屋のドアをそっと閉めた。
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