第一章:拾った仔猫

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第一章:拾った仔猫

1  汗が飛び散っていた。その映像だけを切り取ったならば、それはきっと怪しげな宗教の集団陶酔とさほど変わらないのではないだろうか。その場にいる多くの者が、何かの薬物に酔いしれるかのように首を振っている。ある者は大声を上げ、またある者は拳を振り上げている。目を瞑り、恍惚の表情を浮かべる者もいる。彼らの全てに共通するものは、脳を痺れさすような多幸感なのかもしれない。  群衆の一番後ろに陣取る万理は、その儀式にも似た光景を眺めながらそんな風に思った。  しかし・・・ と万理は考える。自分は彼らとは違うのだ。そんな狂信的とすら言えそうな集団とは一線を画し、別な視点、別な価値観を持ってこの場に来ているのだから。彼らの身も心も揺り動かすこの音には、無論、自分だって惹かれている。だが今の自分ににとって最も大切なものは・・・。  万理は群衆から視線を外し、もう一度それを見た。ボーカル、ギター、ベースそれぞれが躍動するステージ上において一人、一か所に留まり、キラキラと輝く金属光沢を身に纏うようにして座する者。万理の心を鷲掴みにして離さない者。万理はそのドラマーを観る為に、聴く為に、そしてその息遣いを感じる為に、渋谷、道玄坂にあるこのライブハウスに足を運んでいたのだ。  マイクスタンドを握ったまま跳躍したボーカルの動きに合わせ、全員が一斉に音を切った。そして沈黙が訪れた。すぐさま群衆は歓声を上げ、その静寂を覆い隠したかと思うと、彼らを快楽の世界へと引き摺り込んでいた曲の終焉に賞賛の喝采を送る。しかし万理は、その次の展開を待ち望んでいたのだった。この曲の後には必ず、ドラムソロが待っているのだ。それはこのアマチュアバンド、DIRTY NOBLEのいつものパターンだ。  静けさを取り戻した会場に、微かなスネアロールが響き、観客たちが息を飲む。そしてそれは次第に音圧を上げ始め、徐々に高まる音に(くさび)を打ち込むかのように、バスドラが絡み出す。時折、シンバルを叩く為に振り上げられたスティックが残像の弧を描き、万理の心を揺さぶる暴力的な破壊音が響いた。そして上昇し切った内圧を一気に放出するかのように、怒りにも似た感情の昂ぶりを開放するかのように、豪快で無骨なドラムソロが始まった。  再び汗が飛び散った。無心でドラムセットに挑むその姿を観る度に、そしてその音を聴く度に、万理の身体の芯がカッと暑くなる。それと同時に鳥肌が立ち、背筋に冷たいものが走るのは何故だろう。彼女がこのドラムソロを目の当たりにする時はいつも、同じような不思議な感覚に囚われるのだった。  膝がガクガクと揺れ、立っていられなくなる。鼓動が速くなり、息遣いも荒れる。頭がぼーっとして紅潮した頬は熱を帯び、視界は虚ろにぼやけてしまう。なのにゾクゾクとした感覚が体中を駆け巡り、彼女の身体を震わせる。  万理は思う。自分は今、犯されているのだと。このドラムソロによって万理の着る服は乱暴に剝ぎ取られ、あられもない姿を曝け出しているのだと。その全身は強く激しく、そして時には甘く優しく愛撫されているのに他ならないのだと。  そんな時、万理が必ず思い出すことが有る。それは彼女の心に癒えることの無い傷を残し、想い出したくもない出来事だった筈なのに。何故それを思い出してしまうのか、彼女にはどうしても解からない。解からないけれど、彼女の心が大きく揺らいだ時、それは決まって疼くような痛みを伴って浮かび上がるのだ。二年前の、その出来事が。 *****  共働きの両親は会社に行く時間も帰ってくる時間もバラバラで、三人が顔を合わせて食事をすることは少なかったと思う。それでも仲が悪いとか、会話が無いとか、家庭が崩壊しているといった感じは無く、むしろ仲の良い家族だったと記憶している。しかし、そんな家庭に変化が訪れた。あのCOVID-19である。  巷で大流行したウィルスは、社会の在り方自体を変えてしまった。あの未知のウィルスによって、(かねて)てより念仏のように唱え続けられていた『働き方改革』なるものが、否応なしに押し寄せてきたのだ。それまで口先だけで改革を唱え、世の中の動向をいち早く先取りしているかに装ってきた企業の多くは、背中に銃を突きつけられる形で、その就業形態の大変革を余儀なくされたのだった。  その結果、大手企業に勤める父だけはテレワーク主体の仕事へとシフトし、中小企業に勤める母が家を空けがちになったのだ。