第一章:拾った仔猫

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2  センター街にある居酒屋で、DIRTY NOBLEのメンバーが祝杯を上げていた。別に祝うべきことなど無いのだが、ライブ明けにはこうやって打ち上げをするのが恒例なのだ。誰が言い出すともなく、自然と出来上がった習慣である。  「カンパーーーィ!」  「乾杯!」  「かんぱーい!」  大学に入学し、ロック研究会なるサークルで出会った同期生同士が意気投合して結成したバンド。それがDIRTY NOBLE。当初は高校生のお遊びバンドに毛が生えた程度であった実力も、既に活動歴は三年目に突入し、そのレベルは相当なものにまで高まっている。そういった気心も知れた仲間で四人掛けのテーブルを囲み、ベース担当の健志(たけし)がまず口火を切った。明確な取り決めが有るわけではないが、彼がリーダー格である。  「今日の客、ノリが良かったな。やっぱ池袋よりこっちの方がイイ感じじゃね? あっちはホラ、埼玉の田舎から出てきた奴らばっかりだからさ。やっぱ、ちょっとなぁ~」  すると、川口市出身の(みつる)が食って掛かった。  「何だとーーーっ! 埼玉の悪口は俺が許さん!」  そうやってムキになるからイジられるのに、毎度毎度、埼玉ネタでは不毛なバトルが繰り広げられる。  「んん。確かに。お前のボーカルは、埼玉の田んぼで鍛えた声だもんな。埼玉をバカにしちゃいかんな。俺が悪かったよ、充」  「ウチの近所に田んぼなんか無ぇし! 田んぼで声鍛えるって、意味判んねぇし!」  二人の毎度の口論を聴きながら、北海道出身でギター担当の興毅(こうき)が呆れた風に言う。  「ってか、池袋って埼玉県だろ? 違うの?」  それを聞いた充がポカンとした顔を向けた。健志は腹を抱えて笑う。  「がははははーーーっ! よく言った、興毅! 確かにあそこは埼玉みたいなもんだ!」  堪らず充が吼える。  「お前はキタキツネとルールルルーやってりゃいいんだよっ!」  「俺は富良野じゃねぇよ! 旭川だよ!」  「旭川にはキタキツネはいねぇのかよ!?」  「そ、そりゃ少しはいるけど・・・」  「やっぱりいるんじゃねぇか、ルールルルーがっ! 解かった! 今度のライブでルールルルーって歌ってやるよ! さだまさしだ! お前、アコースティックギター持ってこい!」  「うるせぇ! ルールルルーはさだまさしじゃねぇ! 蛍だ!」  「わははははーーっ! やめてくれお前ら・・・ バカバカし過ぎる・・・ ぶぅあっはははーっ!」  そして一しきり笑って、笑い疲れた健志がテーブルの隅でクスクスと笑うもう一人のメンバーに話を振った。  「蘭子は横浜出身だったっけ?」  すると、海鮮サラダを(つつ)いていた蘭子が箸を止めた。彼女がDIRTY NOBLEのドラマーだ。  ボーイッシュで整った顔立ちにショートヘアー。無駄な贅肉は無いが、決して瘦せ過ぎではない引き締まった身体。これでもう少し背が高ければ ──彼女は小柄で、身長160センチ程しかない── モデルにでもスカウトされそうな外見だ。本人は161だと言って譲らないが、他の三人は、本当は159程度ではないかと踏んでいる。  「私? そうだよ。横浜つってもだいぶ隅っこの方だけどね」そう言ってまたサラダを(つつ)き始める。  しかしその外見とは裏腹に、聴く者を圧倒するかのようなパワフルなドラミングが彼女の持ち味であることは、DIRTY NOBLEのライブを観た者なら誰もが納得する筈だ。そのミスマッチな感覚は、時に彼女が奏でる音楽以上に強烈な印象を残す。  「横浜ねぇ・・・」埼玉の充が不満そうに漏らす。「お上品でお高くとまってる印象だなぁ。