610人が本棚に入れています
本棚に追加
─── 時は駆け足で、夏を連れてくる。
今年は未曾有の夏だ。
東京オリンピックはおろか
甲子園をはじめ、学生の汗と涙を象徴する大会も
風流な花火大会も中止になり
夏の故郷帰省も不要不急の外出対象となって
盆休みの閑散とした様子は見せず
都内にはそれなりの人が生活している。
暑い夏の風が吹き、空は青く
雲は白く、呑気にぽっかりと浮かんでいるというのに
『感染』という悪魔の言葉が
心にじわりと暗い影を落としていった。
ウッチーとアリサちゃんは
夏休みに帰省して挨拶を終え
家族として温かく迎えられた、と聞いた。
二人の交際に最後まで大反対をしていた
歳の離れたアリサちゃんの兄上は
ウッチーの決意表明と、
小嶋家のお祖父様の言葉に大号泣をしながら、
ウッチーと朝までお酒を酌み交わした、と聞いた。
全てが順調だった。
アリサちゃんの引っ越しも無事に済ませ
ウッチーのマンションは
二人住まいとなった。
ゆっくりと静かに夏が過ぎていく。
そんなゆっくりとした流れに
ちょっと待った!宣言したのは
我らが女王様、本城エリコだった。
「こっちはこっちで、友人を招いて食事会をしましょう。店のことは私に任せて。良い店があるから。でさぁ、その時アリサにちょっとだけドレスアップさせたくなーい?ウッチーはさぁ、テキトーにその辺のブランドスーツでも来てれば良いけどぉ、女は気合い入れたいじゃない?そこも私に任せて。良いドレスデザイナーがいるから。メイクアップスタッフも用意するわ。決まりね。採寸するから明日にでもアリサを貸してちょうだい。」
まるでお隣さんから
お醤油でも借りるかのように
アリサちゃんを寄越せ、とウッチーに言う。
「え、エリコさん、これからドレスオーダーするの?私の時みたいに。時間無いんじゃない?」
申し出に驚いた私は
ウッチーが問う前に口を出してしまった。
「さすがに今回は既存のドレスで調整するわ。でもいずれ式を挙げるんでしょう?今から花嫁確保しなくちゃね。二人なら写真映えもしそうだし、良いモデルがいるってウエディング関係業に売り込んで…っと。いるのよねぇ、『内野が新郎するときはアタシが撮りたい』っていうカメラマンがさぁ。…うふふふ、いいわね。秋まで盛り上がっていきましょう」
エリコさんの目がぎらりと光る。
完全に商売をするときの目だ。
そんなエリコさんの指で
豪奢に輝くサファイア(巨大)も光る。
『この指輪は私の宝物。特別で嬉しいときにしかしないの』
という、とっておきのサファイアは
相当のカラットをさらにダイヤで囲んでいる。
一体いくらするんだろう……見るたびに思う。
深い海のようなサファイアブルーは
今日のエリコさんの指に収まり、想いを語っている。
『彼女』も祝っているのだ。
ギラギラしているエリコさんも
ウッチーがアリサちゃんを選んだ当時は
複雑な想いを持っていた。
『そんな若い女では
ウッチーを支えてなんてやれないんじゃない?
私なんかにこんなことを言われたくないでしょうけど
両親に手塩にかけられて、愛されて
苦労もなく育ったような子が
ウッチーの持ってる世界を受け止められるの?
アンタのことを分かるの?
私、嫌なのよ、アンタが傷付くのは。
アンタが誰もいないところで泣いてるのは
……もうみたくないのよ』
エリコさんの投げ掛けた本音の言葉を
ウッチーは正面から受け止めて
『誰もいないところで泣いている』という言葉に
瞳の色を揺らめかせていた。
姉であり、母のようなウッチーへの愛情は
彼の本気と覚悟を見つめていた。
エリコさんはユウナとも付き合いが長かったから
自分以上の気持ちが入っている彼女の言葉を聞くたびに
私が言わないで、一体他に誰が言うの、という心を感じて
私はその鋭く美しい思いに胸が痛んだ。
そんなエリコさんが
一生に一度なんだから、と
アリサちゃんを祝いたい気持ちを
惜しみ無く示してくれたこの言葉と
とっておきの指輪を見せてくれた時は
ウッチーと同じくらい……それ以上に
嬉しく思った。
最初のコメントを投稿しよう!