#1 設計図通りにはいかない世の中で

3/3
前へ
/29ページ
次へ
婚姻届の証人、一人は 故郷での食事会をした時に アリサちゃんのお父さんにお願いをしていた。 お父さんは慎重な様子で 一字一字をゆっくり、丁寧に記入していき 印を施すときにウッチーの顔を見て 「ふつつかな娘ですが、末永く頼みます」 言葉を交わす。 ウッチーはしっかりと頷いて 「生涯、大事にします」 父の思いへ応えた姿にアリサちゃんは ぽろぽろと涙をこぼして お母さんにハンカチを渡された、と聞いた。 そして、証人のもう一人。 我が家の居間で婚姻届の用紙を出しながら ウッチーは 「俺側の証人なんてさ、この世でお前しかいないでしょー。ポンちゃんが立候補してくれたけど断っちゃった」 コウの前へ広げて差し出し、 宜しく頼みます、と言った。 コウは書斎へ行き、 愛用の万年筆を数本と印鑑を持ってくると メモ紙を埋めるように、自分の名前を繰返し 練習書きをし始める。 「えー、何だよ。気楽に書いてよ」 ふふふ、と笑うウッチーに 大きく振りかぶってコウは言う。 「バカヤロウ、渾身の一筆をだな……しかし小嶋の父君は達筆だな。遜色ないようにしたためねば。一筆入魂だ」 「そんな大袈裟な…書道家かっ。ジュリちゃんのおばあちゃんじゃないんだからさー」 隣に座るアリサちゃんと笑い合う。 私は婚姻届の用紙を眺めた。 ウッチーは細長く、右上がりの文字面。 アリサちゃんは丸みのある、女性らしい字だ。 なんか良いな。 並んだらとても収まりが良い感じ。 黙ったままそっと眺めている私に アリサちゃんは言った。 「ジュリさんが達筆だってリョウから聞きました。よかったら何か、書いてもらえませんか?」 「いやいやそんな、達筆というものではないけれど……書道を少々好んでおります。お目汚しになりますが」 私はコウの持ってきたメモ紙の一枚を貰い コウの持ってきた万年筆の一本を借りる。 この万年筆は、コウのお父様が 成人式の時にくれたものだ。 年代物のモンブラン。 ボディは今夜の夜の空のような 吸い込まれそうな群青、インクは黒。 ペンを握ると そこにはコウの気配がある。 万年筆はとても不思議で 持ち主の魂を分け合っている気がする。 私は深呼吸をする。 彼の心を吸い込んで グッと筆を握るとペン先を落とす。 粉雪を指でなぞるような感触にうっとりしながら メモに一文を書き記した。 「わ、なんかすごいです……『天に星 地に花 人に愛』ですか。……うーんと、どういう意味でしょう?」 ちょっと困った顔をして 私を見るアリサちゃんの傍らで ウッチーはじっとメモを見つめている。 練習書きを終了させ、 いよいよ本番というところでコウは言った。 「武者小路実篤だな、出典は諸説あるが。『この世で最も美しいものは、天においては星、地においては花、人においては愛』という意味だ。ウッチーの実家に、額装された絵の横にこの言葉があったんだよ。初めてそれを見たとき、コイツがどこからやって来たのかを知ったような気がした。」 「へぇー!なんかすごいですね……斉賀さんはリョウの故郷や育った家、お祖父さんを知ってるんですよね。いいなぁ、私も見たかった、お会いしたかったぁー」 ウッチーは小さく微笑んで 気持ちに思い出を映すように語った。 「『そこになくてはならないもの』、だね。世の(ことわり)、願いでもあるって…ジジイがよく言ってた。俺はガキだったからさ、文学とか全然分からなくてね。ジュリちゃん、よく知ってたね。この事は斉賀から聞いたの?」 「うん、印象的だったから覚えてた」 「……そっか。ね、このメモ俺がもらっていい?」 「いいよ」 私の手渡すメモを ウッチーは受け取って眺める。 目を細めて、そっと閉じる。 在りし日の家を思い出しているのか 息を深く吸い込んでいく。 そして大切そうに折ると、お財布へしまった。 「来月の墓参りの時にさ……ジジイに報告してこれを見せるよ。斉賀の嫁が書いたんだって言ったら喜ぶと思う」 婚姻届へコウの名前を記入して お祝いに四人で飲み始める。 ほろほろと酔い始めたときに 実家にあった実篤の言葉は ウッチーのお母様がウッチーを身籠った時に 書いたものである、と聞いた。 生まれてくる新しい命への願いを どのような気持ちで、どんな文字で書かれたのか。 『そこになくてはならないもの』を示して 自分が去ったあとも彼の心へ残したお母様もまた 語り継がれた今を喜んでいる気がして 心の奥に万感という言葉が浮かんだ。 そして、ある晴れた日に ウッチーとアリサちゃんは 二人で役所へ行き、婚姻届を提出した。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

610人が本棚に入れています
本棚に追加