竜はお嫁さんになりたい

1/1
前へ
/1ページ
次へ

竜はお嫁さんになりたい

 今日も会社で残業をして、電車に乗ってとぼとぼと家に帰る。今の仕事が嫌いなわけではないけれども、残業が多くなりがちなのだけはなんとかならないだろうか。まぁ、職業柄そうしないとなかなか回らないというのはわかるし、ちゃんと残業代も出ているので、その分まだこの職業の中ではマシな方かもしれない。  最寄り駅で電車を降りてから俺の家までの道は、この陽が落ちてしばらく経った時間でも人通りがそこそこあるところを通る。深夜スーパーに行くだとか、徹夜でカラオケをするだとか、これから飲み会だとか、そういった人達が行き交うのだ。  いつもはそんな感じで人がいるのに、今日はなんだか様子が違った。急に周りに人がいなくなって、コンビニや深夜スーパー、電灯の明かりだけが妙にチカチカと明るい。なんとなく不気味な雰囲気だ。  不安になって早足で歩き始めると、突然後ろからかわいらしい、鈴の鳴るような声が聞こえた。 「もし、そこのあなた」  周りを見渡す。他に誰もいない。そうなると、俺に用事があるということか。 「なんですか?」  そう言って振り向いて、俺は思わず声を上げた。そこにいたのは、頭からは角を、胴体からは細い手だか足だかを四本生やしている、ニシキヘビほどの大きさの見慣れない生き物だった。それが、俺の頭の高さ辺りの中空に浮いている。  思わず腰を抜かしそうになったけれどなんとか踏みとどまり、その生き物をじっと見る。すると、生き物はくりっとした黒い目をぱちくりとさせてから、先程の鈴の鳴るような声でこう言った。 「そんなにこわがらないで」  そんなことを言われても、いきなりこんな見慣れない生き物が目の前に現れて、話し掛けられたらこわい以外のなんでもない。 「え……何者……?」  俺がそううわずった声でいうと、その生き物は俺をじっと見て瞬きをする。 「私は竜神。ずっとあなたを探してたの」  なんで俺が竜神に探されないといけないんだ。そんなに悪いことをしただろうかとますますこわくなる。 「な、なんで俺を探して?」  すると、竜神は頭をふりふりと振ってこう答えた。 「だってあなた、大きくなったら私をお嫁さんにしてくれるって言ったでしょ? 大きくなったからお嫁さんにしてもらいにきたの。約束でしょ?」 「えっ? なにそれ知らない」  俺は小さい頃に竜神に会ったことがあるのだろうか。そんな記憶はないけれどと思いつつ、一応覚えている限りの過去を思い出す。一番古い記憶は幼稚園のものだけれども、その時から、誰かをお嫁さんにするなんて言う約束をした覚えはない。いや、幼稚園の時なら同じクラスの女の子に言った可能性はなきにしもあらずだけれども、今までの人生を振り返って、どう考えても竜神に会った記憶はない。  まぁ、竜神の名前を冠した滝だか神社だかは行ったかもしれないけど、そこもうすらぼんやりとしていてよくわからない。  俺が過去の記憶を一生懸命辿っている間にも、目の前にいる竜神は黒くてくりっとした目からぽろぽろと涙を零している。 「ひどい、ひどい。昔はあんなに優しくしてくれたのに。 私、絶対あなたのお嫁さんになるんだって思って、竜神のお仕事も頑張ったのに。 ひどい、ひどい」 「えっ、あっ、なんかすいません……」  どうしよう、泣かせてしまった。  きっとこの竜神は女の子だろう。たとえ竜神であったとしても、女の子を泣かせるのはあまり良い気分じゃない。  とりあえず落ち着いて貰おうと、俺は竜神に昔の話をしてくれと言った。その話を聞けば俺もなにか思い出すかもしれないと思ったのと、人違いであるならそれを指摘することもできると考えたのだ。 「昔ね、あなたが作ってくれる薔薇のパイが大好きだったの。 私があなたの家に行くとたまに作ってくれて、それが楽しみだった。 私がちょっと失敗したりしても笑って許してくれたり、慰めてくれたり。 優しくしてくれてたの。覚えてないの?」 「んんん……」  薔薇のパイはたしかに俺も作るけど、それを作るようになったのは、中学か高校の時からだ。そしてその頃にこの竜神に会ったというのなら、こんな不思議な生き物のことを忘れるはずはないので、記憶に残っているはずだ。  