てか、神奈川じゃなく横浜って言ってる時点で、一般庶民を見下している感が凄いぞ」  「確かに、神戸って言う兵庫県民とか、下町って言いたがる東京都民とかいるよね」  充に同意する健志は、東京とは言っても西の方、東村山の出身だ。そこは志村けんが有名になるまで「未開の地」とか言われていたエリアで、むしろ埼玉に対しては同情的ですらある。街に出る時、国分寺に出るか所沢に出るかで性格が分かれるお土地柄だ。  「そんなことないって」と、蘭子は箸で二人の顔を差しながら言った。「横浜つってもさぁ、山の方じゃ猿は出るし猪も出る。栗鼠だってその辺の枝でチョロチョロ走り回ってるんだよ。ほら、ゴキブリだって、こんな大っきいんだから」と、海藻の絡み付いた箸を広げて、その尋常ではない大きさを示して見せた。  それを見た充が蒼ざめる。  「マジかっ!? 東南アジアか、そこはっ!?」  しかし今度は、興毅がポカンとした顔をした。北海道にはゴキブリがいないので、そのキャラクターを把握し切れていないのだ。  「えぇっ? なんで? ゴキブリって可愛いじゃん」  「馬鹿かお前はっ!?」  「わははははーーーーっ!」  こんな風に浮足立って始まる飲み会も、いずれ落ち着いた雰囲気を取り戻す。普通なら飲む程に羽目を外すものだが、DIRTY NOBLEのメンバーは、むしろその逆だった。それは酔いが増すほどに取り上げられる話題が、各自の共通言語である音楽の話へとシフトしてゆくからだ。馬鹿話をしていたとしても、音楽にかける情熱は皆同じ。時には意見の衝突もあるが、共に上を目指す気持ちには変わりは無い。  ただし時間は限られている。それは全員が認識している事実だ。大学を卒業するまでに、何らかの()を残さなければ、そのままフェードアウトするようにバンドから足を洗うことになるのは目に見えているのだから。それ以降は「趣味は音楽鑑賞です」「学生の頃はバンドをやってました」「ギターが少し弾けます」といった、つまらない一行がプロフィールに追加されるだけで、傾けたはずの情熱も時間も干乾びたピザのように、生活の片隅へと追いやられてしまうのだ。  彼らにはまだ、その固くなったピザを愛おしそうに眺めるだけの人生を送る勇気が備わっていない。夢を追い続けるべきか、着実な道を歩むべきか。そんな大命題が四人の行く末に音も無く鎮座し、じっとこちらを窺っていることを全員が承知しているからこそ、音楽の話ではよりシリアスになる。それぞれがどのような結論を導き出すにせよ、それは時間制限付きで決断を下さねばならない必須案件なのだ。  「俺はさぁ。インストも少し取り入れたらどうかと思ってるんだよ」  健志の提案に充が渋い顔をしてみせた。それもその筈。インストとはインストルメンタル、つまり歌の無い楽曲のことだ。つまりボーカル担当の充には出番が無い。  「えぇ~、インスト~? それじゃ俺は何すりゃいいんだよ?」  「お前だってギターくらい弾けるだろ? リードは興毅に任せて、バッキングに徹すればいいじゃん」  「そんな、人に聞かせされるようなレベルじゃないって。全体のサウンドを壊しちゃうよ、絶対」  同時に、別な視点から興毅も難色を示す。  「メロディ楽器がギター一本、俺一人でインストってのは厳しいんじゃないか? ライブでは音を重ねられないんだし。せめてツインリードにするか、キーボードでもいてくれればなぁ」  すると充が手を挙げた。  「あっ、俺、小学生の頃はピアノ習ってたよ」  「えぇっ!? マジかっ! 早く言えよ、そんな大事なこと! なんで今まで黙ってた!?」  健志が目を丸くして叫んだ。興毅も身体を乗り出した。  「どれくらい弾けるんだ?」  「う~んと・・・ 赤バイエルが終わったくらいだな」  一瞬、沈黙が降りてきた。