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婚姻届の証人、一人は
故郷での食事会をした時に
アリサちゃんのお父さんにお願いをしていた。
お父さんは慎重な様子で
一字一字をゆっくり、丁寧に記入していき
印を施すときにウッチーの顔を見て
「ふつつかな娘ですが、末永く頼みます」
言葉を交わす。
ウッチーはしっかりと頷いて
「生涯、大事にします」
父の思いへ応えた姿にアリサちゃんは
ぽろぽろと涙をこぼして
お母さんにハンカチを渡された、と聞いた。
そして、証人のもう一人。
我が家の居間で婚姻届の用紙を出しながら
ウッチーは
「俺側の証人なんてさ、この世でお前しかいないでしょー。ポンちゃんが立候補してくれたけど断っちゃった」
コウの前へ広げて差し出し、
宜しく頼みます、と言った。
コウは書斎へ行き、
愛用の万年筆を数本と印鑑を持ってくると
メモ紙を埋めるように、自分の名前を繰返し
練習書きをし始める。
「えー、何だよ。気楽に書いてよ」
ふふふ、と笑うウッチーに
大きく振りかぶってコウは言う。
「バカヤロウ、渾身の一筆をだな……しかし小嶋の父君は達筆だな。遜色ないようにしたためねば。一筆入魂だ」
「そんな大袈裟な…書道家かっ。ジュリちゃんのおばあちゃんじゃないんだからさー」
隣に座るアリサちゃんと笑い合う。
私は婚姻届の用紙を眺めた。
ウッチーは細長く、右上がりの文字面。
アリサちゃんは丸みのある、女性らしい字だ。
なんか良いな。
並んだらとても収まりが良い感じ。
黙ったままそっと眺めている私に
アリサちゃんは言った。
「ジュリさんが達筆だってリョウから聞きました。よかったら何か、書いてもらえませんか?」
「いやいやそんな、達筆というものではないけれど……書道を少々好んでおります。お目汚しになりますが」
私はコウの持ってきたメモ紙の一枚を貰い
コウの持ってきた万年筆の一本を借りる。
この万年筆は、コウのお父様が
成人式の時にくれたものだ。
年代物のモンブラン。
ボディは今夜の夜の空のような
吸い込まれそうな群青、インクは黒。
ペンを握ると
そこにはコウの気配がある。
万年筆はとても不思議で
持ち主の魂を分け合っている気がする。
私は深呼吸をする。
彼の心を吸い込んで
グッと筆を握るとペン先を落とす。
粉雪を指でなぞるような感触にうっとりしながら
メモに一文を書き記した。
「わ、なんかすごいです……『天に星 地に花 人に愛』ですか。……うーんと、どういう意味でしょう?」
ちょっと困った顔をして
私を見るアリサちゃんの傍らで
ウッチーはじっとメモを見つめている。
練習書きを終了させ、
いよいよ本番というところでコウは言った。
「武者小路実篤だな、出典は諸説あるが。『この世で最も美しいものは、天においては星、地においては花、人においては愛』という意味だ。ウッチーの実家に、額装された絵の横にこの言葉があったんだよ。初めてそれを見たとき、コイツがどこからやって来たのかを知ったような気がした。」
「へぇー!なんかすごいですね……斉賀さんはリョウの故郷や育った家、お祖父さんを知ってるんですよね。いいなぁ、私も見たかった、お会いしたかったぁー」
ウッチーは小さく微笑んで
気持ちに思い出を映すように語った。
「『そこになくてはならないもの』、だね。世の理、願いでもあるって…ジジイがよく言ってた。俺はガキだったからさ、文学とか全然分からなくてね。ジュリちゃん、よく知ってたね。この事は斉賀から聞いたの?」
「うん、印象的だったから覚えてた」
「……そっか。ね、このメモ俺がもらっていい?」
「いいよ」
私の手渡すメモを
ウッチーは受け取って眺める。
目を細めて、そっと閉じる。
在りし日の家を思い出しているのか
息を深く吸い込んでいく。
そして大切そうに折ると、お財布へしまった。
「来月の墓参りの時にさ……ジジイに報告してこれを見せるよ。斉賀の嫁が書いたんだって言ったら喜ぶと思う」
婚姻届へコウの名前を記入して
お祝いに四人で飲み始める。
ほろほろと酔い始めたときに
実家にあった実篤の言葉は
ウッチーのお母様がウッチーを身籠った時に
書いたものである、と聞いた。
生まれてくる新しい命への願いを
どのような気持ちで、どんな文字で書かれたのか。
『そこになくてはならないもの』を示して
自分が去ったあとも彼の心へ残したお母様もまた
語り継がれた今を喜んでいる気がして
心の奥に万感という言葉が浮かんだ。
そして、ある晴れた日に
ウッチーとアリサちゃんは
二人で役所へ行き、婚姻届を提出した。
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