都内の私立高校に進学したばかりの万理が帰宅すると、父だけがいるという状況だ。最初はそれでも問題は無かった。むしろ、普段あまり顔を合わせることの少ない家族が一緒にいる時間が増え、万理としてはむしろ、それを歓迎してすらいたのだった。  ところがある日、学校から帰宅して自室で音楽を聴いていた時だ。リビングでパソコンを操作していた筈の父、儀匡が万理の部屋に入って来た。いつもならノックをしてから入ってくるのに、その時はドアをそっと開けて入って来たのだ。ヘッドフォンをしていた万理は、彼が背後に立ったことにも気付かなかった。背後から伸びた儀匡の両腕が、彼女の乳房を鷲掴みにするまでは。  あまりの出来事に言葉を失った万理が振り返り、目を剥いて父を見ると、儀匡は乱暴に彼女を椅子から立たせ、一人用のベッドに放り投げたのだった。そしてその上に伸し掛かり、彼女の服を引き千切った。  万理は抵抗した。身長168センチという、日本人女性としては大柄な方ではあったが、大学時代にラグビーで鍛えた儀匡の前では非力な子供に過ぎない。叩いても、爪を立てても、或いは悲鳴に近い声を上げても、儀匡の乱暴を止めることは出来なかった。父が実の娘のブラジャーを剥ぎ取る頃には、既に万理の戦意は喪失していて、もうなされるがままだ。涙を流しながら唇を嚙み、その恥辱にまみれた行為が終わるのを待つだけだ。悔しくて、辛くて、痛くて、悲しくて涙が止まらなかった。  そして儀匡が万理の履くショーツを引き摺り下ろし、その奥の柔らかな部分に分け入った時、彼女の中で何かが壊れる音がした。  キシキシと軋むベッドの音が、時を刻む時計の音のように部屋に漂い、静かな空間を満たしていた。その時の揺れる天井の景色を、万理は今でもはっきりと覚えている。儀匡の不快な息遣いも耳に残っている。自分の身体の中に侵入してきた、忌まわしい異物の感触も忘れることが出来ない。  事後の儀匡の(おぞ)ましい優しさは、それらの傷を刺青の如く万理の心に刻み付け、決して後戻りできない何かに触れてしまったことを、彼女に思い知らせたのだった。  自分はもう、これまでの自分とは違うのだと、彼女は漠然と感じていた。 *****  ドラムソロが終わり、DIRTY NOBLEは次の曲を始めていた。しかし万理はドラムソロの余韻に浸り切ったまま、ライブハウスの壁に寄り掛かるようにして虚ろな視線をステージに向けていた。観客のボルテージは更に高みへと移行し、その空間全体が激しく上下運動を始めたかのような錯覚に万理は陥っていた。だがそれも、なんだか遠い国の出来事のようだ。  いつもそうだ。DIRTY NOBLEのドラムソロを聴くと、彼女は悦楽感と充足感と虚脱感を同時に感じ、いつまでもこのままでいられるのならば、この怠惰な想いに浸っていられるのならば、全てを失っても構わないとすら思える程の境地に達するのだった。  彼女は不確かな足取りでカウンターの前を抜けた。そしてライブ告知の貼り紙や落書きで埋まったドアを開けると、今まさに会場で演奏されている爆音が、外の世界に溢れ出た。丁度、圧縮された空気が逃げ場を求め、わずかな隙間を押し広げるように。次いで外に出た彼女がドアを放し、それが勝手に閉じられた時には、再び内部の音は僅かに漏れ出すだけとなった。  そしてジメジメとした狭い階段をゆっくりと登る。階段の両側にも、所狭しとライブの告知やらポスターが貼られている。この階段を登り切れば、そこは賑やかな夜の街、渋谷だ。サラリーマンや学生、恋人たちが闊歩する眠らない街。  万理はいつも思う。これは異空間から現実世界に戻るための、タイムトンネルのような階段に違いない。或いは、この上が異空間なのか。いずれにせよこれを登り切れば、自分はもっと普通の十七歳に戻れるのではないかと思えるのだ。  そんな妄想に心を弄ばせながらも、しかし一方で、頭のどこかではその期待は必ず裏切られることも知っていた。  地上に出ると、深呼吸のように大きく息を吸い込む万理。そしてゆっくりと吐く。その息は、煌びやかな原色のネオンやディスプレイに照らされて膨張し切った、都会の淀んだ空に吸い込まれてゆく。そして、けたたましく鳴り響く自動車のクラクションや、店舗先から垂れ流される軽薄な音楽がその後を追っていった。  東横線の渋谷駅に向かって歩き始めた彼女の足取りは、ライブハウスにいた時と違ってしっかりとアスファルトを踏みしめていた。
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