けれども、俺にはその記憶はなかった。だからきっと、これはこの竜神の勘違いなのだろう。 「きっと、人違いですよ。 俺はあなたに今日初めて会ったし」  それから、それじゃあ。と言って俺は家の方へと歩き出す。すると、竜神が俺の横に並んで付いてきた。 「なんで付いてくるんです?」  俺がそう訊ねると、竜神は舌をチロチロとだして答える。 「だってあなたのお嫁さんだもの」  今日初めて会ったと言ったのに、この竜神は昔約束したのが俺だとまだ思っているようだった。 「俺は、あなたに会うのは初めてです」 「私は初めてじゃないの」 「どこで俺と会ったんですか?」 「ここからね、遠いところ。 海を越えてずっとずっと」  ここから遠いところと言うのはどこだろう。俺はずっと東京に住んでいて、東京の外に出ることはほとんどない。ごく稀に旅行に行くくらいだ。  だから、そもそもそんな、海を越えたずっとずっと遠いところへなんて、行くはずはないのだ。その、ずっとずっと遠くというのがどこなのか、俺にはわからないけれど。  そうこうしているうちに家に付いた。さすがにこの竜神も、家の中までは入ってこないだろう。そう思って竜神に声を掛ける。 「それじゃあ、ここが俺の家なんで。失礼します」  それから、玄関を開けて、ただいま。と中に声を掛ける。すると、ドアの隙間から竜神がするっと家の中に入り込んだ。 「いやいやいやいや、それはだめだよ!」  驚いて俺が竜神にそう言うと、竜神はきょとんとした顔で首をかしげる。 「どうして? 私はあなたのお嫁さんなのに?」 「まずそこ。人違いなんじゃないんですかっていう可能性が」 「人違いなんかじゃないもの。あなたはあなた以外にいないもの」  そんなこんなで玄関ですったもんだしていると、家の奥からぱたぱたと足音が聞こえてきた。 「どうしたの? なにを揉めてるんだい?」  そう言ってやって来たのは姉ちゃんだ。  まずい、姉ちゃんがこの竜神を見たらパニックになるかもしれない。そう思って姉ちゃんと竜神の間に立ったけれども、竜神は俺の顔の横から細長い顔をひょこっと出してしまう。  それを見た姉ちゃんが、驚いたような顔をしてこう言った。 「その子はお友達? はじめて見る顔だけど」 「あー、そういう発想になっちゃう?」  きょとんとした顔の姉ちゃんに、竜神が訊ねる。 「あなたはこの人のお姉さん?」 「あっ、初めまして。姉です」  なんで姉ちゃんは竜神相手に普通に会話ができるの?  俺が思わず戸惑っていると、今度は姉ちゃんが竜神に訊ねた。 「ところで、どんなお友達なんですか?」 「私はね、この人のお嫁さんなの。 昔ね、大きくなったらお嫁さんにしてくれるって約束したの」  それを聞いて、さすがの姉ちゃんも驚いたような顔をする。それはそうだろう。どう見ても人には見えない生き物が、お嫁さんだと言っているのだ。そう簡単には受け入れられないだろう。  そう思ったら。 「幼馴染みなんですね。今まで知らなかったです。 ねぇ、もっと早く紹介してくれてもよかったんだよ」 「んんんんん、姉ちゃんそうじゃねぇんだなぁー!」  竜神の言い分をスルッと飲み込んでる姉ちゃんに、俺はどう弁解するべきか悩む。  とりあえず、このまま幼馴染みだとかお嫁さんだというのをそのまま受け取られても困るので、なんとか弁解する。 「あの、幼馴染みとかお嫁さんとか、それはきっとこの竜神さんの勘違いなんだよ。 俺は今日はじめて竜神さんに会ったし、お嫁さんにするなんて約束もしてないんだ信じてくれ」  すると、竜神が俺の前に出て来て首をふりふりと振ってか細い声で俺に言う。 「でも、私は昔からあなたを知ってるもの。 あなたの作った薔薇のパイ食べたもの。 お嫁さんにしてくれるっていったもの」  だめだ、話が堂々巡りになってる。竜神はどうしても、俺のお嫁さんだということを主張したいようだった。  俺がおろおろして、竜神が泣きべそをかいて、姉ちゃんが竜神を宥めていると、今度は母さんが奥からでてきた。 「あなたたち、いつまで玄関にいるの」  母さんはさすがに竜神を見たら驚くだろう。