そして興毅が、真っ赤な顔をして突っ込みを入れる。  「人前で弾けるようになるのは、いつなんだよっ! ったく・・・」  「わははははーーーーっ! お前ら、面白い!」  健志の馬鹿笑いにつられ、蘭子も思わず笑う。  最後はいつも、こんな風に馬鹿話になってしまう。だがそれは、自分の置かれているシリアスな状況から脱却する手立ても無く、そこから目を逸らざるを得ない弱者たちが楽しく生きてゆくための、細やかな知恵なのかもしれないと蘭子には思えるのだった。  結局、終電近くまで飲んでいたバンド仲間と別れて、綱島の自宅に辿り着いた時には、夜中の一時を回っていた。  「少し飲み過ぎたかな?」  蘭子は二階建てアパートの階段を登りながら、ふと夜空を見上げてみる。しかし分厚く覆い被さる都会の空気が蓋をして、輝いているはずの星は一つも見えない。その代わり、チカチカと点滅しながら飛び去ってゆく飛行機の航空灯が、繁華街の照り返しを受けて薄明るく濁る空を横切っていた。暫く目で追っていると、それは向かいのマンションの陰へと音も無く姿を隠し、彼女の視界から消えていった。  (みんなは真剣に音楽と向き合っているのに、私は何処に行きたいんだろう・・・)  溜息だけをそこに残し、彼女は階段を登り切った。そして左に折れて五メートルほど進み、自室の玄関前に立つ。そこでゴソゴソとポケットをまさぐり、その中から取り出した鍵を差し込もうとしたその時、ガチャリといってドアが内側から開かれた。  「お帰りなさい」躊躇いがちに開かれた隙間から顔を覗かせたのは、微かな笑みを湛えた万理だった。  「ただいま。ごめんね、遅くなって」蘭子が笑った。  今は真夜中である。ご近所迷惑にならないように、声は抑え気味だ。  「ううん」  万理は首を振りながら玄関ドアを大きく開き、蘭子を受け入れた。その足元には、女物のボーンサンダルやらモカシン、ジョッパーブーツやらが散乱している。そして蘭子が、大きな音が立たないように玄関ドアを閉めて振り返るや否や、万理が彼女の手を掴んだのだった。  蘭子がスニーカーを脱ぐのもままならない程の勢いで、その手をグィグィと引っ張る万理。  「ちょ、ちょっと待って・・・」  「早く早く」  「ちょっと待ってってば。私、まだシャワーも浴びてないんだから」  「シャワーなんていいから・・・」  部屋の中央まで蘭子を引っ張って来た万理が、その長身から見下ろすような角度で蘭子を見つめた。そして沈黙。蘭子も片手を万理に取られたまま、彼女の目をジッと覗き込む。小柄な蘭子は見上げる様な格好だ。  もう一度、万理が言った。  「シャワーなんていいから・・・ 早く・・・ 来て」  それを聞いた蘭子は万理の肩をドンと突いて、彼女をベッドに押し倒す。万理は後ろ手を突くような恰好でペタンとベッドに崩れ落ち、上体を起こした姿勢で蘭子を見上げた。そして蘭子はすぐさま、万理の太腿の上に跨るようにして馬乗りになると、両手で彼女の顔を包み込んで唇を押し付けた。少々乱暴なそれを、万理は黙って受け止めた。  半ば開かれた万理の唇は、蘭子のそれを求めていた。蘭子は彼女の求めるそれを与えてやる。蘭子が自身の舌を万理の唇の間に差し入れると、万理の舌がそれに艶めかしく絡みつき、そして蘭子の中にも入って来た。二人の舌と舌が奏でる唾液の音が真夜中の部屋に充満し、お互いの甘い吐息が熱く耳元に漂っていた。  万理が舌を抜いてクスリと笑った。  「お酒臭い」  蘭子も笑う。  「汗臭いのはいいの?」  唇を離しつつも額をくっつけ合うようにして蘭子が言うと、万理が再びクスリと笑った。  「蘭子の汗、大好きだよ」
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