メンタルが強い方なので、パニックになるということはないだろうけど。  そう思っていたら、母さんは竜神の涙をそっとハンカチで拭ってやって、優しい声でこう言った。 「あなたがこの子の幼馴染みね。聞こえてましたよ。 お友達は歓迎したいけど、今日はもう時間が遅いから、また今度お休みの日に、もっと明るい時間にいらっしゃい。ね?」  母さんも全然疑問を持たない。全く疑問を持たれないことを疑問に思いつつも、俺は母さんの話に乗って竜神に声を掛ける。 「そう、こんな遅い時間だとこっちも色々大変だし、これ以上遅い時間になると、なんていうんだ、あー、その、女の子が家まで帰るのに危ない時間になっちゃうから。 今日はいったんもう帰った方がいいですよ」  すると、竜神は明らかにしゅんとした顔をする。それから、俺のことをじっと見てこう言った。 「やっぱりあなたは優しいのね」  俺は思わず苦笑いする。ああ言って竜神がいったん帰ってくれれば、人違いだと言う事に気づいてくれるかもしれないなんて、そう思っているからだ。まぁ、女の子が帰るのにこれ以上遅くなると危ないというのは本心だけれども。 「それでは、お騒がせしました。 また後日、明るいときに来ますね」  竜神はそう言って、俺と姉ちゃんと母さんにぺこりと頭を下げて玄関のドアの方を向く。それから、ちらっと俺を見てこう言った。 「あのね、扉を開けてほしいの。 手が届かないの」 「あ、なるほど」  竜神の手は小さくて短いので、自力でドアを開けられないようだった。俺がそっとドアを開けると、竜神はその隙間からスルスルと外へと出て行った。  それからしばらく経って。  結局あの後、竜神は直近の休日の昼間に俺の家にやってきた。その時にも、俺は竜神と幼馴染みではないと言う話をしたけれども、姉ちゃんも、母さんも父さんも、覚えてないほど昔の幼馴染みなんだなと言って、その方向で話がまとまってしまった。  いや、幼馴染みどうこうよりも竜神どうこうの方でなんらか戸惑いとか反発とかそういうのがあってもおかしくないと思ったのだけれども、俺の家族はちょっといろいろな物の受け取り方がふんわりしているので、相手が竜神だということは完全にスルーされていた。  なにはともあれ、竜神はちょくちょく俺の家に来るようになって、すっかり俺の家族と馴染んでしまった。幼馴染み云々の謎は全く解けないままだけれども、俺も竜神のことを、なんとなく受け入れられるようになった。  休日の前夜、白いパイ生地を作って、薔薇の花で作った餡を詰めてオーブンで焼いていく。少し前までは趣味のお菓子作りは休日にやっていたのだけれども、休日に一から十までやっていると竜神が来る時間までにお菓子を用意できない。なので、前日のうちに完成させてしまうか、もしくはあとは焼くだけという段階まで持って行ってしまうことが増えた。  今日のお菓子の用意も気合いが入る。竜神はいつも俺が作ったお菓子をおいしそうに食べてくれるので作りがいがあるのだ。 「明日のおやつはなんだい?」  台所を覗いてそう聞いてくる姉ちゃんに、にっと笑って答える。 「薔薇の花のパイ。 明日竜神が来るだろ?」 「ふふふ、はりきっちゃって」  竜神が俺のお菓子をおいしそうに食べてくれている姿は、人間のものとはだいぶ違うけれども、なんだかとても癒やされるものだ。  その姿を思い出して、ぼんやりとパイを焼いているオーブンを眺める。はじめはあんなに戸惑っていたのに、今となっては竜神がうちに来るのが待ち遠しい。  竜神が昔俺が作ってくれたっていっていたパイは、その、俺に多分似ているだろう誰かが作ったパイは、俺が作るものと同じなのだろうか。それともどこか、違うものなのだろうか。その話はきっと、そのうち竜神からゆっくり聞いてみればいいことだ。  オーブンが鳴る。中から焼けた薔薇のパイを出す。甘くて香ばしい香りが台所に広がる。この香りを嗅いで、竜神が喜んでくれるかどうかを考えると、竜神が来るのがとても待ち遠しく感じた。  そしてぼんやりと思うのだ。あの竜神を本当にお嫁さんにしてもいいような気がする。と。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加